日の出高校に着くまでまだ100メートル以上の距離はあったが、
 主人公の耳には、高校内から聞こえてくる和太鼓の音が微かに入っていた。
 校庭内に建てられたやぐらは、ここからでも見える。
 電球入りの提灯でライトアップされていたので、やぐらの上に誰かが立っている事までが確認できた。
 どうやら、もう夏祭りは始まっているらしい。
 
 それも当然か、と主人は思う。
 もう陽は殆ど暮れてしまい、西の水平線に僅かに赤みが差している程度。夜である。
 別にそれを主張したいわけではなかったが、彼は自分が所属している球団から配布された白地のTシャツと、
 膝辺りまでの丈の紫色をしたハーフパンツを着用していた。
 だが、先ほどから露出した腕や足に蚊が近づいてきている。
 暑くても長い衣服の方が良かったか、と考えるが、着替えに戻る気にはなれなかった。
 
 夜とはいえ、風はまだ蒸し暑い。
 その暑さのせいだろうか。相変わらず島のセミは、夜でも甲高い鳴き声を立てている。
 
 
 
「よう、主人」
 不意に背後から声をかけられて振り向く。
 日の出高校野球部のチームメイトであった島岡がそこにいた。
 上下とも赤いジャージを着用している。先ほどまでランニングでもしていたのだろうか。
 そうだとしても、恥ずかしくないのだろうか……と思ったが、口には出さない。
 髪がスポーツ刈り程度まで伸びているのにも、目を惹かれた。
 前に会った時は坊主頭だった。
 
 
「なんだ、主人も帰ってたのかよ」
 彼は主人の横まで足を運ぶと、並列して歩きながら喋りだした。
「今日の夕方に戻ったばかり。今年もオールスターは落選でね。その休みを利用したワケ」
「二割五分とはいえ規定打席に到達してる奴が、贅沢言うな馬鹿」
 島岡は歯を見せて笑い、愉快そうに主人の後頭部を叩く。
 主人は2、3歩たたらを踏んだが、転びはしない。
 それから島岡に向かって振り返り、彼を見ながら後ろ歩きで足取りを進める。
 
「お前もいよいよ大学でスタメン定着したんだろ?
 どう。プロ入りの芽はありそうなの?」
「そんなの分かるかよ。まだスタメンで年間通した事もねぇのに。
 ……ま、やるだけやるけどな」
「そうか」
 主人はそれだけ短く言い、突然自分の手首を、もう片手の指先で叩いた。
 
 叩いた箇所では、蚊が潰れていた。それを指で払い落とす。
 腕には微かに血が付いている。少しだけ吸われたようだ。
 周りを良く見ると、他にも数匹の蚊が、まだ飛んでいる。
 目の前で軽く腕を振り、蚊を追い払おうとする。
 
 
 
「……なんか、帰ってきたって気がするな」
 それを見ていた島岡が呟いた。
「え? あ。あぁ」
 島岡の口からそんな言葉を聞くとは思いもしなかった。
 曖昧な返事をしてしまう。
 
 
 何気なく海を見た。
 微かに揺れている海は、波音の寝息で存在を主張している。
 ゆったりと空を見た。
 本土では見えない綺羅星が、群青色の空を彩っている。
 首を落として地を見た。
 舗装されていない土道の端で、草々が自由に背を伸ばしている。
 
 島岡の言う通り、帰ってきたのだな、と思う。
 
 
 
「……皆、来てるかな?」
「来てるだろ。お前の場合は天本さんが来ていればそれで良いんだろうけどな」
 面倒臭そうな返事が返ってくる。
「いや、やっぱり皆とも会いたいな。あと、天本さんは来るよ。確認済みだもん」
「この幸せモンめ!」
 島岡は数歩前進して組みかかろうとするが、主人は素早くしゃがんで彼の腕をかわした。
 だけれども、振るわれた腕は垂直に落ち、主人の首に絡まる。
 彼からヘッドロックを掛けられながら、このふざけあえる感覚も久しぶりだ、と思う主人だった。
 
 
 
 
 
 
ウォン・ツ・リタン
 
 
 
 
 
