この日、天候は大いに荒れていた。
 落雷の音で目を覚ました四柳が窓の外を覗くと、強い風雨が木々を揺らしていた。
 深夜に目覚めた時には暗くてよく見えなかったが、仮に悪天候だったとしてもここまで酷くはなかったはずだ。
 傘を差して登校したが、風が強い為にそれほど役には立たたなかった。
 学校に着いた頃には全身が大いに濡れていた為、持参したハンドタオルでそれを拭う。
 他の学生も似たようなものだった。
 
 
 
「四柳君、おはようー。
 もう、酷い嵐。まいったわねえ」
 廊下を歩いていると、神木唯が声を掛けてきた。
 挨拶を返して、廊下の窓から外を覗く。
 空一面の黒雲が光を遮っていて、地上も暗く見える。
 風雨は、起床時よりも少し勢いを増しているかもしれなかった。
 改めて見ても、やはり今日の悪天候には凄まじいものがある。
 
「そうだね。島に来てから三年程経つけれど、これ程酷いのは初めて見るよ」
「私だってこんな酷いのは初めてだわ。
 あーあ、今日は送ってもらえば良かったかも」
 そう言いながら肩を竦める彼女の制服や髪には濡れた跡がある。
 
 
 
「……しかし、そっか。三年か」
 唯が呟いた。
 何事かと彼女を見やる。
 彼女の視線は四柳ではなく、窓の外に向けられていた。
 物寂しそうな、憂いを感じられる瞳だった。
 
 
「私にとっては、この嵐以上の三年間だったな」
「あ、そっか。そりゃそうだよね」
 なるほど、と思う。
 部室が燃えて、一から野球部を立て直して、甲子園に行く。そして優勝する。
 そんな濃厚な三年間は、自分だけでなく、野球部マネージャーの彼女にとっても同様なのだ。
 
「甲子園、凄かったね」
「ん? あ……うん。まあ……」
 唯が頷く。
 どこか要領を得ない反応だった。
 自分の考えが間違っていたのかと、四柳は片眉をひそめて考え込む。
 
 
 
 
 
「甲子園、確かに確かに凄かったわ。
 でも、四柳君が転校してこなかったら、そこまで辿り着けなかったと思うの。
 この三年間も別のものになっていたと思うわ」
「まあ、メンバーが一人欠けるわけだから、どこかで試合展開が違っていたかもね」
「……むう」
 唯がジト目で睨みつけてきた。
 何が何だか分からない。
 
(お前……彼女が何を言いたいのか分らんのか?)
(分かんないよ。河島は分かるの?)
(分かるに決まっているであろう)
 同行している河島が呆れるような思念を寄せた。
 
 
 
 
 
「四柳君は、来年になったら自主トレで本土に行って、プロ野球選手になるんだよね」
「うん。そうだけど」
「……それがね、少し寂しいんだ」
 唯が苦笑した。
 
 
(……そっか)
 四柳は唯を凝視する。
 彼女にとってこの三年間の何が嵐だったのかはまだ分からないが、
 自分が去る事を寂しいと思ってくれている事はようやく理解できた。
 それでも笑おうとしてれているのは、同時に応援もしているからだろう。
 先日、そういうやりとりをした記憶がある。
 この所多忙だったからだろうか。つい最近の事なのに、随分昔の事のような気がした。
 
 
 
 
「そうだねえ」
 そう言いながら、顎に手を当てる。
「シーズン中はどうしようもないけれど、オフには毎年島に帰って来ようと思うよ」
「ホント!?」
 唯の表情がパッと明るく輝く。
 薄暗い廊下に明かりが差したような気さえした。
 
 
「ホントホント。……俺、この島、好きだからさ」
 そう言いながら、ふと、亡くなった母の事を思い出した。
 
 思い出せば今でも悲しい。
 だが、それは過去の事だと思えるようにもなった。
 あのまま本土にいたら、母の事をどう考えていただろう。
 それは分からない。
 だが、少なくともこの島が、自分達親子を癒してくれたとは思う。
 
 
「だから、毎年日の出島には帰ってくるよ。
 そしたら、また皆で馬鹿騒ぎでもしようか」
「………」
 唯は何も言わない。
 微かに眉がひそめられているようにも見えた。
 一体どういう心境なのか……考えようとした所で、唯は吹っ切れたように大きく頷いた。
 
