水木がその日の二軍練習を終え、ロッカーで着替えを始めた頃には、もう陽は完全に落ちていた。
 まだ数える程度の人数がランニングといった練習をしていたが、全体から見れば水木の上がりは遅い方だった。
 それも、選手食堂の夕食に遅れない為に上がっただけである。
 まだ夕食後には素振りとランニングの自主トレーニングが残っている。
 ルーキーである水木にとっては、全て当然の事だ。
 
 
「水木、ちょっと来い」
 水木が着替えを終えた頃、ロッカーに、二軍監督である野々村耕造が顔を覗かせた。
「はい、何ですか!」
 水木は反射的に甲高い声で返事をし、野々村監督に駆け寄る。
 今まで練習以外の時に、監督から声をかけてもらった事は無い。
 初昇格という言葉が、水木の中に、瞬時に広がっていた。
 
「今日はもう上がりか。
 ……実はオーナーからお前に質問を預かってるんだ」
「お、オーナーですか?」
 昇格話でなければ雑談だろうと勘ぐっていた為、返事は思わず裏返った。
 しかも、オーナーからの伝言となれば、意外感だけでなく緊張感が走る。
 何か自分がオーナーに質問されるような事をしただろうか。思い当たらない。
 いや、可能性はある。寅蔵がオーナーの家を燃やしてしまった関係の話ではないか。
 あるいは、駆絡みだろうか……。
 
 
 
「おい、聞いているのか?」
「あ、は、はい」
 再度声を掛けられ、気を取り戻す。
 野々村監督は水木の目をみて小さく首を傾げたが、言葉を続けた。
「お前、大学時代に付き合っていた子がいたらしいな」
「は、はぁ……。4年になる前に別れましたが」
 質問の意図が全く見えなかったが、素直に返事をする。
 確かに大学に入ってから付き合いだし、4年になる前に別れた彼女がいた。
 相手から別れ話を持ちかけられて別れたが、それからも友人として接していた相手だった。
 別れた後も、何度か合コンで顔を合わせた事もある。だが、プロ入り後は一度も顔を合わせていない。
 
「そうか……」
 野々村監督は声のトーンを落として呟いた。
 それからポケットに手を入れると、封筒を取り出す。
「これは、オーナーからだ」
 封はされていなかった。
 差し出された封筒を受け取り、指先で口を開く。
 中には十枚程の一万円札が入っていた。
「え、ええっ? 監督、これ何なんですか?」
「オーナーは手切れ金と言っていたよ。後は、付き合っていたのなら渡せ、としか言われていない」
「手切れ金、ですか」
 頭を掻きながらも、それを自分のポケットに仕舞いこむ。
 それからすぐに何の事か思い当たった。
 別れた後の合コンで、駆と元彼女が随分仲が良かったはずだ。
 二人が最近付き合ったとして、自分が縁を戻そうと考えた時の為の手切れ金なのだろう。
 立場的にも自分の性格としても、そんな事はまず無いのにと、内心笑みを浮かべる。 
 
「話はそれだけだ。じゃあ、明日も頑張れよ」
 野々村監督はぽつりと呟くと、ロッカーを後にした。
 
 
 
 
 
 
水木卓×野々村愛三部作  1
 
許されている気がして
 
 
 
 
 
 
 夜の選手食堂で、水木は自慢げに、その話をチームメイトに説明していた。
 水木の周りには食事を終えた五、六人のチームメイトが集まり、水木の話に聞き入っている。
「でさ、オーナーが10万円くれたんだよ。
 いや、もてる男って特だねぇ。はは」
「全くだなぁ。やっぱ水木はいい男なんだよ。切符も良いしな」
「本当ですよね。俺、水木さん尊敬しますよ。太っ腹ですしね」
 当然、全員水木の自慢話を聞きたくて集まったのではない。
 10万円に用があったのだが、水木もそのつもりで話をしていた。
 
「分かってるって! じゃあこの10万で、これから呑みにいくか?」
「さっすがぁ!」
 チームメイトは一同に水木の背中を叩く。
 
 
 
「水木さん、随分調子が良いわね。そんなに散財したら、後で絶対泣く事になると思うけどなぁ」
 テーブルを拭いていた野々村愛が、不意に声をかけた。
 仕方の無い男だと言わんばかりの口調だったが、水木は気にせず返事をする。
「あぁ、いいの。臨時ボーナスなんだから問題ないって!
 あ、それとも愛ちゃんも来たいの?」
「私は遠慮します」
 愛は苦笑しながら返事をする。
 