 
 高校の門付近で主人を待っていた天本玲泉は、浴衣姿だった。
 青を基調とした浴衣で、赤や白の名を知らない花がデザインされている。帯は黄色。
 島岡は彼女を見るなり、気を使ったのか、足早にグラウンド内に行ってしまった。
 
 久々に彼女と会えたのは嬉しかったが、
 彼女の浴衣姿を見る事は初めてで、その嬉しさ並に、不思議な高揚感を感じた。
 
「主人さん。お久しぶりです」
 天本は軽く会釈をする。浴衣の袖がひるがえった。
「あ、うん……久しぶり」
 気の抜けた返事をする。
「……あの、どうかされましたか? なんだか虚ろな様ですが」
 天本は、惚けている主人に対して僅かに首を傾げ、言葉を返した。
 どうも心配させてしまったようである。
 主人は小さく首を振って気を取り直すと、頭を掻いて相手を覗き込むように喋る。。
「えっと……いや、天本さんが浴衣だったから、ちょっと驚いてるだけ」
「浴衣がですか? そう言えば主人さんの前で浴衣を着た事はありませんね。
 でも、そう珍しいものでもないと思いますけれど?」
「珍しいとかじゃなくてさ。すごい似合っていたから」
「え?」
 珍しく、彼女の声が裏返った。
 それから、目が一瞬丸くなったが、すぐに伏せられる。
 夜でも分かるくらい、彼女の頬は紅潮していた。
 目線が主人に戻される。
 どことなく申し訳無さそうな目つきだった。照れているのか、恐縮しているかだろう。
 
「あの……主人さん。行きましょう」
 小さな声でそう言う。感情を隠しているようだったが、悪い事ではない。
「そうだね」
 これ以上彼女を困らせる意味は無い。
 二人は手を取り合い、歩き出した。
 
 
 
 
 
 グラウンドの中央には、やぐらが設置されていた。
 やぐらの上では、はっぴを着た藤田巡査が、懸命に、そして楽しそうに太鼓を叩いていた。
 普段の気弱な印象とは一転して、どこか力強く見える。
 やぐらの真下では、小太鼓や笛等の楽器も演奏されていた。
 そして、やぐらを取り囲むように、祭りの参加者が群がっている。
 私服の者と、浴衣やはっぴ等を着ている者の割合は、半々といった所。
 衣服に関わらず、ウチワで自身をあおいでいる者が多かった。
 この祭りに、特に太鼓に合わせて踊るといった習慣は無い。
 そして、その人だかりを囲むようにして、幾つかの出店が並んでいた。
 色とりどりの提灯がそれらを照らしている。
 
 楽器の音に耳を寄せ、語り合い、出店の食べ物をつつき、それぞれが存分に楽しんでいるようだった。
 
 
 二人はグラウンドを時計回りに歩き出し、並んでいる出店を一瞥して回った。
 その結果、焼きソバを食べたいという意見が一致する。
 焼きソバを2パック買って、校舎入り口前に設置された飲食用ベンチに向かった。
 ベンチには二人の先客がいるのが、遠目に見える。
 小山と神木であった。珍しい組み合わせである。
 
 
 
「あ、やっぱり主人君、帰ってきてたんだ!」
 主人達に気が付いた神木がベンチから立ち上がる。
 彼女は両肩にエポレットのついた布地の白いYシャツに、青いスカートを履いていた。
 ちなみに小山は、普段のタンクトップに、主人と同じくハーフパンツ。
 神木は小走りで二人の元に駆け寄ってくると、二人の背中を軽く押して、自分達のベンチに誘導する。
 ベンチには左から、小山、神木、主人、天本が座る事になった。
 全員が座ると、神木がさっそく、ジト目で主人の脇を突く。
「……で、まだ結婚しないの?」
「いきなりそれですかい……。
 もっと、元気だったかとか、いつまでいるのとか、聞く事無いの?」
 主人は両肩を大きく落として嘆息する。
 その横で天本は、愉快そうに苦笑していた。
 
「主人……元気だったか?」
 そこで小山が声を掛けてきた。
 主人がさっき促したばかりの言葉がすぐに出てきたのが可笑しくて、一同は笑い声を零す。
 小山は何故笑われたのか理解できていないようだったが、
 悪意のこもっていないその笑いを前にして、彼も目じりを緩めた。
 
