夜になって、ようやく風雨は止んだ。
 だが、それも一時的なものである。
 明日には、また嵐がくる。
 ただの嵐ではない。
 四柳は、天本の部屋の窓から空を眺めながらそんな事を考えていた。
 
 
 
『今は少し休まれているようだけれど、今日の天候も、昨夜の地震も、主様の手によるものよ。
 私が貴方達を止めるのに失敗したら、本格的に人間を追い出す為の攻勢を開始すると仰っていた。
 明日の明け方と同時に、もう一度大きな地震が島を襲う。
 それを皮切りに、嵐が再来し、守り人達が人間を襲撃するはずよ』
 
 日中、葉月はためらった末にそう話してくれた。
 天本の事もそうだが、放っておける事態ではない。四柳らはその場で対応策を協議した。
 しかしながら、島民に話した所で素直に受け入れてもらえる話ではない。
 結果、守り人達の襲撃からは、大神が家業の人員を動員して防御にあたり、唯はその補佐を務める事となった。
 
 あくまでも防御であって、反撃は最低限に留めなくてはならない。
 その上、島民達は何も知らない。
 容易ではない事は明確であったが、やるしかなかった。
 それに、四柳が受け持つ任の方が難易度は高い。
 
 
 
 
 
「四柳」
 河島から名前を呼ばれた。
 振りかえると、当然そこには、自分と同じ顔をした河島がいる。
 今回の事で、彼には何度も助けられている、と思う。
 
 四柳と河島は、夜明け前に主様の所へ向かう事になっていた。
 主様は、日の出島の北部にそびえ立つ山の洞窟の奥深くに住んでいる、と葉月が教えてくれた。
 山が近い事と、また神社が襲撃される可能性を考慮して、この日の彼らは神社で夜を過ごしている。
 
 
 天本を助けてもらう。そして襲撃を中止してもらう。
 その説得の為、主様の所に向かうのである。
 おそらくは、守り人達の迎撃があるだろう。
 河島がいなければ、主様の所に辿り着く事すら、かなわないのではないだろうか。
 今回の事が済んだら、またキャッチボールの相手位にしてやっても良い、と思う。
 
 
 
 
「なんだ、随分と評価してくれているのだな」
 河島が苦笑する。
 その思考を読まれたようである。
 
「まあ、明日は一仕事だし、今のうちにねぎらいの言葉でもかけないとな」
「言葉だけではいかんぞ。キャッチボール、忘れるなよ」
「無事に帰ってこれたらな」
 肩をすくめてみせる。
 本音半分、気遣い半分の言葉だろう。
 
 無事に帰ってこれるのだろうか。
 相手は、神のような存在であり、この島自身でもある。
 話が通じなかった時に、力ずくでどうこうできる相手ではない。
 しかし、やるしかない。
 
 
 
 四柳はベッドで横たわる天本を眺めた。
 説得に失敗して、島から人間が追い出されるような事があっても、島民は生きていける。
 だが、彼女は別だ。
 説得に失敗する事は、天本がこのまま目覚めない事でもある。
 それは天本玲泉の死と言っても過言ではない。
 
 更に考える。
 今、眼前で横になっている天本には、まだ目覚める可能性があるし、四柳自身も『眠っている』と認識している。
 だが、今の天本と、説得に失敗した時の天本の状態は、同一でもある。
 今、彼女は生きているのだろうか。
 それとも、死んでいるのだろうか。
 
 
 四柳の胸は、強く絞めつけられる。
 とても、せつなかった。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
黄泉人奇譚
 
師走十六日その弐(月)「プロ野球選手風の生還の挨拶」
 
 
 
 
 
 
 
 
「……良い子だな」
 河島がぼそりと言った。
 天本の事を言っているのだろう、とだけ思う。
「ああ」
 
「セツさんの孫という事を差し引いても、好感が持てる」
「ああ」
 淡白な返事を返す。
 四柳の視線は、なおも天本に向けられている。
 
 
「お前もそろそろ休まな……」
 河島がもう一度言葉を掛けてきた。
 
 だが、途中で声が止まる。
 その後で、彼の足音と、部屋の扉が開閉する音が聞こえた。
 部屋から河島の気配が消える。
 
 
 
 
 
 
 
「……天本さん」
 四柳は振り向かない。
 ベッドで眠っている少女の名前を呟く。
 
 天本の顔は、微かな月明かりに照らされている。
 奇麗だった。
 ただただ、奇麗だった。
 
 
 
 優しい少女だ、と思う。
 あけぼの丸の呪いに悩まされている時、相談に乗ってくれる彼女は大切な存在だった。
 セツの行為に罪悪感を感じていたとはいえ、知らないふりもできたはずだ。
 
 昨年だっただろうか。
 休日に一緒に遊ぼうとした時に、車に轢かれて死にかけた猫を見かけた事があった。
 あの時は『優しさではなく気まぐれだ』と言いながら、猫を看取っていた。
 
 今回の騒動にも協力してくれた。
 一時期は野球部への呪いだと勘違いしていたが、それなら天本には関係のない話である。
 それでも、彼女は親身になって力を貸してくれた。
 
 
 
 ごく当然のように振る舞っていたからだろうか。
 これまで、その優しさを意識した事は無かった。
 彼女のその優しさを、もう見る事が出来ないかもしれないと思うと、酷く寂しい気がする。
 
 肩から剥がれかけていた毛布を掛け直した。
 そうしながら、寂しくとも構わない、と思いなおす。
 彼女ともう会えなくなる事があっても、彼女が生きていれば、それでも構わない。
 なぜそうも彼女の事を貴く思えるのだろうか。
 答えは分からない。
 
 
 
「……大丈夫だ。俺が助ける」
 力強く、そう声を掛けた。
 
 
 