「えぇー。愛ちゃんも来たら楽しいのになぁ。来たらいいじゃん。どうせ水木の驕りなんだしさ」
 そう声をかけたのはチームメイトである。
 だが、愛が返事をする前に、水木が笑いながらチームメイトを制した。
「まぁまぁ、愛ちゃんはガードが固いって事よ。
 そんな事より、早速行こうぜ!」
 水木が席を立つと、チームメイトは思い思いの歓声を上げて、同じく立ち上がる。
 
「じゃあね、愛ちゃん。
 あー……ガードが固いのも良いけど、若いんだからさ、色々付き合うのも良いと思うよ。
 ただ、モグラーズの連中はお勧めできないな」
 チームメイトが次々食堂を出ている間に、水木は軽い口調で言葉をかける。
「はいはい、分かっていますよ」
 愛の返事は、この上なく素っ気無いものだった。
 
 
 
 
 
 翌月の女性週刊誌に、小さな記事が掲載された。
 見出しには『モグラーズ二軍選手に隠し子発覚』とある。
 モグラーズのとある二軍選手と大学時代に付き合っていた女性が妊娠・出産したが、
 選手は今の所認知していないという、短い内容。
 その他にはその選手の顔写真が、黒線入りで載っていた。
 
 水木卓であった。
 
 
 
 
 水木はその晩、オーナーに呼ばれて本部のオーナー室へと向かったが、呼ばれなくとも自分から向かうつもりだった。
 女性週刊誌に自分の記事が載ってから、僅かな数だがスポーツ新聞の記者が、自分にインタビューをするようになった。
 そういえば聞こえは良いが、聞かれる内容は全て女性週刊誌に関する内容だった。
 こんな事でマスコミに声をかけられるのも皮肉だ、と思う。
 女性週刊誌のの話はデタラメだった。
 確かに思い当たる節が無いわけではない。だが、こういった問題にだけはならないようにしてきている。
 では、なぜデタラメが流れたのか。
 理由は分からない。だが、先日のオーナーの質問が関係している事だけなら分かる。
 
 
 
「翔は守らなくてはいかんのだよ」
 
 オーナーの最初の一言はそれだった。
 水木はオーナーの机の前で、直立不動の姿勢をとっている。
 最低限の礼儀。
 だが、今まで誰にも見せた事の無いぎらついた視線は、オーナーの任月高志に真っ直ぐ向けられていた。
 
「率直に言えば、お前が噂になっている女の相手は、翔だ」
 オーナーは水木を見下しながら、言葉を続けた。
「大学が同じで付き合っていた経験があるのなら、身代わりにはうってつけって事ですか?」
 水木が低い声で喋る。
「分かっているじゃないか」
「あの子はなんて言ってるんです」
「合意の上での結果で、本人は産みたいだと。
 そこは示談中だが、まぁ、丸め込む。お前も口を合わせろ」
「なんなんだよそれ! なんで翔に認知させないんだよ!」
 水木が二、三歩詰め寄った。
 相手との立場を全く気にしていない、強い口調だった。
 
「言っただろう。翔は守らなくてはいかん。だからお前が身代わりに……」
「この際俺なんざどうでもいいんだよ!
 だからなんであの子の気持ちを無視……」
「黙れクソ餓鬼!」
 オーナーが一括する。
 詰め寄る水木以上の威勢に、水木の口が止まった。
 
 
「それ以上反対しようとすると、お前には、今以上に都合が悪い話をしなくてはいかん。……もちろんその女にもな。
 それにしても、よくそんな奇麗事を並べられるものだな。お前は。
 少しは社会の仕組みを勉強したらどうかね。スポーツ選手は馬鹿だから困る……」
「そんなの金持ちの勝手じゃないか……」
 消えてしまいそうな声で呟く。
「そうだ。そしてそれがまかり通るのだよ。お前も、これから嫌でも分かるとは思うがな」
 水木は何も言えなかった。
「今回は翔に負い目があるのだから、お前の態度も多少は甘く見てやる。
 他言は一切無用だ。この話は駆も知らない事でな。駆に問い詰める事も許さん。
 金は渡っただろう。さぁ、帰れ」
 
 有無を言わさぬ、威圧感のある口調だった。
 黒い塊の中に落ちたばかりの水木には、到底逆らう事ができなかった。
 
 
 
