主人公と天本玲泉は、並んで歩きながら高校の門を出た。
 今までも、特に甲子園で優勝した後は、こうやって二人で帰る機会があった。
 だけれども、もう、今日でそれも最後になる。
 二人が時間を共有していられるのも、これから何ヶ月も訪れないだろう。
 
 もう、野球部の仲間との挨拶は済ませた。
 本当はこれから商店街のお好み焼き屋でパーティの予定だったが、主人はそれを固辞した。
 キャプテンが不参加とはどういう事だと仲間は騒ぎ立てたが、どういう事なのか、全員ちゃんと分かっている。
 だから、最後には笑って主人を送り出してくれた。
 
 天本が、歩きながら喋った。
「主人さん。ご卒業、おめでとうございます」
「お互いにね」
 主人は優しい微笑を浮かべた。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
桜の木の下
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 ドラフトで指名された主人は、今年の1月から本土の球団寮に移っていた。
 まだ卒業をしていなくとも、こうやって1月には球団に合流して練習をするのが、プロ球界のルールである。
 二月のキャンプでは二軍スタートとなったが、今年高卒ルーキーとなる事を考慮すれば、むしろ普通だろう。
 三月に入ってからは、まだオープン戦に出場する機会が無い。
 このまま四月を迎えると、シーズンが開幕。
 そして十月は日本シリーズ、十一月に秋季キャンプ。
 その間、選手は球団に帯同し続けなければいけない。
 プロ野球選手が自由の身となるのは、大まかに区切れば、12月だけという短い期間だ。
 
 だが、この卒業式の日だけは、球団から離れて地元に戻る事が出来る。
 主人もこの日、卒業式に出席する為、二月半ぶりに日の出島に戻ってきていた。
 
 
 
 二人はもう何度も歩いた帰宅路を辿っている。
 同じ方向に向かって帰っている生徒もいるにはいるが、
 日の出高校の学生数自体が少ない為、その生徒達も数える事が出来る程の人数だった。
 
 帰宅路は川沿いの土手で、土手は短い雑草で生い茂っている。
 そして、その川に沿って、真っ直ぐ一列に桜の木が植えられていた。
 日の出島は暖かい島ではあるが、流石に3月では、まだ桜は欠片程も咲いていない。
 ただ、土手に吹く穏やかな風は、春の到来を二人に教えてくれていた。
 
 
「せっかくこうやって、球団に合流される前みたいにお会いできたのに、
 それも今日限りなのですよね」
 天本が寂しそうに呟いた。
「うん……次に島に戻れるのは、オールスター中の休みだと思う」
 主人は申し訳なさそうな口調で喋った。
 本当は、大抵のルーキーはオールスター中も球団に残って練習に励んでいる。
 だけれども、今の主人には無理な注文である。
「オールスターって、7月でしたよね」
「そうだよ」
「あと4ヶ月ですか……」
 嘆息し、足取りを止める。
 主人も二、三歩歩いてから、引っかかるように歩くのを止め、天本に向かって振り返る。
 いつもと変わらず、彼女は笑みを浮かべている。
 だけれども主人は、その笑みから悲しさを読み取る事ができた。
 それが分かるようになったのは、半年程前から。
 彼女の罪悪感を受け入れてあげる事ができた、あの日から。
 
「寂しいよね」
 天本は笑顔を絶やさぬままで、こっくりと頷く。
 主人は頭を掻きながら土手に腰掛けた。
 天本もすぐ、その主人の横に座る。
 
「主人さん」
 天本は真っ直ぐ、前方の川に目をやりながら、喋る。
「主人さんは、何故、私の事が好きになったのですか?」
 この質問は、初めて受けた。
 主人は即答せず、自分の記憶を掘り起こす。
 呪いのベールに包まれていた、野球部時代。
 呪いを解く事に必死だったせいか、あの頃の記憶はどれも呪いがフィルターになったかのようにぼやけている。
 
