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気がつけば、駅のコンコースの小さな照明が一つ、また一つと消え出し、
駅は、それまでの活気とは裏腹に、寂しい雰囲気をかもし出している。
改札口上部に設置されている電光掲示板には、電車情報が一件しか記載されていない。
エスカレーターで登った後にその電光掲示板を目にした者は、皆腕時計や携帯で時間を確認し、
あまり時間に余裕がない事を知ると、足早に改札口へ向かっている。
エスカレーターの手すりにもたれかかるようにして、コンコースへ上がってきた水木卓も、
また同様に電光掲示板を一瞥した。
「あぁ……終電か。もうか……」
それを口の中で小さく呟き、小さく息を零す。
吐いた息は、白くて丸い気体となり、気体はすぐにその形を失い、消えてしまう。
水木はコートのポケットに両手を入れると、掲示板の隣に設置されている時計に視線を動かした。
終電まではあと5分。
平日だからだろうか。普段は終電ともなれば相当な数の人々が改札口を通っていたが、
この日は数える事ができる程度だった。
ポケットの中から、買っておいた切符を取り出すと、水木もまた改札口を通った。
ホームには既に電車が着いている。
人の多い最後尾の車両を避け、前の車両へと進む。
前から二番目の車両は大分空いていて、他人と肩を合わせずとも座れる程度だった。
水木は躊躇わずその車両に入る。
だが、座る気がしない。
気持ちが整理できず、とても身体を落ち着ける気にはならない。
代わりに、反対側の閉じられたドアに身体を預ける。
もう、足に力を入れて立たなくても良い。
楽なはずだ。
だけれども………。
「だからね、君ね、あんな事した課長はどうせ長くないんだってね」
「えぇ、やっぱりそうですよねぇ、ええ、ええ」
色々考え込もうとした所で、横の座席に座っているサラリーマンの会話が耳に入ってきた。
ひたすら自慢げに教訓話をする男と、ひたすらそれに相槌を打つ男。
口調からすると、教訓男の方はだいぶん酔いが入っているようだ。
なんだこいつ、だらしなくベロンベロンになってるくせに、偉そうな事言いやがって。
もう一人の男も、取り入ろうって下心がみえみえなんだよ。
「いやぁ、係長、勉強になりますよ!」
だからやめろってんだよ、馬鹿。
二人の襟首を掴んで、頬を殴り飛ばしてやりたい衝動に駆られる。
腹が立つ。些細な事なのに、腹が立つ。
本当は分かっている。
彼らの言葉だって、ストレス発散であり、処世術。
本当に腹が立つのは、自分。
汚く聞こえる彼らの会話にだって、意味はある。
意味。それが今の自分には無い。
今日、大切な何かを喪失した事で、自分の存在する意味が大きく失われた気がする。
だから、自分に腹が立つ。
本当に殴り飛ばしたいのも、自分だ。
その憤りを抑えるかのように、ゆっくり目を閉じる。
当然、何も見えない。
だからだろうか。あれから何度も何度も頭の中で再生されている情景が、また浮かんでくる。
水木卓×野々村愛三部作 3
誰かの見た夢
野々村愛に呼び出されたのは、いつもの喫茶店だった。
水木は約束の時間より10分早く着いたが、彼女は既に店内でミルクティーを前にして腰掛けていた。
「愛ちゃん、今日は早いね」
コートを脱ぎながら、彼女の向かいの席に座る。
そんな水木に対し、愛は何も言わず、ただ綺麗に微笑む。
その顔を見ただけで、何が始まるのか、分かった気がした。
ウェイターが早速注文を聞きに来たので、コーヒーを注文する。
ウェイターが去ると、それを待っていたかのように、愛は早速口を開いた。
「水木さん、理由も言わずに突然呼び出しちゃってごめんね」
「いいって。どうせオフなんだし、ゆっくり出来るのはこんな時ぐらいだもん」
「うん、ありがとう」
力無くそう言うと、ティーカップを口に付ける。
