凍てつくような寒さだった。
 
 夜明け前に登山を始めた四柳は、すぐに自身の薄着を後悔した。
 襲われた時に少しでも動きやすいようにと、彼は普段着の上にダウンジャケットのみを羽織っていた。
 どうせ動いているうちに体が暖まるだろうと考えていたのが、
 頬をきりさくような風と、ジャケット越しでも伝わってくる寒気は、想像以上のものだった。
 
 
 
「分かっているだろうが、防寒着を取りに戻っているような暇などないぞ」
 四柳の前を歩く河島が声を掛けてくる。
 彼は普段通りの軍服姿なのに、全く寒がっていない。
 なんでも、寒暖を感じないとの事である。
 なんとも羨ましいものであった。
 
「ああ。急がないと……うおっ!?」
 そう返事をしている最中、唐突に視界が揺れた。
 
 それが地震であると理解するのと同時に周囲を見渡すが、危険物は無い。
 だが、歩く事は出来ない程の揺れ。
 どの程度の震度なのかは分からないが、これまでに経験した事のない勢いだった。
 ともかく腰を落として、揺れが落ち着くのを待つ。
 
 
 
『明日の明け方と同時に、もう一度大きな地震が島を襲う。
 それを皮切りに、嵐が再来し、守り人達が人間を襲撃するはずよ』
 
 
 
 揺れは昨日の地震よりも長く続いている。
 その最中、昨日の葉月の言葉を思い出す。
 ようやく止まった後で東の海を眺めると、太陽が僅かに海から乗り出し、海面を橙色に輝かせていた。
 夜明けである。
 
 
「もうか……!」
 河島が焦燥感のある声を吐き出して町を見下ろす。
 つられて四柳も町を見ると、半数ほどの建物が照明を灯しているようだった。
 しかし、奇妙である。
 それらの照明がいずれも、点いたり消えたりを繰り返していた。
 何かが起こり始めている。
 
 
 
 
「何か変だ」
「うむ。もう守り人の襲撃が始まっているのかもしれぬ」
 河島がそう言いながらも、歩き出した。
 
「……頼むぞ、大神、唯さん」
 四柳が呟く。
 心配ではあるが、任せる他ない。
 それに、自分が主様を説得すれば、全て解決するのだ。
 後ろ髪を引かれるような思いはあったが、彼もまた歩き始めた。
 
 
 
 
 
 
 
………
……

 
 
 
 
 
 
 
 葉月から事前に聞いていた主様の隠れ家は、登山道から離れた山の中腹にあるとの事であった。
 言われた地点で登山道を外れて歩き続けるが、まだそれらしき場所は見当たらない。
 未だに町の照明が点滅しているだけで、四柳らの周囲では変わった様子は見られなかった。
 登山を始めて一時間程が過ぎている。
 四柳らの集中力も、少しずつ薄らいでくる時間。
 
 ――異変に遭遇したのは、そんな時だった。
 
 
 
 
「四柳、人だ」
 先に気がつき、木陰を指差したのは河島だった。
 彼が指さす方向を見やると、確かに人間が、木の幹に背中を預けて待ち構えている。
 
 真っ先に、主様かその部下の可能性を考えた。
 だが……その人間には見覚えがある。
 
 
 
 
「深雪先生!!」
 四柳は歓喜の表情を浮かべて、その人物……田中深雪に駆け寄った。
 神隠しにあったはずの彼女が、消えた時のままの格好でそこにいたのである。
 彼女もまた四柳に気が付いたようで、ゆっくりと四柳に向かって歩いてきた。
 
「待て、四柳!」
 だが、途中で河島が呼び止める。
 河島の声に反応して、四柳は彼女から視線を切らずに足を止めた。
 
(待て。罠の可能性がある)
(罠? 守り人達が先生を解放したんじゃ……)
(奴らがどのような死力を使うのか、俺達は知らない。
 例えば、彼女の存在が幻影である可能性も考えられる。もしくは……)
(もしくは?)
 一瞬、思念に間ができる。
(……彼女も……)
 
 
 
「随分と考え込んでいるみたいね。四柳君、河島君?」
 田中が口を開いた。
「!!」
 四柳は眉を顰め、一歩後退する。
 彼女は河島の名前を知らないはずだった。
 
 
 