「い、いや……笑ってごめん。
 うん、元気。元気。そっちはどう?」
 主人がそう言いながらもまだ笑い顔で、愉快そうに額を抑えながら小山に問い返す。
「俺も変わりない……。良い事だな………」
「うん、まったくもって」
 軽く頷いて、それから焼きソバを開封する。
 すぐに差し込むソースの香りが食欲を掻き立てた。さっそく付属の割り箸で食べ始める。
 それを見た天本も、同じように焼きソバを食べ始めた。
 
 
「主人君、やっぱりオールスター休みで帰ってきたの?」
 神木は島岡と同じ事を尋ねた。
 小山と神木はもう飲食を済ませたのか、何も持っていない。
 主人が喋る前に、小山が立ち上がって、出店の方へ歩いていった。
 それから主人が返事をする。
「そうそう。島岡も帰ってたよ」
「あ、イガグリ君も帰ってるんだ」
「いや、確かに今年の正月はイガグリだったけど、もうイガグリじゃなかった。
 あいつ、生意気にスポーツ刈りにしてたよ」
「えぇっ? 見たい、それ見たい! どこにいるのかな?」
「さぁ……でも狭い校庭だし、すぐこの辺りにも来るんじゃない?」
「あ、そうか」
 神木は小さく二度頷くと、やぐらの周りに集まっている人々を眺めた。
 
 
 釣られて、主人も同じ方へ目線を移す。
 島岡の姿は見当たらないが、知った人間は多数いた。
 皆、ゆったりとした足取り。
 聞こえてくるのは、楽しそうな笑い声ばかり。
 その奥では、笛が泣き、太鼓がわめいている。
 更に耳をすませば、虫の微かな鳴き声も聞こえてきた。
 なぜか、ふと、額にじっとりと汗を掻いている事を自覚する。
 
 右に座っている天本を、横目で見た。
 彼女は自分の事を見ている。
 目が合うと、笑顔を振りまいてくれた。
 いつもそうだ。
 天本玲泉はいつも、一歩後ろで見つめ続け、支え続けてくれている。
 
 主人も笑顔を返す。
 時間がいつもより遅く進行している気がする。
 特に気に病んでいる事があるわけではなかったが、どこか気が楽になった気がした。
 夏の暑さも、喚き飛ぶ虫達も、懐かしき人達も、天本玲泉も。
 今感じている全てが、主人にとっては無上の幸福だった。
 
 
 
 
 
 
 出店の方から、缶ジュースを2本持った小山が戻ってくるのが見えた。
 今が機会なのかもしれない、と主人は思う。
 立ち上がると、殆ど食べてしまった焼きソバをベンチに置いて、小山が戻ってくる前に彼の元へ移った。
 
「何も持ってもらう物は無いが……」
「いや、そうでなくてさ」
 主人はベンチに向かって振り返り、僅かに顎を動かして神木を差す。
 それから、その神木に見えないように、小指を突き立てて首を傾げてみせた。
「お前は相変わらずだな……」
 小山は愉快そうに、ただそう言っただけだった。
 
 
 どういう意味なのだろうと思って、改めてベンチの方を振り返る。
 神木はベンチに座ったままだったが、天本が立ち上がり、こちらに向かってきた。
 そのまま、立ち尽くしている主人の元に着く。
 
「あの……主人さん」
 そこまで身長差があるわけではなかったが、主人を見上げるようにして喋りだす。
「うん、どうしたの?」
「今から、一緒に行きたい所があるんです。来て頂けませんか?」
 どこに行きたいのかは分からないが、断る理由は無い。
 天本の目を見た。
 目の中のまなこが綺麗だ、と、どうでも良い事を考える。
 
 主人は小さく頷いた。
 
 
 
 
 
 
 
 天本玲泉は校門を出た。
 どこにいくのかと尋ねたが、彼女は意味深に首を横に振ってみせただけだった。
 どっちにしろその場所に行くのだと思い、主人は黙って後に着いていった。
 
