月光SS 忍ぶ気持ち
 
 
 
 倉刈が毎日月光領の南部にある川で釣りをしている事を知っていた愛は、ある4月の夕方、その川に足を運んだ。
 川は月光の砦に近く、当然領の奥に位置する月光城と比べれば、危険な場所ではある。
 ただし、砦に隣接する地域を占拠している妖怪一味の攻撃は、近日は比較的緩い。
 愛が一人でその場所を訪れても、ましてや倉刈が一人で釣りをしていても問題の無い危険性であった。
 道中、山を一つ越える事になったが、普段は一日で里の端から端まで駆け回っている忍びにとっては、それも問題にはならない。
 
 
 倉刈は橋の近くで釣りをしていた為、すぐに見つける事ができた。
 愛は物音を立てずに土手を降りた。
 土手には短い雑草が生い茂っているが、川沿いに座っている倉刈の付近は土一色だ。
 釣竿を構えている彼の背後までやってくるが、倉刈は振り向かない。
 彼の横に置かれているビクに目を移すと、中には一匹の魚も入っていなかった。
 彼が日に日に釣りをしているのは、他でもない、食事の為である。
 今日はそろそろ陽が落ちる。どうやら今日の倉刈の夕食は、米と観賞用梅干だけのようだ。
 
 
「倉刈さん、釣れてる?」
 愛は釣れていない事を知りながら、挨拶代わりにそう声をかけた。
 その言葉に倉刈は、肩を大きく震わせて反応し、慌てて振り向いた。
 どうやら愛が声をかけるのを待っていたのではなく、単純に愛に気がついていなかったらしい。
 愛は倉刈の返答を待たず、足を川に投げ出して彼の隣に腰掛けた。
 
 
「い、いやはや、愛様……釣れず気づかずで申し訳がありません」
 倉刈は苦笑しながら愛に会釈をし、釣り糸を手元に引き戻して、片付けを始めようとする。
「あ、続けてていいの。ちょっと世間話があるだけだから」
 愛は片手を目の前で降ってみせる。
「世間話……ですか?  はぁ」
 気の抜けた返事だったが、それから行った、釣り糸を川に放つ動作は機敏だった。
 相当気合が入っているようだが、それにしても忍者があそこまで近づかれて気がつかないのはどうだろう、と愛は思う。
 だが、今日はそういった話がしたくて来たわけではない。
 
 
 
 愛は小さく息を漏らし、水面に目線を移した。
 そこに写っていた自分の表情は落ち込んでいる事が、自覚できる。
 水面の自分に話しかけるかのように、愛は口を開いた。
「あのね……倉刈さん、火竜の領地に娘さんが住んでいたよね?」
「……ええ、ひでこの事ですね」
 倉刈の声のトーンが少し落ちる。
 彼の頼りない表情が、余計申し訳無さそうに沈んだものに変わった。
 
「娘さんも忍者の修行、受けたんだよね?」
「そうですよ」
「そっか……それで、倉刈さん、娘さんからは何て呼ばれていたの?」
 その言葉に、倉刈は顔を上げて愛に向き直る。
 彼の目はいつも通りキョトンとしているが、どことなく温かみのある目だ。
 その目じりを下げ、一層温和な表情になって、倉刈は返事をした。
「娘と最後に会ったのは1年前ですが、あの子はお父さんって呼んでくれていましたよ」
「………そう」
 愛は目を伏せて言葉を返す。
 
 
 彼女にしては、倉刈の返事がどうであれ、余計落ち込む結果になっていただろう。
 だがそれでも、彼女はその疑問を誰かに投げかけたかった。
 そして、相談したかった。
 愛は、更に言葉を続けた。
 
 
「……倉刈さんも知っていると思うけれど、私は生まれた頃から忍者として育てられたの。当然よね。頭領の娘なんだもの。
 だから、任務や掟が何よりも優先だって教育を受けたし、実際にそう思ってもいるわ。でも……」
「寂しい、ですか?  頭領に親子の間柄で接する事ができないのが」
 愛の言葉の間に、倉刈が言葉を挟む。
 それは、一言一句違わず、愛が続けようと思っていた言葉だった。
 
 愛はハッと顔を上げる。
 横に座っている倉刈は、相変わらず温和な……言い換えれば間の抜けた表情をしている。
 
 
「分かりますよ。私もそういったジレンマに悩まされた事はありましたから。
 とは言いましても、頭領とその娘……と比較できる程度じゃありませんけれどね。はは……」
 恥ずかしそうに頭を掻きながら、彼は再度釣り糸を手元に戻した。
 糸を竿に絡めると、ビクの横に転がす。
 転がってきた竿が当たっただけで、ビクは頼りなく僅かに傾いた。
 それを見た倉刈は、どうしようもないといった様子で肩を竦める。
 それから、あぐらをかいて愛に向き直った。
 