「そう警戒しないで欲しいわ。貴方に害を与えに来たわけじゃないんだから。
 ……でも、貴方達が考えている事は、おそらく正解よ」
 なおも田中が言う。
 四柳が知っている彼女と同じ声だった。
 どこかおっとりした言葉遣いも変わらない。
 だが……彼女の言葉には、どこか冷たいものが感じられた。
 
 
 
 
 
 
「そう。私も黄泉人。
 ……そして強硬派の守り人の一人よ」
 満面の笑みを浮かべて、彼女はそう告げた。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
黄泉人奇譚
 
師走十七日(火)「再開と遭遇」
 
 
 
 
 
 
 
 
「……主様とやらの所に案内するという話、本当に罠ではないのであろうな?」
「ええ、主様にそう仰せつかっているわ。信じてもらう他ないけれど、引き返す?」
「むう……」
 
 灯りが無く周囲が殆ど見えない洞窟に、河島と田中の声が響く。
 洞窟の中はいくつもの分岐路があり、何度も曲がり続けた為に、もはや四柳は来た道を覚えてはいない。
 彼は、二人から少し離れた位置で、田中深雪の背中を眺めながら歩いていた。
 
 洞窟は、彼女と遭遇した地点のすぐ傍にあった。
 しかし、その入口は生い茂る草木に囲まれていた。
 登山道から外れている事も踏まえると、存在を知っている者はそういないであろう。
 それに彼女曰く、一つでも道を間違えると、洞窟の奥には辿り着けないとの事である。
 
 
 
 
 田中深雪の言い分は、こうであった。
 
 彼女もまた葉月と同様に、死後に主様から生命を与えられた存在であるらしい。
 彼女の役割は、人の世に紛れ込み、その営みを監視する事。
 日の出高校の教師としての活動もその一環。
 実際に、大神グループの建設計画を知り、それを報告したのも自分だと彼女は言った。
 
 
 
 
「……四柳君。さっきから黙っているのね」
 彼女が背中越しに声を掛けてきた。
 その言葉に返事が出来ない。
 何と言って良いのか分らなかった。
 突然の事態に、自分が彼女をどう思っているのかも分からなかった。
 
 
「ごめんなさい。神隠しのふりをして姿を消して。心配かけたでしょうね」
「……うん」
 それだけを呟き返す。
 彼女の声には、どこか憂いが感じられた。
 
 
 
「でも、もう気にする事はないわ。私が敵だと分かったのだから」
「そんな……!」
「そんな事、あるのよ」
 冷たく言い放たれる。
 彼女はなおも振り返らずに言葉を続けた。
 
 
 
「さっきも言った通り、私は守り人よ。
 そして、葉月さんのような穏便派ではない。
 貴方達を島から追い出そうとしているのだから」
「……先生」
 彼女の言葉を聞いて、一つだけ聞きたい事が浮かび上がった。
 四柳は意を決してそれを尋ねようとする。
 
 
「聞きたい事がるんだ」
「……なに?」
 彼女が歩みを止めた。
 四柳と河島も同じように立ち止まる。
 
 
 
「……天本さんと葉月さんを襲ったのは……先生じゃないよね?」
「………」
 彼女はすぐには答えない。
 微かに俯いているようにも見えた。
 彼女がそうだと言えば、どうすれば良いのだろうか。
 洞窟に流れる間が、恐ろしかった。
 
 
 
 
「……監視も、長すぎると情が湧くものよ」
 消えてしまいそうな声。
 彼女は、ただそれだけを呟いた。
 
 
 
「さあ、もうそこよ」
 彼女の真意を考える前に、そう言葉が続けられる。
 前を歩くように彼女が手を指し示したので、追い抜いて前進した。
 道は右に曲がっている。
 そこを曲がると、開けた場所に出た。
 
 
「ほう……」
 河島が感嘆の声を漏らす。
 四柳も思わず息を飲んだ。
 
 辿り着いた場所には、名前の知らない草が生い茂っていた。
 長い蔓が幾つも岩に張り付いていて、原始的な雰囲気を連想させる。
 暗い洞窟でそれを認識できたのは、天井が吹き抜けになっていて、十数メートル上部に空が見えたからだった。
 逆に下を見下ろすと、深い穴があいている。
 身を乗り出すが、一面が暗くて底は見えない。
 つまり、山のどこかに大穴ができているのだが、四柳はそのような場所を知らなかった。
 
