貧乏球団モグラーズの選手といえど、曲がりなりにもプロ野球選手である。
 6月末の夕方、デートの待ち合わせ場所である公園前で水木卓を待っていた野々村愛は、
 水木が黒のキャデラックで到着した時に、それを改めて実感した事だろう。
 
 
 愛の前に車を停車させた水木が、ウィンドウを開ける。
 黒のズボンと、同じく黒の薄いジャケットを纏い、ジャケットの下には白のワイシャツを着ている。
 この時期にしては少し厚着だったが、汗はまったく掻いていない。
「愛ちゃん、お待たせ」
「変な車」
「いきなりそれって……」
 キャデラックはつい先日購入したばかりのもので、やっと一軍に定着できたばかりの水木には少々大きな買い物だった。
 その分、愛の反応が楽しみではあったが、最悪の反応。
 水木は愛にもはっきりと分かるくらい、大きなため息をついた。
 
 
 一方の愛は、そんな水木を見て肩を竦めながら、助手席に乗り込む。
「これ、一応高級車なんだけどな……?」
 愛が乗り込んだのを確認し、アクセルを吹かしながら呟く。
「うん、それはなんとなく分かるけれど……なんだか前が長くて不恰好だと思うなぁ。
 ごめんね、私、あまり車の事は分からないの」
「あ、そう」
 水木はもう一度ため息をつくと、とろとろと車を走らせる。
 それからすぐに横目で愛を見た。
 今日の彼女は、赤い刺繍の入った黄色のワンピースしか纏っていない。
 汗もかいていないようだった。
 
「愛ちゃん、クーラー付ける?」
「あ、私は別に大丈夫。この時間は大分涼しいしね」
「じゃ音楽かける?」
「ううん」
「お腹空いてる? 予約の時間まではすぐだけれど」
「空いてるけど……なんか今日の水木さん、変。そんなに気遣ってくれなくても良いのに」
 片手で口元を押さえながらクスクスと笑う。
「そうかね」
 口元を斜めにしながら、車のスピードを上げる。
 
 
 
 
 車は公園前の細い道を出て、すぐ国道に合流した。
 車内時計は7時を指している。
 レストランの予約が7時30分。ここからレストランまでは20分。特に問題は無いだろう。
 
「監督には、なんて言ってきたの?」
「うん? 普通に、水木さんと食事してくるって言ったけれど?」
「……何か言われた?」
「いつも通り言われちゃった。
 『送り狼になるような奴じゃないけれど、気をつけなさい』だって」
「いつ遊びに行ってもそれだよなぁ。俺、信用ないのかな」
 水木は小さく首を捻る。
「ううん、どうなのかな……付き合っているわけじゃないから心配なだけだと思うけど?
 多分、何回遊びに行っても、いつまでたっても言われると思うわ」
「そんなもんなのかな」
 赤信号が近づいたが、アクセルを離すのを暫し忘れた。
 すぐに気がついて、ゆったりと足を離し、同時にブレーキをかける。
 問題ない車間距離で止まった。
 
 何回遊びに行っても。
 友人として付き合っている以上、不安が残る、という事か。
 そうだとして、いつまでたっても、というのは……彼女がそうありたいと思っているのだろうか。
 深読みのしすぎだと自分に言い聞かせる。
 だけれども……もし、そうありたいと思われているのなら、焦りは禁物なのではないだろうか。
 分からない。
 分からない時は、出たとこ勝負。
 普段は思慮深いが、こういう時には気分に身を任せる水木だった。
 
 
 前の車が動き出す。信号が青になっている。
 水木はアクセルを踏み込んだ。
 
 
 
 
 
 
水木卓×野々村愛三部作  2
 
キミの元へ少しでも
 
 
 
 
 
 
 二流ホテル内のイタリアンレストランで、二人は夕食を取った。
 まだ外は若干の明るさを残しているが、レストランにはもう結構な客が入っている。
 特に人気のあるレストランというわけでもない。
 席についてからそんな事を考えていた水木だったが、すぐにどうでも良い事を考えるのはやめた。
 
 出されたコースメニューは、可もなく不可もなくといった味。
 いわゆる、いかにも『レストランのコースメニュー』といった味だったが、
 愛は笑顔で食べていたし、そのお陰か会話も弾んだ。
 そして、最後にワインが出てきた頃には、もう外は完全に陽が落ちていた。
 
「水木さん、ワインはどうするの?」
 愛は、ワインが注がれたグラスに軽く手を振れながら尋ねる。
「運転あるんだよな……一口だけ飲むよ」
「あ、ひっどぉい! 私の安全は保証してくれないのね?」
「そういうわけじゃ……」
「フフ。分かってる。冗談よ、冗談。
 一口だけなら大丈夫だよね」
 愛は口の端を上げて、悪戯っ気を含んだ笑みを浮かべた。
 そんな愛を見て、ピリッと背筋が震えたが、他人から見た限りでは気がつかない程度。
 水木がワイングラスを掲げると、愛も同じく掲げる。
 