「頭領の事、お父さんと呼びたいのですか?」
 改めて問う。
 愛は倉刈の方を見たまま、ゆっくりと頷いた。
 それから、再び目線を水面に移す。
「……ええ。だって当然でしょう?  お父さんなんだもの……他に理由なんかない。
 分かってはいるの。私は忍びとして生まれてきたし、その生まれを恨むつもりもないわ。
 でも……やっぱり寂しい。お父さんと呼びたい。親子として暮らしたいの」
 川に投げ出した足をぶらぶらとさせながら、彼女はそう言う。
 
 
 
 それからすぐに、そう、分かっている、と心の中で呟きなおす。
 分かっている。
 どうしようもない事、そして話しても無駄な事だと分かっている。
 父には月光300年の伝統を守り、月光の領地に住む人々を守り、そして月光の忍びを守るという義務がある。
 その義務の為に、自分は普通の親子とは違う関係を強いられてきた。
 父と子である以前に、頭領と忍び。
 甘える事も許されず、父として慕う事も許されない。
 暖かく守ってもらう事は許されず、娘として可愛がってもらう事も許されない。
 それは当然の事。
 変え様の無い状態。
 だけれども……まだ齢20を越えたばかりの娘である彼女にとって、
 愛情こそが何よりも求めている感情だという事も、また変え様の無い状態だった。
 
 
 愛は悲しげな目をしていた。
 その目に光る物こそ見当たらない。
 だけれども、彼女の辛さは泣く泣かないの尺度を越えている事を、倉刈は知っていた。
 
 
「お父さんと呼ぶ、親子として一緒に暮らす事は、何に変えても大切というわけではないと思いますよ。
 ええ、むしろ、ややこしいんじゃないんでしょうかねぇ」
 倉刈は、ぽつりぽつりと呟くようにそう言った。
「え……?」
 愛は虚ろな声を漏らす。
 その言葉は、全くもって予想外だった。
 
 
「本当に大切な事は、他にあります。
 それを見失って外面的な事を求めても、糸が縺れるわけですよ」
 倉刈は、そんな愛を慰めるかのような、あやすかのような、穏やかな口調で言葉を続けた。
 愛は何も言わない。
 ただ、黙って水面の自分を眺め、倉刈の言葉を聞いている。
 
「愛様がそうやって内心では頭領を慕っているように、
 頭領もまた愛様を大切に思い、そして普通の親子でいられたらと思っていますよ。
 ただ、変えようが無い事はどうしようもない。
 ならばその中で少しでも愛しようと、頭領は思っておられるはずです」
「……そうかな?」
 愛はそのままの視線で呟く。
 最後の『愛しようと』という言葉を聞いて、彼女の胸は僅かに高鳴った。
 
「ええ。もちろんですとも。
 例えば、月光一の腕利きである水木さん。
 彼を自分に付けず、愛様に付けているでしょう?
 ……良く見れば、頭領の愛は沢山あるものですよ」
 
 倉刈はそう言うと、ゆったりとした動作で立ち上がる。
 釣竿とビクを拾い上げると、僅かに頬を紅潮させながら言葉を続けた。
 
「だから……本当に大切な事があるから、私もひでこと離れていようが、我慢できます。
 確かに会えないのは辛い。だけれども、絶対にいつか再会できます。
 だから、こうやって釣りをしているのも、ひでこと再会した時の貯金の為ですよ?」
 
 
 まだ僅かに差している夕陽が、彼の頬に差して、その赤らみはどことなく輝いているように見える。
 倉刈は年甲斐もなく、無邪気なはにかみを見せていた。
 この笑顔だ、と愛は思う。
 この笑顔が、自分が求めていた笑顔。父の笑顔。
 形こそ違えど、良く見れば自分の父もこんな暖かさを持っているのだろうか……。
 いや、持っているはずだ。
 きっと、今まで自分が気がつかなかっただけ。
 それとも、こんな事まで父は忍ぼうとしているのだろうか?
 しかし、何にせよ……彼が目の前で言ってくれたその言葉を信じよう。彼女はそう思う。
 
 
「倉刈さん……」
 少しだけ、口調に気力が戻った。
 彼女は倉刈を見上げている。
 その見上げている目は、次第に弧を描いた。
 気がつけば、倉刈と同じく、愛もはにかんでいた。
 
「……ありがとう。
 暗くなったし、そろそろ帰りましょうか」
 忍び服についた泥を叩きながら立ち上がり、愛は綺麗に微笑んだ。
「ええ、そうですね」
 倉刈は頷く。
 二人は共に、緩やかな土手を登った。
 気がつけば、辺りには生暖かい風が吹いている。
 歩いているだけでどこか心地良いと、愛は不意にそう思った。
 
 
 
 土手を登った所で、月光城側から一人の男が駆けてきているのが見えた。水木である。
「おーい、愛様ー! もうすぐ夜になるってのに何やってんだよ!」
 水木は二人の元に向かって駆け続けながら、そう叫ぶ。
「……水木さん、いつまでたってもあの言葉遣いですね。
 水木さんが年上といえど、愛様は頭領の娘なのに」
 倉刈が嘆息する。
 
 
「なるほど……ね。外面的な事を求めてもねぇ」
 だが、愛は顔をしかめずに苦笑した。