 
 
 
 
………
……

 
 
 
 
 
 
 
 気分転換をしようと外に出る。
 緊張が高まっているからだろうか、眠気は無かった。
 
 空では、明日の嵐を予感させる雲が多数浮かんでいたが、ちょうど月を覆っている雲は無かった。
 月でそれほど明るくなるものでもないが、一面が暗闇の神社にいると、その僅かな輝きでも安心感を覚えた。
 深呼吸すると、体内に冷たい空気が充満する。
 心地良い冷たさだ。
 それから周囲を見渡すと、鳥居の下で柱にもたれかかっている葉月の姿を見つけた。
 
 
 
 
 
「葉月さん、寝ないの?」
 近づきながら声を掛ける。
 葉月は、じっと四柳を見つめただけで何も言わなかった。
 明日の彼女は、四柳らにも大神らにも着いていかない。
 考えてみれば、明日に限らず、今後どうするつもりのかも分からなかった。
 
 四柳も鳥居の下まで来ると、同じように柱に背中を預ける。
 暫し、二人とも何も喋らない。
 時折、明日の嵐を予感させる風が吹き、木々の葉を鳴らす音が聞こえるだけだった。
 
 
 
 
「……改めて言っておくわ」
 視線を宙に向けながら、葉月が喋った。
 
「……私も攻撃されたけれども、それでも私は主様の味方よ。
 強硬派の行動を喋る気になったのも、主様ではなく彼らに対して思う所があるからよ」
「ん。分かってる」
 こくりと頷く。
 彼女の立場も難しいものだ、と思う。
 同時に、主様とはどの様な人物なのかが気になった。
 老人なのだろうか。
 若者なのだろうか。
 それとも人の形を成していないのだろうか。
 全て、明日には分かる事だ。 
 
 
 
 
「……本当に行くの?」
 また葉月が呟く。
 前言よりもいくらか小さな声だった。
 
「行くよ。よっと……」
 そう言いながら、背中を反らせた反動で柱から離れた。
 葉月に向き直って、四柳は言葉を続ける。
 
「それが、俺がやるべき事だからさ」
「危険よ」
 葉月も四柳に向きなおった。
 暗くてよく見えないが、その表情は強張っているようだ。
 
「他の守り人達は皆、私のような死力が使える。
 それだけじゃない。主様のお力は、守り人とは比較にもならないわ。
 主様の機嫌を損ねるような事があれば、どうなるか分かったものじゃないわ。
 もしもの時は、逃げるのよ」
「大丈夫だよ」
 微笑みながら四柳は言う。
 彼女の言葉は事実なのだろう。
 恐ろしいと思っている自分がいる。
 しかし、行かねばならないと思う多くの自分が、怯える自分の背中を押していた。
 
 
 
「行って、島民と天本さんを必ず助けてみせる。
 河島もいるし、なんとかなるさ」
「ならない!!」
 突然、葉月が叫んだ。
 これまでの落ち着いた声から一転して、感情が爆発する。
 四柳はわずかにたじろぎながらも、葉月を見つめる。
 やはりはっきりと見えないが、彼女の肩は微かに震えているように見えた。
 瞼は頻繁に開閉している。
 泣いているようにも見えた。
 
 
 
 
 
「……死んでほしくないの」
 葉月が顔を伏せながら言う。
 消えてしまいそうな声だった。
 
「主様が島民を追い出すと決めた時、まず対象となったのが、死力を持つ貴方達だったの。
 ……私、真っ先にその役目を名乗り出たわ。
 強硬派に任せていたら、何をするか分かったものじゃなかった。
 ……貴方達に……四柳君に、死んでほしくなかったの……
 だから、今度も……今度も……」
 葉月の声に、僅かに嗚咽がまじる。
 やはり、葉月は泣いていた。
 
 
 
「……そうだったんだ」
 そう言いながら、葉月を改めて見る。
 
 彼女は、元人間で、泉の守り人で、黄泉人で、主様に命を与えられた存在だ。
 これまでもどこか不思議な少女だとは思っていたが、
 そんな特殊な存在だと分かってから、一層謎めいた人物のように感じられていた。
 
 しかし、今眼前にいる葉月は、ごく普通の少女だった。
 自分という知人の事を心配して、泣いてくれる、ごく普通の少女だった。
 謎めいた葉月も、心配してくれる葉月も、日頃無邪気に遊んでいた葉月も、全て本物の葉月なのだろう。
 
 
 
 
 
「……ありがとうな」
 優しく声を掛ける。
 子供をあやすような、穏やかな語り方。
 葉月は顔を上げる。
 
 
 
「でも、今回は本当に大丈夫だ。
 必ず主様を説得して、無事に帰ってくる。
 だからその間、天本さんの傍にいてあげてくれるかな」
 
 決して、葉月を安心させる為の気休めではない。
 自信がある。
 その自信はどこから来るのか、それは自分でも分からない。
 だが、そう思えて仕方なかった。
 幾つもの強い気持ちが、四柳の中に芯としてそびえ立っていた。
 
 
 
 
 
「………」
 葉月は何も言わない。
 四柳をじっと見つめていたが、おもむろに右腕を掲げた。
 右手の指は力強く握られており、四柳に向かって真っ直ぐに突き出されている。
 
 
 
「……ん」
 息を漏らすように言う。
 それだけで、彼女が何を求めているのかが分かった。
 
 
「……おう!」
 四柳は同じように握りこぶしを作って、彼女の右手に軽く触れた。
 野球において、しばしば好プレーの後に見られる仕草だ。
 今回はさしずめ、生還の前祝いであろうか。
 それも悪くはない。
 四柳の中に、もう一つ新しい芯が生まれた。