「はあ……」
 盛大な嘆息。
 四柳は気だるげな様子で、学校の下駄箱に靴を入れた。
 
 
 月曜日である。
 学生だろうが社会人だろうが、気分を滅入らせてくれる日である。
 それは四柳も例外ではない。
 野球部を引退し、勉強の為だけに通うようになった今では尚更だ。
 だが、この日の溜息の理由はそれだけではない。
 
 
 
 
 
(ふむ、改装こそしておるが、校舎を建て替えていないとは恐れいったな)
(……河島、なんで学校にもついてくるんだ?)
(決まっておろう。母校をもう一度見たいからだ。
 他にも見たいものは山ほどあるが、お前に説明を受けねば面白みが半減するからな)
 
 溜息の最大の理由……河島蓮也がそう思念を送ってくる。
 彼は先ほどからずっと四柳の隣を歩いているが、誰も呼び止めようとはしなかった。
 
 昨日聞かされた通り、現在の河島は、視認出来ず触れる事もできない状態と化しているらしい。
 しかし、四柳は例外となるような調整が施されている。
 四柳は河島と思念を送受信できる。
 河島の姿を視認する事も出来る。
 今、出来ないのは触れる事だけ。
 便利なものではあるが、自分だけコミュニケーションが取れるのは、どうにも落ち着かないものでもあった。
 
 
 
 
(まあ、目の届かない所にいられるというのも、それはそれで怖いけれどさ。
 もう一度念押しするけれど、変な事はしないでくれよ?)
(大丈夫だと何度も言っておろうに)
(そんな事言いながら、さっきも他の学生をすり抜けて遊んでたじゃないか)
(あれ位……いや待てよ。すり抜ける?)
 河島がポンと手を打つ。
 
(そうか。器用にすり抜ければ、女生徒の身体と衣服の間に顔を差し込む事も……)
(おい、何考えてるんだよ!)
 四柳は眉を顰める。
 
 
 
(冗談、冗談! そう怒るでない)
(昔の人ってカチッとしている印象があったけれど、そうでもないもんだな)
 
 呆れの思念を送る。
 だが、しかし。
 同時に少し羨ましいとも思う。
 
(四柳よ。今、羨ましいと思ったな?)
(む、むう……そんな事より着いたぞ)
 
 
 
 
 四柳の言葉通り、教室前に着いた。
 校舎同様に木製の扉は、建て付けが悪く、少し力を込めて開けなければならない。
 教室内を一瞥すると、もう半分以上のクラスメートが登校していた。
 彼らに挨拶しながら、窓際の自分の席に向かって歩く。
 
 
 
「おはよ、四柳君」
「唯さんおはよう。今日も寒いねえ」
 自分の席の前まで来た所で、隣の席の神木唯とも挨拶を交わした。
 野球部のマネージャーである彼女とは、部活でも私生活でも親交があり、それなりに仲は良い。
 
 
 ふと気がつけば、河島がそんな彼女を興味深げに眺めていた。
(河島、どうかしたか?)
(……いや、こうして改めて見ると、最近の女学生は随分過激な格好なのだな。
 太ももが少し見えているではないか)
(ああ、スカートの事か)
 四柳にとっては普通の光景だったが、河島にとっては過激なのであろう。
 この手のジェネレーションギャップは面白いかもしれない、と四柳は思う。
 
 
 
(そうだ、これで河島をからかうのも面白いかもしれないな。
 秘蔵のコスプレ写真集とか見せたらどんな反応するんだろう。
 あの本が良いかな? いや、あの本も悪くはないな)
 
「四柳君、席にも付かずに何考え込んでるの?」
「ん、うちにあるコスプレ写真集、どれが一番ヤらしいかなって………うえっ?」
 そう返答した後で、裏返った声が出る。
 神木唯が、顔を引きつらせていた。
 
 
(つい考えている事を口に……)
(間抜けめ。俺は悪くないのだからな)
(いーや、お前の存在自体がややこしくしているんだ!)
 河島に抗議の思念を送りつける。
 だが、いくら送りつけた所で後の祭りである。
 
 
「四柳君……四柳君の……」
 唯が体を震わせる。
 四柳は反射的に身構えようとしたが、遅かった。
 
 
 