 
 
 
「途中で話した通り、主様は、貴方達が来る事をご存じよ。
 この穴の奥が主様の住処。そこでずっとお待ちになっている」
 背後から田中の声が聞こえる。
 穴の奥と言われても、絶壁の穴には、歩いて降りられそうな壁も足場も見当たらない。
 どうやって降りれば良いのか尋ねる為に、四柳が振りかえろうとする。
 
 背中に衝撃を受けたのは、その時だった。
 
 
 
「あ……!」
 四柳と河島は、振り返りながら穴に落ちた。
 落下は一瞬で、崖の淵に立つ田中の表情は、到底読み取れるものではなかった。
 
 
 
 
 
 
 
………
……

 
 
 
 
 
 
 
「……ん、うう……」
 四柳は目を開けた。
 眩しさは感じられず、瞼はスムーズに開かれる。
 状況はすぐに把握できた。
 田中に穴へと突き落とされ、底で気を失っていたようである。
 
 
「おいおい、どれだけ落ちたんだ……」
 天井を見上げたが、はるか上部に何か白い光のようなものが見えるだけだ。
 次に周囲を見回したが、一面の暗闇である。どこに何があるのか、全く分からない。
 立ちあがって手足を動かしてみる。
 どこにも痛みは感じられなかった。
 相当な距離を落下してきたはずだが、怪我はないようである。
 
 
 
 
「やぁっと目が覚めたか」
 背後から唐突に声が聞こえた。
 振り向くと、先程までは何もなかったはずの場所に男がいた。
 光源は分からなかったが、男の周囲だけうっすらと光が差している為に、その姿を認識する事が出来る。
 
 
 
「き、君は……!」
 四柳の瞳が見開かれる。
 
 
 その男には見覚えがあった。
 白い髪に白の和服。
 見た目は二十代中盤とい所だろうか。
 口には煙管を咥えていた。
 改めて見ると、顔つきはややキツそうにも見える。
 
 間違いなく、先日、夢に出てきた男だった。
 
 
 
 
(深雪先生は、主様が待っていると言っていた。
 という事は、つまり……)
 
「あー……お前には夢の中で一度挨拶させてもらったな。
 分かっちゃいるたぁ思うが、一応挨拶しとくか」
 投げやりな口調。
 男が頭をボリボリと掻く。
 眉もひそめられており、面倒臭そうな雰囲気が漂っていた。
 
 
 
 
「俺が……日の出だ。守り人達には主様と呼ばれている。
 お前達で言う神様だと考えてもらえば差し支えねえ」
 男はそう言った。
 
 やはり、と思う。
 改めて、眼前の男を眺める。
 いでたちは浮世離れしていて、確かに典型的な神のイメージ一つではある。
 しかし、その振る舞いや雰囲気からは人間臭さを感じる。
 おそらくは彼の言う通りなのだろうが、いま一つ信じ難い印象を受けた。
 
 
 
 
「お前、今、神様っぽくないと思ってんだろ?」
 男がジト目で言う。
「な、なんでそれを……!」
 若干の狼狽を覚えた。
 
「ああ、別にお前の心中を読んだりはできないから安心しろよ。
 島内の者が言葉にした事ならなんでも分かるけどな。さすがに心までは読めねえ。
 数百年に一度位、ここに迷い込む人間がいるが、みんな同じ感想を持っていただけだよ」
 主様が嘆息する。
 だが、彼はすぐに顔を上げると、四柳を睨みつけた。
 
 
 
「だから、こうして手品みたいな事でもやらねえと……信じて貰えねえんだよな」
 そう言い放つ。
 一呼吸置いて、男は煙管を手に取ると、管を空いた手に振り下ろした。
 
 同時に、周囲全体に光が差し込む。
 まだ暗いと言える状態ではあったが、周囲の状態ははっきりと認識できる。
 二人は、半径十メートル程のしめなわに囲まれていた。
 しめなわの更に奥になると、暗さの為にどうなっているのかは分からない。
 だが、四柳が気になったのはそちらではない。
 光が差し込んだ為に露になった、四柳と主様の間である。
 
 
 
 
「……か、河島!!」
 四柳の肩がぴくりと跳ねる。
 そこでは、河島が身動きせずに仰向けで倒れていた。