 
 
 
 
 もう時間は夜中の1時を回っている。
 水木は選手食堂に備えられていたビールを、一人呑み続けていた。
 本来この時間に選手食堂は開いていない。
 この前ちょっとした事故でトイレの窓が割れてしまったが、そこはまだ修繕が行われていない。水木はそこから中に入った。
 
 もう何本呑んだのだろう。アルコールには強い方だが、それを思い出せない位呑んでいる。
 だが、水木の思考の奥は、アルコールを受け付けずに回り続けていた。
 
 
 
 オーナーの言う通りである。
 高校でも大学でも野球に打ち込んでいたが、それが分からない程社会経験は薄くない。
 だが、こうやってその事態に触れた今、自分の心は大きな憂鬱に包まれてしまった。
 これが、社会というのだろうか。
 特に野球という世界では大金が付いて回る。
 この様な話を、これから幾多も目にするのだろうか。
 きっと、そうだろう。
 まだ自分は大学を卒業したばかりの若輩者だ。
 それが好ましい事かどうかは別として、これから何度もこの様な話を見れば、慣れるのかもしれない。
 だが、今の自分には辛すぎる。
 
 
 ふと、別れたその女性の笑顔が思い浮かんだ。
 今回のその女性に限らず、昔から、女性と付き合いだす時も別れる時も、相手から話は持ち上がっていた。 
 今まで自分は、女性に優しさを求めた事は無い。
 確かに彼女と一緒にいれば楽しいし、人並みの性欲も持ち合わせている。
 だが、その楽しさは「話していて楽しい」という、友人に抱く感覚と大差ないもの。
 だから、自分から無理をして求めない。
 自分から無理をして引きとめようとしない。
 
 しかし、今はその女性が堪らなく恋しい。
 その女性じゃなくても良い。強く抱きしめてほしい。
 一人では、この社会に耐えられる自身が無い。
 寂しかった。ただ、寂しかった。
 
 
 
 
 
「あぁーっ、水木さん、何してるの!」
 不意に甲高い声が響いた。
 まどろんだ目で声のした食堂出入り口の方に目をやる。
 ぼやけているが、これでもプロ野球選手だ。目は良い。
 野々村愛だ。
 
 
「一体どこから忍び込んだの?
 あぁ、あぁ、取っておきのビールこんなに呑んじゃって……」
 愛は水木の周りを一瞥すると、大きく嘆息を零す。
 水木は何も言わず、ただビールをもう一口呑んだ。
 しかられるか、弁償か……口実にされて首を切られる事もあるかもしれないが、そんな事どうでも良い。
 今は呑みたい。嫌な事を忘れたい。
 
 
「まったく……どう誤魔化そうか」
 
 
 愛が水木の隣に座ってそう呟く。
 思わず顔を上げた。
 うっすらと愛の表情を読み取る事ができる。笑っているようだ。
「私にもちょうだい」
 愛は水木がテーブルに置いたコップを取ると、残っていた分を飲み干した。
「週刊誌、私も読んだの。それで心配になって水木さん探しに来たんだから」
「心配になって……?」
 言葉を鸚鵡返しにする。まだろれつは回っている。
「当然じゃない。
 うーん、水木さんの女性の扱いなんて私には分からないけれど、
 ……でも、女性週刊誌でしょ? 飛ばし記事で出来ているようなものだし、
 もし嘘だったら、水木さん大丈夫かなって……」
「愛ちゃん……」
 
 
 何と言って良いのか分からなくなる。ただ黙って首を振った。
 すると、視界が更にぼやける。
 酔いが回ったのだろうか。それにしては滲んでいる。
 
 
 愛はその動作だけで、頷いてくれた。
「……やっぱり、嘘なんだね。
 ただ、そうだとしてもちょっと荒れ過ぎじゃないの?」
「あれはさ……」
 そこまで口にするが、続きの言葉を出せない。何から言って良いのか分からない。
「いいよ。無理ないで、ゆっくり話してくれれば良いし、話したくないなら話さないで良いし。
 どっちにしても、明日にはこの話も、今の水木さんも忘れてあげる。
 だから、明日からは元気出さなきゃね」
 
 
 愛はにっこりと微笑む。
 電気が流れるような、それでいて暖かい感覚がした。
 それから、水木の頬を涙が伝う。
 思わず愛とは反対方向に俯いた。
 涙に含まれていたのは、なんだったのだろう。