もうすぐ夏と言っても良い6月某日。
 暑い季節の到来を表すかのように、日の出島の山々の間で沈むまいと輝いていた夕陽も、午後7時を過ぎると、流石に大分その姿を隠しだした。
 日の出に差す陽が、沈む。
 そんな、当たり前のの自然現象と同じく、島岡武雄はこの日も、部活終了後に当たり前の様に、川辺で素振りを行っていた。
 夏の全国大会地区予選が近い事もあって、日に日にその練習姿勢には熱が加わっているが、別段、彼は最近になって自主練習を始めたわけではない。
「199……っ! 200……っ! うし!」
 この日も日課である200スイングを終えると、足元に転がっているバットケースを拾ってバットをしまい、更にその横に置いているバッグを手に取ると、砂汚れを叩き落としてから背負う。
 暖かい陽を浴びて、川辺の草草は強く萌えていたが、彼が素振りを行っている周辺だけは、緑を剥いでしまったかのような砂地となっている。一年半の素振りの証明だ。
「あぁ、腹減ったぁ……」
 ふぅ、と小さく嘆息を零すと、足早に川辺から道路に上がり、帰宅路を歩き出す。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
二人の彼
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 日の出島野球部には、野球熱心な面子が多い。
 それというのも、一度、野球部が解散したからであろう、と武雄は思っている。
 不慮な事故による野球部の解散。
 抗う事に羞恥を感じていた武雄は、流されるがままに野球を辞めた。
 それが何よりも辛かったし、悔しかった。
 日課となっている素振りまで辞めるのは気持ち悪い気がして、続行したが、無念の想いが募るだけだった。
 だけれども。
 一人、諦めない男がいた。
 主人公。彼はかつての部員に復帰を呼びかけ、そして武雄にもその言葉が掛かった。
 主人と、抗う姿を捨てきれなかった彼の間には一悶着があったが、再び武雄がグラウンドに戻る事を希望していたのは、他でもない、武雄自身である。
 一悶着のあった翌日、笑みを堪えようと無理に口を結びながら、武雄がグラウンドに戻ってきたのは、当然の流れである。
 そのグラウンドは、後から考えると想定できる範疇ではあったが、この時の武雄にとっては思ってもみない状態だった。
 それは、以前にも増して、楽しそうに、そして熱心に野球に取り組むかつての部員達。
『あぁ、やっぱりそうなんだ――』
 その光景を見た武雄は想った。
 皆、同じ気持ちで過ごしていたんだろう。
 そして、グラウンドに立っている今も、同じ気持ちなのだろう。
 今まで気がつかなかった仲間達の熱意は、なかなか、感動的だった。
 そして、それを見せてくれた……何より、自分をグラウンドに戻してくれた主人に対して、彼は、特別な感情を抱くようになっていた。
 
 
 
「ただいまぁー」
 やや声を張り上げながら、家の門をくぐる。
 疲れている時に疲れた様子を見せると、自分自身まで必要以上に疲れた気がする。
 弱音を見せない彼らしい、心の持ちようだった。
 もうこの時、陽は完全に落ちている。
 やや強く吹く風が洛陽と重なって、実に過ごしやすい。
 
「では、また明日学校で」
 不意に玄関から、小さな声が聞こえる。
 それとほぼ同時に玄関が開き、同級生の天本玲泉が出てきた。
 恐らく、姉の希美を尋ねていたのだろう。
 年は一つ違うが、どうした事か、二人は仲が良い様である。
「おう、気をつけて……お、武雄。おかえり」
 案の定、希美が玄関内から顔を覗かせる。
 彼女は、更に言葉を続けた。
「丁度良いや。武雄、あんた、この子家まで送ってきな。もう大分遅いしな」
「そんな。それじゃあ島岡さんに……あぁ、ええ、島岡さんに悪いですから」
 普段は希美に対しても武雄に対しても『島岡さん』と呼びかけている天本は、一度言葉を詰まらせたが、あまり気にしない事にしてすぐに言葉を続ける。
「そうそう、なんだよそれ! 俺、今帰ったばっかだし、飯も……」
 希美のエスコート命令に対し、首を横に振る天本とは反対に、武雄は首を縦に振り……かけた所で、上目遣いで拳を鳴らし始めた希美の姿によって、自粛を余儀無くされた。
「………ちっ! 分かったよ。うし、さっさと行こうぜ」
  天本が何と言おうと、武雄にとって、希美の言葉は絶対である。
  小学生の頃は実際に腕っ節も希美の方が強かったが、高校生となった今ではどうだろう。
  柔道部である姉と力を競った事こそないものの、もう随分前から自分の方が強いはずである、と思っている。
  それでも希美の言葉に従ってしまうのは、習慣なのか、それとも姉弟としての付き合いなのだろうか。
「あ………。分かりました。すみませんが、宜しくお願いしますね」
 武雄に軽く会釈をする。
 それを受けた武雄は、僅かに顔を背けると、玄関内に入って姉に所持品を渡した。
「じゃ、これ、戻しといて」
 それだけ呟いて振り返る。
 天本と一定の距離が開いているのを確認すると、更に小声で呟いた。
「本当は、これ、俺の仕事じゃないんだぞ」
 