「ええと、何に乾杯?」
 愛が首を傾げる。
「うーん……」
 返答の指向性を高める為ではあるが、こういう時の切り返しは遅い方である。
 ……ちょっと今日は気負いすぎかもしれない。
 やや間ができた後に答えた。
「……フフッ。二人だけの夜に」
 はっきりと『フフッ』と言って、わざと歯を見せつける。
「アハハッ! やだ、水木さん何それ!」
 愛はワイングラスを一旦テーブルに置いた。
 それから、両手で顔を抑えながら笑いを堪える。
 それでも漏れている笑い。
 リラックスできたのは、逆に水木の方だった。
 
 愛はすぐに両手を降ろし、片手で再度ワイングラスを持ち上げる。
 それでもまだ顔には笑みが残っていた。相当可笑しかったようである。
「はいはい。じゃあ、二人だけの夜にね」
「そそ。乾杯」
 水木も笑いながら、グラスを合わせた。
 
 
「ところで、今日はこれでおしまい?」
 グラス半分程まで飲んだ愛が、そうう口にする。
 その話をしようと思っていた所だった。返答には困らない。
 時間も愛の目を盗んで、逐一腕時計で確認しているが、ここで改めて確認する。
 まだ9時前。おおよそ考えている予定通りの時間だ。
「ええと……9時前か。もうちょっと遊ばない?」
「そうね。少しなら大丈夫かな」
「じゃ、ドライブしようか?」
「水木さん、そんなに新車に乗りたいんだ」
「あ〜、はいはい、そうですよ、乗りたいですよ。悪いですかい?」
「ううん、別に」
 愛は平然とした顔を横に振ってみせる。
 水木は内心安堵したが、それを表情に出さないのには苦労した。
「じゃ、それ飲んだら行こうか?」
「ううん。あと1,2杯は飲みたいな」
「俺が飲めないからって、嫌がらせ?」
「さぁ、どうでしょう」
 愛はアルコールには強い方だが、全く酔っていないというわけでもないらしい。
 意味深な表情で、彼女は残っているワインを飲み干した。
 
 
 
 
 
 
 
 レストランを出て、国道を南下する。
 線路を交差した直後に、左に曲がり、線路沿いの道を走った。
 そこを暫く行くと、右側に海が見える。
 地元では、海沿いの景色が綺麗な通りとして名が通っている。
 デートスポットとしても名が通った道であるが、愛はその事を知っているかもしれない、と思う。
 
 愛は、まだ頬が少し赤らんでいる。
 一口飲んだだけの水木には全く酔いが無い。
 しかし、ある意味では彼はこの上なく酔っていた。
 気分が高揚すると、アルコールが無くともそうなる。
 身体が暖かい。
 心臓の動悸が激しい。
 水木卓は明らかに緊張していた。
 
 
「愛ちゃん、ここは通った事ある?」
「うん。友達とドライブした事もあるよ」
「友達って、男?」
「なんでそういう事を聞くかな」
 愛は顔を背けて拗ねたフリをするが、すぐに平然とした表情に戻って、水木に向き直る。
「女の子の友達だよ。
 あ、でも、ここってデートスポットとしても有名って聞いた事あるわ」
 やっぱり知っていた。
 
 この日は雲が無く、星が綺麗だった。
 月が、丸い。
 デートでドライブするには、もってこいの状態。
 だが、意外にも前後を走っている車は少ない。
 水木はアクセルをやや強く踏む。
 
「水木さんは、彼女とここをドライブしたりしないの?」
 不意に愛がそう言った。
 一瞬だけ横目で愛を見て、すぐ前に向き直る。
 残念ながら、表情は良く見えなかった。
「昔はある。最近は……うん、今日くらい」
 正直に答える。
 
「私は彼女じゃないけれど。
 ……でも、昔って、いつ頃?」
 湿っぽい、妙に色気のある言葉遣いだった。
 心臓の動悸に、大きな揺れが割り込む。
 ゆっくりと息を吐きながら答えた。
「……大学の、3年の頃。もう5年以上前」
「ふぅん」
 愛は興味のなさげな口調に戻り、シートに深く腰掛けなおす。
「……この先に小さい公園があったと思うんだけれど、ちょっとそこで休もうか」
「うん」
 拍子抜けする位、素直な返事だった。
 
 
 
 
 
 
 海に隣接した公園の駐車場には、5,6台他の車が止まっている。
 車を止め、水木は先行して、公園内でも人気の無い道を歩く。
 海側には、カップルが多いようだった。
 
「ちょっと寒い?」
「ううん、大丈夫」
 水木よりも一歩分後ろを歩いている愛が答える。
 振り返ると、確かに寒そうな様子も無く、軽い足取りでついてきている。
 もうアルコールは抜けているようだった。
 