 校門を出た後、右に曲がる。
 主人や天本の家、それから街に行くには左に曲がる必要があった。そこではないらしい。
 右に曲がった先には、森本や小山の家があり、その奥まで歩くと山に突き当たる。
 天本は何も言わずに歩く。
 思う所があるのだと判断した主人も、また喋ろうとしない。
 段々と楽器の音色は聞こえなくなり、二人の土を蹴る音と、虫の声だけが聞こえるようになる。
 次第に道の両端には、木造民家と木々が目立つようになる。
 左手の林の奥には、清流の星野川が存在するはずだ。
 
 
 不意に天本が、左側の木造民家に向かって曲がった。
「天本さん、ここ知り合いの家かなにか?」
 主人が声を漏らした。
 彼女とその家に来た事は一度も無い。
 だが、彼女はまた首を横に振った。
「いいえ。赤の他人の家ですよ。
 あ、いえ、こちらに用事があるのではありません。ちょっと通らせてもらうだけですよ」
 彼女はそう言うと、家の横の方へ歩き出す。
 家の背後や左右は木々で覆われていた。
 だが良く見ると、家の横には、開けている土手が存在している。
 土手とは言ってもそこそこの角度があり、そこだけを見ればちょっとした山道だった。
 
 だが天本は、その土手を悠々と下る。
 随分慣れた足取り。
 主人は、勾配と木の根に何度か足を取られそうになったが、転ばずに後に着いていった。
 だんだんと、虫の音色が、跳ねるような川の音にかき消されていく。
 
 
 
 そのまま土手を下ると、川のほとりに辿り着いた。
 土手の終わりであるほとりには、横幅2メートル程はある石が多く転がっている。
 彼女はそのうちの一つに乗った。
 主人も彼女と同じ石の上に乗る。
 木々は二人と川を隠すかのように、高々と覆い被さっていた。
 
 
「……ここ?」
「ええ、そうです」
 天本は笑顔で頷くと、石の上に腰を下ろした。
 やはり同じく、主人も彼女の隣に座る。
 
 
「………ここ、小さい頃から良く遊びに来ていたんです」
 天本は川を眺めながら呟いた。
「もう、小学校に入る前から来ているんですよ。いつもさっきの民家の横を通って。
 でも、この島の子供にとってはそれが普通ですし、
 民家の方々も、むしろ通りやすいように草を刈ったりして下さっているんです」
「そっか……考えたら俺、この島にいる頃に、こうやって川に来た事なかったな」
 主人はそう返事をして、水面に目を移す。
 すると、ふと、水面が光ったように見えた。
 落とした視線をすぐに上げる。今度は向こう岸の木が光ったように見えた。
「あれ? 今……」
「あ、ホタルですよ。ゲンジボタルです」
 天本が嬉しそうに教えてくれる。
「ホタルっ? いるんだ……。うわ、初めて見るよ」
 
 
 慌てて目の前に広がる自然を凝視する。
 確かに、薄緑色の光が、幾多の箇所で点いては消えを繰り返していた。
 それは、漫画で見るような美しい輝きとはかけ離れている。
 豆電球よりも小さな光が、何度も瞬いているだけ。
 
 だけれども、それは人の手によって作り出された輝きではない。
 そこにあるのではない。
 そこにいるのだ。
 この島の虫達、動物、そして自然は、島の人々と共にいる。
 共に生きている。
 
 木の筋が通った香りと、
 緑の軟らかい香りと、
 川の涼しい香りと、
 虫のつんとする香りと、
 夜の静まり返った香りがする。
 包み込まれるような、優しい香り達だった。
 
 
 主人は、感嘆の吐息を漏らした。
「良い所だね」
 小さな声で呟いて、彼女の手に自分の手を重ねる。
「ええ。私の大切な場所です」
 天本の声は、輝いていた。
 彼女は天を仰ぐ。
 澄んだ目をしていた。
「この素敵な島が自分の故郷である事を、本当に誇りに思います」
「俺も……さ。そう思いたい。2年半しか住んでなくても、ここを故郷って言っても良いかな?」
「故郷の定義ですか」
 天本は主人に視線を移し、口元に手を当てて暫し考えてから、言葉を続ける。
「故郷とは、自分が生まれ育った場所を差す言葉ですよね。
 でも、その場所にいた期間が短くとも、第二の故郷という、そこを懐かしく思う言葉はあります。
 そこですよね。第一であれ、第二であれ……そこが自分の戻る場所だという気持ちは共通のもの。
 主人さんにとって、この島が戻る場所なのなら……故郷と言っても差し支えないのでは?」
 