 
 
 これはとんでもない役を押し付けられたかもしれない、と武雄は内心で舌を打ち鳴らした。
 島岡家を出て、真っ直ぐに天本の神社へ向かうだけ。
 知った道だし、三十分もかからないだろう。それらは問題ない。
 武雄が悔やんだのは、その道中の振る舞いである。
 元々、武雄はそう饒舌な方ではない。別に気を使っているわけではないが、他人が喋った後、それに対して話を合わせる事が多い。
 そして天本もまた同じタイプの様である。自ら無理に話題を作り出す事はない。
 要するに、話題が無いのである。
 歩き出して10分間。自宅付近の住宅街を抜けたが、二人とも、一度も口を開かない。
 いくら合わせる方だとはいえ、本来なら彼も、さすがに自分から話を持ちかける。
 今回はそれもできないのだ。
 良く考えれば、天本冷泉と二人で歩いた事も、二人で話した事も無い。
 同じ島で育ったとはいえ、島民皆家族という仲であるわけでもない。
 自分は彼女の事を知らないし、彼女もまた同様だろう。
 たまに、ちらと彼女を見やっても、いつも通り、ほんのりと目じりを下げているだけだ。
 何を考えているのかさっぱり汲み取れない。
 
 道の脇に見えるのが、家よりも木の方が道の脇に多く見えるようになっても、その調子は変わらない。
 このまま全く会話が無いのだろうか、と武雄が思い始めたこの時になって、何の前触れも無く天本が開口した。
「野球、楽しいですか?」
「……まぁまぁ」
 言ってから、もう少し愛想良い返事をしても良いものではないか、と後悔する。
「まぁまぁ、ですか」
 彼女のトーンは若干落ちる。
 だからというわけではなかったが、武雄は前言に言葉を付け加えた。
「別に楽しくないとは言ってねぇよ。わいわい楽しんでやるだけの草野球じゃないってこった」
 ぶっきらぼうな口調。
 何故だろうか。ふっと、主人の事が脳裏に浮かんだ。
「甲子園、行かなきゃならねぇからな。馬鹿が一人『絶対行くんだ』って盛り上がっているからよ」
「馬鹿、ですか。そうかもしれませんね」
 彼の名を挙げなくとも、天本にも、誰の事かは分かった様である。
 だが、彼女はそう言いながら、目じりをほんの僅かにつり上げた。
「だけれども、他校も強いのですよね? 特に今年は大安高校が強いとい噂を聞きました」
「関係ねぇよ。強い所が必ず勝つわけじゃねぇし」
「でも、強い所が勝ちやすい事にも変わりはありませんよ」
「あのなぁ!」
 思わず声を荒げてしまう。
 天本は謝る様子を見せない。普段よりもやや強い目つきながら、飄々とした表情も変わらない。
「ちっ!」
 彼女のマイナス思考に対する反論の気が薄れて、今度は実際に舌を打ち鳴らす。
 それから、もう一度天本を一瞥。
 また主人の事を思い出したが、この時浮かび上がった主人は、天本と楽しそうに会話をしていた。
 言おうか言うまいか。
 一応考えたのだが、内心、誰かに言いたかったのかもしれない。
 天本冷泉と主人の間柄が引き金になったのかもしれない。
 気がつけば、口は開いていた。
「……確かに大安は強いけれど、主人の願い通り、甲子園に行かなきゃなんねぇの」
 妙にこっぱずかしい気がして、足元を軽く蹴り上げる。
「あいつのお陰でもう一度野球ができたんだ、借りを返さないわけにゃいかないんだよ」
「そうですか」
 天本の返事は素っ気無いものだったが、目つきが元に戻っている。
 本当に何を考えているのか分からない奴だよ、と思う。
「……お前も暇なら、試合観にきて応援してくれよ」
「え………。それも、良いかもしれませんね」
 彼女は一瞬言葉に詰まった後、やや小声になった。
 だが、それを気にせずに、武雄は言う。
「その方が主人、喜ぶぞ」
「な、何ですかそれ?」
 今までの会話の中で、天本は最も感情の変化を見せた。
 口調は明らかに狼狽の気を含んでいる。
 予想以上の反応に、武雄は一瞬物珍しそうな顔になるも、すぐにその表情を愉快そうな笑みに変えた。
「何ですかって、付き合ってるんだろ。皆知ってるぞ」
「そんな事はありません! まだ付き合ってなんか……」
「へぇ。『まだ』ねぇ。へぇ」
「し、島岡さんっ!」
 天本は顔をお赤らめだす。
 この一面を見て、いよいよ愉快さを増してきた気分を抑えられるはずが無い。
 それまでの無言はどこへ行ったのか、二人の掛け合いは、結局神社まで続いた。
 次の日から、二人が顔を合わせた時に、今までになかった簡単な挨拶が行われるようになったのは、誰も気がついていない。