「えっちぃいいっ!!」
 
「ふべええええっ!?」

 
 彼女の痛烈なハイキックが四柳の顎を奇麗に捉える。
 神木唯は一般的な女子高生の体格である。
 格闘技の経験も特にない。
 しかし、どうした事かその蹴りは強烈で、一撃で四柳の耐久力を根こそぎ削ってしまった。
 
 四柳の身体が、膝からゆっくりと崩れ落ちる。
 彼の顔には、どうした事か微笑みが浮かんでいた。
 彼も負けてはいなかったのだ。
 さすがは野球で鍛えた能力の持ち主である、と言わなくてはなるまい。
 すなわち……
 
 
 
(し……
 しろ……)
 彼女の脚が躍動した為、短いスカートの中が一瞬だけ露わとなっていた。
 ハイキックを受ける直前まで、野球で鍛えた動体視力を発揮した事によって、
 そのスカートの中をしっかりと脳裏に焼きつけ……
 
 
 
 
(白かった……)
 四柳知佑は、ガクリと床に崩れ落ちた。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
黄泉人奇譚
 
師走二日(月)「獣と黄無垢」
 
 
 
 
 
 
 
 
「おお、いたた……まだ顎がガクガクするよ」
「まだ痛むのか、軟弱者め。はよう歩かんか。一度帰ってから、また遊びに出るぞ」
「学校見ただけで十分だろ? 今日は家で休ませてくれよ」
 日が暮れはじめた林の中の農道に、二人の声が響く。
 
 四柳の自宅は、島の市街地から離れた所にある。
 帰る為にはひと気の無い林を通り、この日も周囲に通行人がいないという事で、河島は実体化して傍を歩いていた。
 
 
 
「しかし、あの程度の蹴りを防げんとは嘆かわしい」
「河島は実際に対峙していないからそんな事言えるんだよ」
 口を尖らせながらそう言う。
「フン。俺なら絶対に受け止めておるぞ」
「どうだか。下着に目を奪われた隙に喰らいそうだけどね」
「むむ……そ、その様な遅れを取るわけがなかろう!」
 なおも騒ぎながら歩く。
 風が強い夕方で、周囲の木々は大いにさざめいていたが、それをもかき消す声量であった。
 だが……
 
 
 
 
 
 ガザザッ!
 
「!?」
 林の中から物音が聞こえた。
 河島は反射的に身体を反転させる。
 たちまちにして彼の姿が消えた。
 
 
 
「やば……」
 残された主人は小さくそう呟き、物音のした方を見る。
 誰かが姿を現す様子はない。
 
(河島、風で木が揺れただけじゃないか?)
(いや、違う。それとは明らかに異なる物音であった。
 動物かもしれんが、確実に何かいるぞ)
 河島が緊張した思念を送り返してくる。
 それにつられて、四柳もまた緊張を解かずに、なおも林の中を凝視した。
 
 
 
 
 
 こうして緊張していると、周囲の情景がありありと認識できる。
 
 林は、なおも風で揺れてざわめいていた。
 
 聞こえてくるのは、その音だけ。
 
 林の背後から光が差す。
 
 落ちかけている太陽のものだ。
 
 黄金色で眩しい。
 
 対照的に、こちらから見える木々は黒い。
 
 影そのものであるかのような黒さ。
 
 なかなかお目にかかれない情景だ。
 
 おそらくは、綺麗なのだろう。
 
 吸い込まれてしまうような印象を受ける。
 
 悪い意味でだ。
 
 自然と一体化するなんて気持ちの良いものではない。
 
 吸収されるという方が適切だろうか。
 
 非常に気分が悪い。
 
 脂汗が額を這う。
 
 これは……
 
 
 
 
 
(なんと言うのであったかな、こういう情景は……そう……)
 河島の思念が流れ込む。
 
 
 
(逢魔が時……)
 
 
 
 
 
 
 
 
 その瞬間であった。
 
「ギィヤァッ!」
 鋭い金切り声が聞こえるのと同時に、林から何かが飛び出してきた。
「危ない、四柳っ!!」
 先に反応を示したのは河島だった。
 実体化すると同時に四柳の身体を突き飛ばし、二人して地面に倒れ込む。
 
 
 