「言い忘れてたね。水木さん、今日はごちそうさま」
「誘ったのは俺だし、別にお礼なんかいいよ」
 苦笑しながら答える。
「でも結構高そうだったわよ。それに車も買ってるし……
 水木さん、結構稼いでるんだ。そう言えば今年は調子良いしね」
「いや、今年活躍しても反映されるのは来年だから」
「じゃあ、昨年の散々な成績で稼いだ雀の涙で、今日のデートしてるの?」
 遠慮の無い、それでいて笑みの含まれた口調だった。
 水木は顔を背けてぶっきらぼうに答える。
「そうですよ、所詮俺の給料なんざ雀の涙ですよ」
「あ、認めちゃった。……でもプロ野球選手なんだし、雀の涙もレベルが違うか」
「でもないよ。今日は結構無理してるし」
 しっかりとしたな口調。
 そういう事を今まで水木が真面目に言った事は無かった。
 愛は、思わず疑問の声を漏らそうとした。
 しかし、今喋ってはいけない気がして、口をつぐむ。
 それから、水木に視線を合わせる。
 
 
 
 水木は一度天を仰いだ。
 それから、大きく息を吐く。
 足取りは相変わらず、緩い。
 
 真っ直ぐに前を向いた。
 
 
 
 
「あのさ」
「うん」
「話があるんだけどさ」
「うん」
「俺、正直さ。大学の頃までは女の子にあんまり興味なかったんだよね」
「うん」
「でも、大学まで。ほら、俺が深夜の食堂で飲んだくれてた事、あったじゃん」
「……うん」
「あれから、恋人に求める考えが変わってさ」
「変わったって?」
「昔はさ。付き合っていてもどこか友達って感覚があったし、自分としてもそれより多くを求めなかったんだ」
「うん」
「でもあの時……色々辛い事があって、そこで愛ちゃんに優しくされてさ。変わったよ」
「どういう風に?」
「愛する人と、いつまでも一緒にいて欲しい。共に歩いて欲しい。
 抱きしめあって、癒されあいたいって」
 
 
 水木はゆっくりと振り返る。
 
 
「俺は、愛ちゃんの事が好きだよ」
 緊張していたはずなのに、笑えた。
 不自然なほど自然に、笑顔が零れた。
 告白の場面には不似合いだろうか。
 真っ直ぐに愛の目を見る。
 それ以外に何をして良いのか分からない。
 
 愛もまた水木の目を見つめ返していた。
 片手を胸元に当てている。
 無表情。
 感情が無いというよりも、感情が読み取れない表情。
 
「なんとなく、分かっていたかな」
 愛が消えてしまいそうな声で呟く。
 それから目線を自分の足元に移す。
「でも、どこが良いの?」
 
「さっき言った通り。愛ちゃんと一緒にいると、とても落ち着けるし、暖かさを感じる。
 ……幸せだって一言でまとめるのは、ずるいかな」
「うん、ずるいと思う」
 愛は顔を上げた。
 もう一度、水木の目を直視する。
 どこか怒っているようにも見える、きつい目つきだ。
 
 
「時間をかけて、ゆっくりと教えてね? 私もそうするから」
 きつい目を、逆に弧を描く様に細めて、彼女はそう言った。
 
 
 
 
 
 
 ――不思議な空間だった。
 
 彼は、バスローブを纏ってベッドに腰掛けていた。
 彼女がバスルームから出てくる。
 同じくバスローブ。
 彼の隣に腰掛ける。
 部屋に明かりは少ない。
 ベッドサイドのライトがほのかに輝いているだけ。
 お互いのバスローブは輝いて見えた。
 外の音は何も聞こえない。
 聞こえるのは、吐息。
 お互いの、吐息。
 彼は心臓が高鳴っている事を自覚する。
 だがそれ以上に、彼女が緊張している気がした。
「愛」
 彼が呟く。
 反応を待たず、彼女の身体に飛び込む。
 両肩をベッドに押しつけて、
 抱きしめるように、
 身体をすり合わせる。
 バスローブがほどけた。
 強く、
 強く、
 荒々しく抱きしめる。
「もっと」
 彼女が呟く。
 しがみつくように、抱き返す。
 彼は両手を離し、
 彼女のバスローブの内側に入れなおす。
 暖かい手で、
 暖かい身体を抱きなおす。
 彼女のバスローブの胸元がはだけて、
 彼の胸板と彼女の胸が、密着する。
 彼は不意に両手を、
 彼女の胸元に、
 移す。
 止まらない。
 だけれど、思考の奥で、
 最後に残った冷静な彼が、
 呟く。
『良いのかな?』
 すぐに猛々しい複数の彼が、
 冷静な彼の元に殺到して、
 殴り倒す。
 彼女の声が漏れる。
 身体を捻った。
 彼と彼女の、
 手と足とが、
 もつれあう。
 そのうち、
 細い手足が、
 組み拉がれる。
 彼女は、
 力を抜いて、
 目を瞑って、
 彼に委ねる。
 彼の中の冷静な彼は、
 もう何も言えない。
 熱気。
 本能。
 哀愁。
 抱擁。
 愛。
 
