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その晩、古沢小一郎が用を足そうと寮の廊下に出ると、ちょうど、斜め向かいの部屋の扉が開かれた。
部屋から出てきた男は、もう9時すぎだというのに練習着を纏っている。
普段なら軽く会釈をし合うだけだったが、その男の服装が気になり、古沢は口を開いた。
「よう、水木」
声をかけられた水木卓は古沢に気がついていなかったようで、ビクリと身体を震わせ、古沢に視線を向けた。
そして、そのまま無言で半身を部屋の中に戻す。
古沢は水木に近づきながら、更に言葉をかけた。
「何してんの?」
「ちょっと、フロに……」
水木は苦笑しながら答える。
「練習着で?」
「今日は疲れていて着替えるの面倒だったんですよ」
「あ、そう」
古沢はとぼけた表情で、水木の部屋の前に立った。
それに押されるかのように、水木は完全に部屋の中に戻る。片手は扉に隠れていた。
「そうか、フロね」
興味なさげに呟き、更に言葉を続ける。
「バット持ってフロ?」
見えない水木の片手付近に何があるのか分からなかったが、古沢はカマをかけた。
急に水木は不機嫌な表情を浮かべる。
それからへの字に曲げた口で返事をした。
「そうですよ! バット持ってフロに入りたいんですよ!」
水木が部屋から出た。そのままの表情で古沢に軽く会釈をし、古沢の横を通り抜ける。
見えなかった手には、古沢の予想通り、バットが握られていた。
水木が廊下奥の階段を登って見えなくなるまで、古沢は水木を眺めていた。
それから、楽しそうに、小さな声で呟く。
「フロは、下の階なんだけどな」
――水木青年は、大学野球を始めた頃から、プロ野球選手になる事ばかりを考えていた。
誰だって、苦しい事よりも楽しい事の方がいい。
苦労は買ってでもしろと言うけれど、最後まで苦労しなくてすめば、買う必要なんか無い。
水木にとってそれを叶える事ができるのは、プロ野球という舞台だった。
好きな野球をやって、楽な生活を送れる。
その二つだけで、水木の人生における多くの欲求は満たされる。
プロがそんな舞台だと思っていただけに、あの時の寅蔵の行動は、水木の心を大きく刺激した。
水木は4年目の夏までに一定の成績を残した。
それは、プロから指名が来るとすれば、少し危ない成績かもしれない。
そんな水木の予感は、半分的中した。
10月になって、前々から何度か試合を見に来てくれていたドリルモグラーズのスカウトから声が掛かったのである。
しかし、それは指名約束ではなく、テストを行う為に掻けられた声だった。
ドリルモグラーズは、水木の他、水木とは旧知の仲である大学野球選手の寅蔵と才葉、その三人の中から一人を指名するつもりだった。
ただ、誰を指名するかは球団内で意見が別れた。そしてその結果、指名権を賭けて三人をテストする事になった。
寅蔵、才葉、二人とも成績は水木よりも上である。
更に問題は重なった。
相当入れ込んでテストを受けようとした水木は、靴の底に仕込まれていた画鋲を気がつかず踏んでしまった。
当然、普段の実力を発揮できずにテストを終える。
誰が入れたのか。そんな事を気にする気力も沸かないくらい、水木は落ち込んだ。案の定、合格通知をもらったのは寅蔵だった。
しかし、寅蔵は合格を辞退した。そして、次点であった自分がモグラーズに指名される事になった。
全員プロの選手になりたいという考えをもって挑んだ試験である。
自分の妹を狙って取り入ろうとした為でもない。寅蔵と妹である静香の結婚は、テスト前から決まっていた。
なぜ辞退したのか寅蔵に問いただすと、寅蔵は笑顔で答えてくれた。
「お前に楽しい人生を送って欲しい」
寅蔵は、自分のプロ野球に対する思いを知っていたのだろう。
だから、自分の為にプロ選手への道を譲ってくれた。
でも、寅蔵の気持ちはどうなるのだろう。
寅蔵の答えでは納得する事ができなかった。
ただ、水木の中に、熱い気持ちが生まれた。
前の打者が送りバントでランナーを進めてくれたのなら、自分はそのランナーを還すのが仕事である。
バントの意図は関係ない。
ただ成功する。それだけである――
そんな熱さを忘れたのは、いつからだろう。