「いつつ……」
 四柳が立ち上がりつつ振り返る。
 
 先程まで立っていた場所では、獣が爪を地面に突き立てていた。
 体毛は猿のようである。
 だが、明らかに猿とは異なる生物だった。
 体格は猿の1.5倍はあるだろう。
 爪も長く、20cm程は伸びているだろうか。
 身のこなしも猿の域を越えていた。
 河島に突き飛ばされなければ、間違いなく爪に刺されていた。
 
「ギィィ」
 猿がゆっくりと顔をこちらに向けてくる。
 金色の鋭い瞳をしていた。
 何よりも、ここが違う。
 この生物は自分を殺すつもりだと、本能的に感じ取れる。
 
 
 
「……ガ」
 獣が何か呟いた。
 唸り声ではない。
 何らかの文言を形にしようとしていた。
 
「河島! 今こいつ、喋った……?」
「馬鹿者! そんな事より逃げるぞ!」
 河島が肩を強く揺すってくる。
 反論の余地は無い。
 顔を獣に向けたまま、そろりと後方に足を運ぶ。
 それが、まずかったのかもしれない。
 
 
 
 
「<マガ>……禍ァッ!!」
 二人が逃げ出す事がスタートの合図と言わんばかりに、獣が飛び掛ってきた。
 
 
 
 
 
 今度ははっきりと聞こえた。
 
 <マガ>と口にした。
 
 その意味を考える余裕はない。
 
 獣が爪を振るう。
 
 大きく後方に跳躍して回避。
 
 獣はすぐに体勢を立て直した。
 
 再び爪が閃く。
 
 もう一度、飛んでかわす。
 
 二度目で体勢が悪い。
 
 飛んだというより、後ろに倒れるようなもの。
 
 獣が視線を合わせてきた。
 
 瞳が強く輝いた気がする。
 
 爪が伸びてくる。
 
 無理だ。
 
 かわせない。
 
 こんな所で――
 
 
 
 
 
「奏ッ!」
 甲高い声が響いた。
 獣の声ではない、明らかな人の声。
 その声に反応する間もなく、後方から凄まじい突風が吹く。
 
「ギャアアッ!!」
 獣が悲痛な咆哮を漏らし、腕を押さえる。
 
「な、何であるか今のは!?」
 河島が目を見開く。
 四柳にもそれは見えた。
 突風が獣に届いたと思われる瞬間、その風は三角錐のような形状と化して、獣の腕を切り裂いた。
 
 
「……ギャッ!」
 獣は短くそう叫ぶと、林の中へと飛び込んでいった。
 少し待ってみたが、戻ってくる様子は無い。
 
 
 
 
 
「に、逃げた……のか?」
「うむ……」
 河島と顔を見合わせ、お互いに大きく息を吐きながら顔を下げる。
 だが、すぐに二人同時に顔を上げた。
「「あっ!」」
 二人とも、人の声のした方に顔を向ける。
 まるで片方が鏡であるかのような動きだった。
 
 
 
「………」
 視線の先、5m程後方に人がいた。
 フードのついた黄無垢のようなものを纏っている。
 昔見た妖怪アニメに、似た格好の妖怪がいたが、その妖怪のような不潔さは感じられない。
 衣装もくたびれておらず、逆にどこか輝かしい気さえする。
 フードは目深に被られていて顔は全く見えないが、視線はこちらに向けているようだった。
 体格は小柄で、女性か子供のように見受けられる。
 そして、先程のような敵意は感じられない。
 
 
 
「あの……」
 四柳が声を掛ける。
 黄無垢はその言葉を手で制した。
 黄無垢は物言わず、自ら四柳達の方に足を進めてくる。
 少し歩いた所で歩みが止まった。
 何であろうかと思い、四柳がもう一度口を開きかける。
 
「あ……あっ!」
 不意に、四柳の視界から黄無垢が消えた。
 獣のように林の中に隠れたのではない。
 言葉通り、その姿は突然消失した。
 
 
 
 
 
「「………」」
 そして、二人だけが取り残された。
 
 
 二人とも、何も喋らない。
 ただ、風と葉の音だけが聞こえてくる。
 先程までのような奇妙な雰囲気は、もう感じられなかった。
 
 
 
 
 
 
 
 
「何なんだよ、一体……」
 四柳がぽつりとそう漏らす。
 
 風は、まだ止もうとしない。