それが妙な間となった。
声を掛け辛くなった水木は、携帯を取り出して、あてもなく送受信メールを見て回った。
受信メールのうち四分の一程度は、受信フォルダ『愛』に届けられている。
昨晩呼び出しのメールが届いているが、それ以前の受信は一週間前となっている事に、今気がついた。
今度は、昨晩以前の彼女への送信メールを確認。
これもやはり一週間前だった。
ウェイターがコーヒーを運んできた。
だが、別に飲みたくて頼んだわけではない。
水木はコーヒーをテーブルの端に寄せ、居住まいを正した。
真剣な表情を作り、それから真っ直ぐに愛を直視する。
彼女は俯き、かろうじて視界の隅に自分を入れているようである。
「……用件、何?」
単刀直入に尋ねる。
もしかしたら、声が震えていたかもしれない。
用件に目星は付いていたが、それを直接聞く勇気は無かった。
「あのね……」
彼女の声はいよいよ力を失う。
視線は相変わらず、水木から外れている。
ほんの僅かの間ができるが、水木にはそれがとても長く感じられた。
いや、自分だけではなく、彼女もそう思っているのだろう。
聞きたくない。
言いたくない。
だけれども、もう、避けられないのだろう。
彼女が言葉を続けた。
「別れよう」
思った通りの言葉だった。
「……俺が、最近冷たいから?」
そう言った自分の表情は特に変わっていないだろう、と思う。
確かに最近の自分は、彼女とコミュニケーションを取っていない。
ただ、コミュニケーションを取ろうとしないのは、彼女も同様だった。
この瞬間がいつか来る。
そんな考えが自分の奥底に眠っていたから、彼女の言葉に気が付いたのだろう。
「冷たくなんかないよ」
「じゃあ、なんで?」
「……このまま付き合い続けても、別れる事になると思うから」
「なんでさ?」
「だって私もう必要無いじゃない!」
愛は突然テーブルを叩き、強い口調で言葉を返した。
水木の言葉をくるめてしまうかのような強さ。
周囲の客や店員が二人を一瞥する。
水木も思わず目を丸くしたが、すぐに強い視線を彼女に返す。
同じように、愛は水木を見つめ返した。
強い目。
何かを訴える意思を持った目。
だが、その強さの奥には悲しさが宿っていた。
「……付き合って一、二年の間は楽しかったよ……。
水木さん、私を頼ってくれていたし、拠り所に思ってくれていたよね。
私もそれに応えたかったし、心の底から愛し合えていたと思うの」
声のテンションが若干落ちる。
だが、その視線は変わらずに水木に向けられている。
水木は何も言わず、表情を変えない事で、その言葉を肯定した。
「だけど、今の水木さん、そうじゃないよね? 強くなったと思うの。私なんかよりも。
……私に頼らなくても大丈夫だよね?」
「そんな事は……」
二の句が出てこない。
彼女の言う通りだった。
水木卓という人間は、外に見せる事こそ少ないものの、ネガティブでつまづきやすい人間だ、と水木卓は思っている。
だから、彼女の支えは大きかった。
自分の多くをさらけ出し、寄りかかれる存在がいるという事は大きかった。
彼女のお陰で、自分はここまでやってこられたと思う。
何度元気付けられたか分からない。
だけれども、今は違う。
人は同じ事を重ねれば、その事に耐性ができる。
年と経験を重ねるにつれ、水木にもその耐性ができた。
些細な事で悩む事は少なくなり、彼女の支えが無くとも耐えられるようになった。
それは、人を知るという事なのかもしれない。
愛は水木の言葉を待たずに、小さく首を振った。
「ううん……だからって、水木さんが私の事を嫌いになったんじゃ無い位、分かるわ。
だけれども………私は、そんな水木さんを心の底から愛せないと思うの。
本当に愛し合えていないのなら……いつか別れる事になるのなら、早いうちが良いと思うの」
「それは理想じゃないの?
