木製のドアをゆっくりと開け、石田由紀は部室内を見回しながら部室の中へ足を踏み入れた。
 部室内では、既に着替えを終えた部員達が、帰る前の雑談に興じている。
 由紀はその部員の中に、一人の男を見つけた。
 まだ着替え終わったばかりのようで、制服のボタンを詰めている。
 誰とも会話をしていない今が、声を掛ける機会だろう。
 おまじないのように、軽く首の下を二度叩き、その男に近づいて声をかける。
 
 
「主人先輩、お疲れ様です!」
「あ、由紀ちゃん。お疲れ〜」
 声をかけられた野球部キャプテン、主人公は、ボタンを詰め続けながら、声をかけてきた由紀に向き直った。
「あの、先輩。明日の日曜日は部活お休みですよね?」
「ん。そうだけど」
 由紀は納得したかのように頷く。
 それから、次に言おうとしている言葉を頭の中でリピートして、小さく息を吐いた。
「あの……でしたら、明日、デートしませんか?」
 大して大きな声ではない。むしろ、周りで会話をしている部員達の声に掻き消されそうな声量である。
 だが、その一言で、部室中から言葉が消えた。
 全部員が、一斉に二人に向き直る。
 
「え? えっと……」
 思わぬ言葉だった。
 主人はデート以前に、女の子をデートに誘った事も、誘われた事も無い。
 目の前の由紀を一瞥する。
 由紀は目を大きく見開き、まっすぐに主人を見上げていた。
 彼女は、他の女子生徒と比べれば確実に可愛い部類だろう、と思う。
 では、性格はどうだろうか。
 いや、由紀云々以前に、デートなんてした事が無い。
 何にせよ、唐突過ぎる。
 とても、この一瞬で正しい答えなんか思いつけない。
 
 
 混乱すると、やけくそに答えを出すのは、悪い癖だろうか。
 
 
「うん、いいけど」
 3秒程度の間の後、主人は沈黙を誤魔化すかのようなぎこちない笑顔で答えた。
「本当ですか? やった!
 じゃあ、明日12時に駅前で大丈夫ですか? ですよね? 失礼しまーす!」
 由紀は主人の返事を聞くなり、マシンガンのように言葉をまくし立てていくと、
 目じりを大きく下げ、駆けながら、部室から出て行った。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
二人の笑顔
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
「全然失礼じゃありませんでした……」
 主人は呆然としながら、由紀の出て行ったドアを眺めていた。
 そこへ不意に、背後から大きな衝撃がかかった。
 前のめりに転ぶ。
「主人〜! て、てめぇ〜!」
 主人に背後から襲い掛かったのは、平山だった。
 平山は、更に倒れている主人に圧し掛かり、二撃目を加えようとする。
「俺が! 俺が大好きな由紀ちゃんとデートだと?
 おい、なんで頷いたんだよ! お前由紀ちゃん好きじゃないんだろう? てめぇ、てめぇ!」
「全くでやんす! 主人君は酷い奴でやんす!
 皆、主人君の身包み剥がしちまうでやんす!」
 亀田が楽しそうにそう声を上げ、同じく主人に襲い掛かった。
「うっす! やっちまうっす!」
「ふふ、最近寝技の練習はしとらんからのう!」
 武田と村上が同調し、やはり主人に向かって飛び掛る。
「たっ! お、おい! やめろ!
 馬鹿、制服契る気か……あ、サイフ取ったの誰だ、サイフ! あ痛て!」
 主人は四人にされたい放題にされ、情けない悲鳴を上げながら、殴られ、制服を剥がれ、持ち物という持ち物を取り上げられた。
「ハハ。それがもてる男の宿命だよ。キャプテン」
「あぁ、そんな所を強打したら明日に響くよ。少しは手加減した方がいいんじゃないかい?
 まぁ、そんな事言っても、これは止まらないか。ハハハッ」
 部員達は笑い声混じりで、思い思いの野次を飛ばす。
 