 
「戻る場所……」
 彼女の言葉をオウム返しにする。
 確かにこの島は、自分の戻る場所という気はする。
 そして、この自然は、自分を癒してくれる。
 だが、それだけで自分は島に戻るのではない、と主人は思う。
 
 
 そっとまぶたを落とした。
 
 祭りの笛の音だけが、優しい、懐かしいテンポで聞こえてきた気がした。
 それと同時に様々な場面が見えてくる。
 母が目を閉じた。
 父はその母にすがって泣く。
 定期船。
 背伸びをする父。
 倒れた慰霊碑や、燃える部室。
 山田が自分の背中を叩いてくれた。
 グラウンドに戻ってきた山本、照れを隠していた島岡。
 森本が小山の肩に登った。堤の持っているグラブはしっかりと手入れされている。
 泥にまみれた練習。
 苦痛にまみれた練習。
 喜びにまみれた練習。
 学校。勉強。弁当。
 彼女が欲しいと何度思った事か。
 猪に追われた自分を、神木唯が笑っている。
 ウメ婆さん駄菓子を手渡してくれた。
 黒野博士が手招きしている。
 深雪先生が野球のルールブックを読んでいた。
 ラーメンを食べに行く平田先生。
 引っ越してきた自分を、街の人々が暖かく迎え入れてくれた。
 寂しそうな大神博之と、楽しそうな大神博之。
 赤坂に勝利。
 甲子園。
 ツタの御殿。
 球児の御殿。
 夏、虫、草、海、元気な藤田巡査、提灯、人々。
 木、民家、土手、川、ホタル、風、緑。
 幻影の玲泉が微笑んだ。
「私は貴方と共に居ます」
 
 まぶたを上げた。
 
 
「ここは……俺の故郷だ。大切な場所だよ」
 何の迷いも無い、強い口調だった。
 もう一度目の前に広がる川を一瞥した後に、天本と目を合わせる。
 彼女は微笑みを返してくれた。
 
「分かりました。それでは私は、貴方と私の故郷で、いつでも貴方を待ちます。
 貴方が社会に疲れようと、球団から解雇されようと、貴方の帰る場所で、貴方を待ちますよ」
「解雇とは、また、きつい事言うね」
 主人は肩を竦めて苦笑する。
 だが、すぐに居住まいを正して、やや大きく頭を下げた。
「でも……その言葉は嬉しいよ。ありがとう。
 ……まぁ、故郷云々以前に、何があろうと天本さんの所へは帰るけどさ」
 天本は、素直に頷き返してきた。
 普段の彼女なら、ここで赤面するなり俯くなりしている。
 照れの前に、嬉しいという気持ちが来ていたのだろうか。
 
 
 
 天本は再度川の方に視線を移した。
 目を細め、川の踊る流れと、ホタルの輝きと、風に揺れる木々の葉を眺めている。
 それから、やや高いトーンで言葉を発する。
「この風景は、私が子供の頃から変わっていません。
 私だけでなく、必ずこの自然も、主人さんを待ってくれますよ」
 
 自然と共に存在できる。天本玲泉はそう言ってくれている。
 主人も同じように、もう一度川を見る。
 暗い。
 暗い。
 飲み込まれてしまいそうな暗さ。
 しかしその奥で確かに跳ねている川からは、生気を感じる。
 光る。
 光る。
 それはホタルの生命力を示すかのようなか細い輝き。
 しかしホタルは、光るのをやめようとはしない。
 落ちる。
 落ちる。
 風に吹かれた葉は、いくつかが木から離れて落ちる。
 しかし落ちた葉は、虫や土の生命に変換されるだろう。
 
 
 
「そうだね。天本さんにそう言われると、そういう気がしてくる。
 ……今、この光景を前にしてさ。
 とても安らかな気持ちだし、感動してるんだよ。俺。
 でも、目に焼き付ける必要は無い……」
 一度、言葉を切る。
 大きく背伸びをした。
 天本が自分の顔を覗きこむ。
 主人は両手を下に戻し、気力溢れる表情で言葉を続けた。
 
「……いつまでも残るんだから」