 だけれども、今探すべき記憶は、はっきりとその形を成していた。
 主人は、一言一言を刻むように喋りだす。
 
「はじめはさ。色々助けてくれる優しい子、って思っていただけだよ。
 うん……それだけで、好きになったわけじゃないんだよね」
「はい」
 天本は主人の呼吸を整えるかのように返事をして、その先の言葉を促す。
 
「天本さん、デートの最中に死にかけた猫を見つけて、看取った事あったでしょ?」
「そう言われれば、ありましたね」
「あの時に天本さんが言った言葉が、ずっしりきてさ」
 天本は首を傾げて主人に向き直った。
 彼女はなんと言ったのか、自分では覚えていない。
 主人は言葉を続けた。
「死ぬ時に、誰かがそばにいるのは良いものだ……って。
 俺あの時さ。自分の呪いの事、思い出してたんだ。
 それまで、呪いで俺が消えるのが、すごく怖かった。
 呪いを解く為に野球に打ち込んでいたけれど、いつも心の奥には恐怖が付きまとってたんだよ。
 だけれども……あの瞬間、もし呪いに打ち勝てず消えてしまっても、それはそれで良いって思ってさ。
 ……ほら、天本さんは、呪いの話を共有してくれていたじゃん。
 あの時の猫、とても安らかに逝けたと思う。
 だから俺も……消えてしまっても、この優しい人がそれまで側にいてくれたのなら、それで良いんじゃないかって……」
 
 主人はそれだけ言い切ると、天本を凝視した。
 だが、天本は逆に主人から目線を逸らし、悲しそうな表情を浮かべて、下を向く。
「でも……私は、その呪いに加担していたのですよ?
 なぜ、本当の事を話しても、好きでいてくれたんですか?」
「それも天本さんの優しさじゃん。むしろ、余計好きになったよ」
 主人は笑顔で言い放つ。
 天本はハッと顔を上げた。
 それから、主人を見つめ返す。
 目じりには冷たいものが浮かんでいたが、それをゆっくりと拭い去る。
 
 それから、心の底から笑ってみせた。
 
「………先ほどの話に戻りますが、主人さんと暫く会えないのは確かに寂しいです。
 けれども、私、耐えられますよ。またこうやって一緒にいられる事が来ると、分かっているのですから」
 
 主人は微笑んで、同意の意を示した。
 
 
 
 天本は不意に立ち上がり、桜の木を眺めた。
 まだ咲いていない桜の木。
 どことなく寂しさを感じさせる桜の木。
「桜は、どうして艶やかな色で咲き乱れるか、ご存知ですか?」
「あ、聞いた事あるよ。
 確か、桜の木の下には死体が埋まっていて、
 その死体の血を吸い取って、染まっているんだよね」
「ええ。それはある小説家の中での話ですが、一般に広く伝わっていますよね。
 ですが……私は、違うと思うのですよ……」
 
 天本はそこで間を取った。
 桜の木を見上げながら、言葉を続ける。
 
「桜の木の下には、幸せが埋まっていると思うんです」
「幸せ?」
「はい。この国では、毎年多くの人が桜が咲き乱れるのを心待ちにしています。
 そして咲いた桜の下で、仲間と、家族と、恋人と……大切な人達と、大切な時間を過ごす習慣があります。
 そんな方々を見ていると、本当に幸せそうに見えるのですが……、
 桜は、その幸せを吸い上げるからこそ、あそこまで綺麗になるのかな、と」
 
 
 天本は言い切っても、まだ桜の木を見上げていた。
 どことなく、頬が赤らんでいるようにも見える。
「そうか。天本さんがそう言うなら、そうかもしれないね」
 
 主人も立ち上がり、同じく桜の木を見上げながら言う。
 まだ咲いていない桜が、咲いた様に感じたのは、なぜだろう。
 更に、一呼吸置いて、言葉を続けた。
「俺も、今、幸せだもん」
 
 
 天本は主人に向き直る。
 それから、これから咲き乱れる桜よりも綺麗に微笑んでみせた。