 不思議な空間だった――
 
 
 
 
 
 
 水木卓は、ホテルのベッドで仰向けになり、呆然と天井を眺めていた。
 隣では、野々村愛が同じように仰向けになっている。
 頭を愛の方に向ける。
 愛も水木の方を向いた。
 頬を紅潮させている彼女は、眉と目じりを下げる。
 水木も同じように微笑もうとして……ふと、思い当たる事ができた。
 頭を掻きながら口を開く。
 
「愛ちゃんはさ……俺のどこが好きなの?」
「セッカチね。ゆっくり教えてあげるって言ったじゃない」
 愛は愉快そうに口元を斜めにする。
「そうは言われたけどさ。聞きたいものは聞きたいんだし……」
「なに、心配?」
 そう言われた水木は、顔を再度天井に向ける。
 顔をやや逸らして、何も言わない。
 
 そんな水木を見て、愛は嘆息する。
 同じように彼女も天井を見直す。
 だけれども、明るい口調で彼女は喋った。
 
 
「私、これでも、水木さんと一緒にいるとすごく楽しいのよ。
 それに、水木さんはいつも優しくて、一緒にいても気兼ねなく過ごせる。
 今まで男の子の友達はいたけれど、話していてそういう気分になった事はないし……、
 だから、男の子と二人きりで遊びに行った事も無かったわ。
 なんなんだろうね。別に私達が似ているわけじゃないのにね」
 
 苦笑して、言葉を続ける。
 
「後は……放っておけない所、かな。
 水木さん、しっかりしているように見えるし、事実しっかりしているけれど……。
 それって本当はとても不安定な自分のバランスをとっているように見えたの」
「なんだか同情みたいだね……当たってるけれど」
「うん、同情かもね。でも、同情って悪い事?」
 
 水木は何も言わない。
 
「私は、水木さんのそんな部分を支えてあげたいって思ったし、
 水木さんの辛い事は一緒に背負いたい。私自身の事として捉えたい。
 同情だって、永遠に想い続ければ、愛だと思うけれど?」
 
 愛は言葉を止める。
 言葉を促した水木は、何も返事をしない。
 沈黙。
 愛は頬を膨らませて水木の方を見る。
 
 
 
 
 水木の肩が、上下に揺れていた。
 懸命に口を閉じようとして、それでも開かれてしまう口から、単発的な息が漏れる。
 息はすぐに、小さな嗚咽に変わり、小さな嗚咽はすぐに大きな嗚咽に変わった。
 涙が、ぽろぽろと零れ落ちる。
 天井を見上げたまま、
 虚空に向かって吠えるかのように、
 恥じる事も無く、
 遠慮する事も無く、
 水木は声を漏らして泣いていた。
 
「水木さん……」
 心配した様子と暖かさの篭った口調で呟く。
  身を乗り出し、水木の頭を抱き寄せる。
 水木は自らも、愛に身体を預けた。
「俺……嫌だよ……一人は嫌なんだよ……」
 彼女の胸に顔を埋める。
 嗚咽は止まらない。
「嫌だよ……誰か……一緒にいてくれないと……」
 なおも水木は泣く。
 生まれたての赤子の様に。
 彼女の温もりと、
 優しい笑顔と、
 包む込んでくれる愛を求めて、
 水木は泣く。
 
 愛は、ゆっくりと水木の髪を、赤ん坊をあやすかのように撫でる。
 まだ彼女は、水木卓の全てを知らない。
 いや、全てを知った仲になれる二人等いるのかさえも分からない。
 だけれども、
 一つだけ分かっている。
 今、この愛すべき男性が何を求めているのか。
 今、自分がどうしたいのか。
 
 
 
「いいんだよ。ここにいても。私の所にいても」
 
 
 
 水木の嗚咽が小さくなる。
 ゆっくりと、表情を伺うかのように顔を上げた。
 笑顔。
 温かな笑顔。
 母親に似ていると思った。
 無神論者だが、女神の様にも見えた。
 だけれども、どちらも違うと思い直す。
 
 そこにあるのは、野々村愛の笑顔。
 自分が一番求めている人の笑顔。
 
 もう一度、顔を胸に埋める。
 暫くの間、そうしている。
 涙は大分枯れてきた。