モグラーズ選手寮の屋上で素振りをしていた水木の頭の中に、ふっとそんな思いが浮かんだ。
――プロのレベルは、水木の想像を遥かに越えていた。
練習しても、練習しても、一軍に上がれない。
運良く一軍に上がっても、打てずに、すぐ二軍に落とされる。
一軍に上がった翌日、一度もグラウンドに出ないまま、二軍に落とされた事もあった。
自分はドラフト下位だ。実力差は仕方が無い。
しかしそのドラフト下位という現実は、同時にプレッシャーにもなっていた。
毎年11月に、成績を残せなかった先輩が次々に解雇通告を受ける。
その選手の多くが、自分よりも良い成績を残している選手だ。
なんであの先輩達が解雇されるんだろう。いつも水木はそう思ってきた。
きっと先輩も同じ事を考えているのだろう。
なんで自分よりも打てない選手が解雇されないのか。なんで自分なのか。理不尽だ、と。
そう、理不尽じゃないのか。
自分だってこれだけ練習している。なのにヒットを打てない。一軍に定着できない。
そしてそれは、自分の考えに矛盾している。
苦しみたくない。楽しい人生をすごす為にプロ野球選手になった。
なのに、苦しみ続けた挙句、楽しい人生も過ごせない。
それがプロ野球なのだろうか。
こんな事に意味は無い。
自分の考えていた世界ではないのに、いつまでも居残ったって、無駄だ――
素振りを続ける水木の顔からは、大粒の汗が滴り落ちていた。
素振りの回数は500回を越えている。
左肩が痛い。昔は500回程度で痛む事なんか無かった。
バットも大分波打ってきた。いつの間に、こんなに握力が落ちたのだろうか。
季節はもうすぐ秋である。この時間は大分冷え込むが、今の水木は全身が熱い。
熱くなっている事だけは、あの頃と同じだ。
「くそっ、あの野郎、9回裏の無死一、二塁でバントなんかするか? 普通……」
今日の二軍の試合を思い出して、ぼやく。
同点で迎えた9回裏の無死一、二塁のチャンスで、自分の前を打つ三番打者が送りバントを慣行した。
一死二、三塁となったが、後続の自分はショートライナーのゲッツーとなり、その試合は終わった。
三番打者に対するベンチのサインは「打て」だったらしい。
監督にこっぴどく叱られ終えた三番打者に、今度は水木が声をかけた。
何故サインを無視して送ったとの質問に、三番打者は笑顔で答えてくれた。
「水木さんには今活躍してほしいんですよ。昔の事ばかり言うんじゃなくて。あ、俺は代わりに明日打ちますから」
そうは言っても、今日のサイン無視がこの三番打者に大きな悪影響を与えた事に代わりはない。
なのに、なんで自分の為に送ったんだろう。理解できない。
ただ、自分が打てなかった事は悔しい。
そして、その感覚には、昔にも覚えがある。
自分は今日、三番打者が送ってくれたランナーを還す事ができなかった。
だが、それならまだ良い。
今の自分は、寅蔵の送りバントを生かす気さえも失っている。
そこまで堕ちたくは無い。
苦しみも楽しみも関係無い。寅蔵の期待に応える事は出来ないかもしれない。
しかし、バットを振る事だけは放棄してはいけない。
「あぁ、嫌だ嫌だ……素振りは嫌だよ……」
バットを振り続けながら、水木はかすれた声を漏らす。
寅蔵の事を思い出した所で、練習は嫌いだ。苦しい事も嫌いだ。
こんな野球はやりたくないし、理不尽なプロ野球も嫌だ。
だが、それでもバットを振らなくてはいけない。
今年で解雇されようと関係ない。
ただ、バットを振り続けなければいけない。
寅蔵のやった事に左右される必要は無いと、割り切る事が出来ないのは、自分が子供なのだろうか。
そうだとしても、それで良い。自分の考えに背きたくは無い。矛盾は嫌いだ。
左肩の他にも、腕全体が重くなってきた。
確実に、明日に響いてしまうだろう。
それでも、自分は明日もバットを振れるだろうか。
その自信は実の所、無い。またバットを離そうとするだろう。
そんな自分の性格ぐらいは、把握している。
しかし、それは今考える事では無い、とも思う。
時刻は10時を過ぎた。
まだ、水木の素振りは止まろうとしない。
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