いつまでも、出会った頃のまま愛し合えるカップルなんて、そういるものじゃないんじゃない?」
水木は反論した。
だが、ただ頭に浮かんだ言葉を脊髄反射で返しただけ。
それは、どこか他人事のような口調である気がする。
自分でも何を主張したいのか分からない。
全て彼女の言う通りではある。
確かに今でも彼女の事を愛しているという気持ちは変わらない。
他の者といる時に比べ、彼女と一緒にいる時の方がリラックスできるし、
自分の内側を見せる事ができるのも、相変わらず彼女だけだ。
だが、彼女のどこが好きなのかと聞かれると、首を傾げてしまう自分がいる。
今の愛は惰性なのかもしれない。
自分としてはその愛で良いのだろうか。
これは、初めて考える事。
この一瞬で答えを出すなんて、とてもできない。
だから、自分の主張が何なのか分からない。
「それ位分かってるわ。確かに最初の愛を貫き通すなんて理想よ。
……形が変わった愛で満足できるのなら、私だってこんな話しない。
……でも、それは無いと思う。私達、いつか別れる事になると思う……」
愛はまた視線を落とし、今度は明らかに水木を視界から外す。
悲しい口調だった。
悲しい声だった。
悲しい言葉だった。
「言っている事は分かるよ。筋も通ってると思う。
でも……でもさ。いきなりそう言われたって、俺も考えが……」
「別れよう」
そんな水木の言葉をかき消すかのように、愛がもう一度呟いた。
彼女の目から零れ落ちた雫は、冷たくテーブルを叩く。
彼女は、冷たい人間ではない。
きっと、彼女は何度もこの話について考えたのだろう。
悩み、苦しんだのだろう。
そして……どうにもならないという結論を出したのだろう。
これが最善であり、二人の幸せだと思ったのだろう。
だが、やはり、自分はどうして良いのか分からない。
彼女の感じた未来、そして決意は揺るがないのだろう。
その上で付き合うとしたら、それこそ更に辛い別れを、彼女が切り出してくる未来しかない。
それを避ける為の、彼女の提案。
そんな事は机上の空論だと思いたい。
だが、自分の持ちえる論理で考えると八方塞がり。
自分という人間には、惰性的な部分がある。
だが、そこに一つの理論を突きつけられた時……その論理に逆らう事はできない。
惰性と共に、思慮深い面を持ち合わせている、と判断している。
なぜか、頼んだコーヒーはもう冷めただろう、と思った。
冷めたコーヒーは、温めなおせば良いというものでもない。
……最善の答えはこれなのだろう。
どれだけ考え込んだだろうか。
水木卓は、長考の末、首を縦に振った。
電車のドアが閉まった。
二、三度車両が揺れて、それからゆっくりと動き出す。
車内にはまだ座席が残っていたが、やはり座る気は起きない。
サラリーマン達の声も、いつしか気にならなくなっていた。
身体を起こすと、手すりを掴んで、窓の外を眺める。
駅のホームを離れる時、ホームの端に一人の駅員が立っているのが見えた。
駅員は終電に向かって、深々と頭を下げる。
多くの明かりが消えた中、一人で頭を下げているその駅員が、どこか寂しそうに見えた。
一体自分はいつ、一人ででも生きていけると勘違いしたのだろう。
いや、勘違いではない。生きていけるはずだ、と自分に言い聞かせる。
辛いのは今だけ。きっと今を我慢すれば、またいつも通りの自分になれる。
駅は市の真ん中に位置する事もあって、窓の外では、車のライトがまだ多く光っている。
ふと、彼女とドライブした時の事を思い出す。
それから、堰を切ったように彼女との思い出が溢れ出てきた。
止めようと思っても止まらない。
楽しくて幸福だった、辛く悲しい思い出が、止まらない。
なら、受け入れよう。
彼女といる間は、色々楽しかった。
きっとこれを乗り越えても、自分の人生は楽しいのだろう。
そこに彼女の姿は無い。違うのはただそれだけ。
ふと、一つの言葉が頭に浮かんだ。
それは悲しい言葉だ、と思う。
口にした数だけ、自分は人と出会う。
そして同じ数だけ、別れるのだろう。
だけれども、思いたい。
口にするたび、きっとまた新たな出会いが訪れる。
自分だけでなく、彼女にもきっとそれは待っている。
だから、水木卓は呟いた。
「……ありがとう」
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