 ただ一人、一番奥にいた佐藤勇太だけが、何も言わずに小さく息を零した。
 デートを申し込む直前の由紀のように。
 
 
 
 
 
 翌日、佐藤は一人でゲームセンターにいた。
 商店街にあるゲームセンターで、店舗は小さいが、ビデオゲームにプリクラ、クレーンと、一通りは揃っている。
 また、周囲に学校が多いという立地条件からか、客の年齢層はは中学生・高校生位であった。
 
 佐藤は、もう何度もクリアした格闘ゲームで遊んでいた。
 もう3人のコンピュータを倒し、3,4人の乱入者にも全てストレート勝ちしている。次の敵は中ボス格である。
 だが、そこで突然佐藤は立ち上がった。
 まだクリアも敗戦にもなっていないのに、筐体から離れてゲームセンターの出口に向かう。
 ふと、途中で壁にかかった時計を一瞥する。
 時計は、12時ちょうどを指している。
「僕、なにやってんだろ……」
 ため息混じりに呟いた。
 
 
 
 
 石田由紀をはじめて恋愛対象として意識したのは、先月2月の14日だった。
 彼女は部員全員にクッキーを配ってくれた。
 クッキーは市販のようだった。多分、一袋300円程度だろう。
 別に、自分だけに特別なものをくれたわけでもない。
 安い義理を貰った。ただそれだけの事。
 それだけなのに、彼女の事を意識している自分がいた。
 
 義理だと分かっている。
 でも、嬉しかった。
 クッキーをくれた時の笑顔が、全員に向けられたものだと分かっている。
 でも、嬉しかった。
 
 何故なのだろう。
 そうだ。きっと、由紀が優しいから。それだけなのではないだろうか。
 彼女と深く接したわけではない。
 むしろ彼女については知らない事ばかりだ。
 だけれども、と思う。
 クッキーを貰った時に、この人は本当に優しい人なのだ、と感じたのだろう。
 彼女の笑顔が、彼女の優しさという氷山の一角に思えたのだろう。
 
 馬鹿馬鹿しいと、自分でも思う。
 それだけで一人の人間を知る事など出来ないのが普通だろう。
 だけれども、自分の感じた直感はどうなるのか。
 若いという言葉で片付けるのか? それとも恋愛経験不足からくる勇み足?
 どちらでもない。
 この直感を信じるのが自分という人間の考え方だし、拒む事はできない。
 自分は、石田由紀の事が好きなのだ。
 
 
 だから、このため息は嫉妬のため息なのだ、と自覚している。
 今頃、彼女と主人キャプテンがデートしているのだと思うと、気持ちが重い。
 彼女の頭の中にあるのは、主人キャプテンの事だけだろう。
 自分の事は、欠片も無い。
 二人がデートしている現状だけでなく、その疎外感が寂しい。
 
 
 
 
 ゲームセンターを出た。
 駅とは反対側にある自宅に戻ろうと、数歩歩き出して、すぐに足を止める。
 視界に、ぬいぐるみ屋が入った。
 ぬいぐるみ屋では、店頭販売を行っている。
 小さな動物のぬいぐるみといっしょに、お菓子を安く売っていた。
 すぐに、ホワイトデーの為のキャンペーンと理解する。
 
 
 彼女が主人キャプテンに気がある事は、前々から分かっていた。
 ホワイトデーにお返しをした所で望み薄、という事も分かっている。
 だけれども、と思う。
 少なくとも、あの時の笑顔だけには応えたい。
 優しさを感じたあの笑顔。
 彼女の事は確かに好きだ。
 それと重複して、彼女が撒いてくれた優しさが好きだ。
 だから、自分の気持ちが彼女に届かなくとも、あの優しさ自身にも返事がしたい。
 
 
 佐藤は、店頭に近づいてぬいぐるみの選別を始めた。
 ふと、もう一度、彼女と主人キャプテンがデートしている情景が頭に浮かぶ。
 それでも、ぬいぐるみを選別している佐藤は、笑顔だった。