 
「……うん! 楽しみに待ってるからね!」
 太陽のような笑み。
 これが神木唯だ、と思う。
 不思議と穏やかな気持ちになれた。
 同じ顔をして四柳も笑ってみせる。
 
 
 
 
 
「先輩ぃっ!!」
 唐突に大神が声を張り上げながら駆け寄ってきた。
 河島を含む三人が、何事かと大神を見る。
 彼の顔色は、真っ青だった。
 穏やかな気持ちが一転する。
 猛烈に嫌な予感がした。
 
 
「た、大変です!!
 い、今、天本先輩から電話があって『助けて』と……!!」
 
 
 
 
 
 
 
 
 
黄泉人奇譚
 
師走十六日(月)「主様と守り人」
 
 
 
 
 
 
 
 
「天本さんっ!!」
 真っ先に日の出神社に乗り込んだのは四柳だった。
 
 神社の麓までは大神が用意した車で来たが、山道と石段は直接登ってきた。
 風雨はまだ止まない。
 その中を全力で駆けるのはそれなりに体力を消耗したはずだが、全く気にならない。
 気にならない程に、四柳は焦燥していた。
 大神の話では、助けを求めた直後に電話は切れたらしい。
 誰かに襲われた。
 そうとしか考えられなかった。
 
 まだ石段を駆けている河島や大神や唯を振り返る事なく、神社を一瞥する。
 風雨のせいか、それ以外の要因のせいかは分からないが、しめ縄がちぎれていた。
 幾つかの木はへし折れている。
 手水舎では柄杓が散乱していた。
 本殿には、岩でも投げ込まれたように穴が空いている。
 神社中が大いに荒れていた。
 それらに心を痛めながらも、四柳の視線は天本を求めて激しく動き回る。
 
 
 
「天本さん!!」
 ひときわ大きな木の根元に、私服の天本が倒れているのを見つけた。
 もう一度彼女の名を叫びながら駆け寄る。
 外傷はなかったが、気を失っているようだ。
 膝を折って抱き起こし、名前を呼びながら何度か体を揺するが、反応はない。
 
 
 
 
「無駄よ……」
 女性の声がした。
 顔を上げると、木の反対側から葉月が姿を現した。
 天本とは異なり、葉月の肌には多くの擦り傷が見受けられた。
 誰に付けられたものかは分からないが、天本にそのような力は無い。
 そう考えれば、彼女が天本に手を掛けたのではなく、第三者が二人を襲ったのだと推測できた。
 
 
「葉月さん……教えてくれ。何があったんだ」
 天本を抱えたままで尋ねる。
 天本に外傷は無かったからだろうか。落ち着いた声が出せた。
 しかし、葉月は『無駄』と言った。
 どういう事なのだろうか。
 何があったのだろうか。
 分からない。
 とにかく、分からない。
 
 
 
 
 
「………」
 葉月は何も言わずに顔を伏せる。
 だが、すぐに顔を上げると、天本を見ながらぽそりと呟いた。
 
「……主様の遣いよ」
 言葉と同時に、雷が強く鳴り響く。
 背後から、河島らが駆け寄る足音が聞こえた。
 
 
 
 
 
 
 
………
……

 
 
 
 
 
 
 
 唯が天本の寝室で天本を寝かせている間、四柳らは薄暗い和室応接室で待った。
 誰も、口を開こうとしない。
 外から雷鳴が響く頻度が高まり、その音と風雨が窓を叩く音だけが部屋に響いていた。
 うるさいが、何も聞こえないよりは良かった、と四柳は思う。
 静けさの中にいたら、焦りが募って叫び、河島らを心配させていたかもしれない。
 河島が、何度か気を静めるようにとの思念を送ってきたが、それは適当に受け流した。
 この状況で、それができるはずもなかった。
 
 
 
 
「お待たせ」
 戻ってきた唯は、それだけ言って座した。
 全員揃ったら詳しく話す、と葉月は言っていた。
 一同の視線が葉月に集まる。
 葉月はそれら一人一人を見つめて、口を開いた。
 
 
 
「……順を追って話すわ。
 彼女の状況も気になるでしょうけれど、少し待って」
 淡々と言う。
 葉月の言う通り、天本の事が何よりも心配だったが、まずは葉月の説明を一通り聞く事にした。
 
 
 
「まず、私達も一枚岩ではないの。
 四柳君。私が黄泉人として、初めて貴方の前に現れた時の事、覚えてる?」
「うん。あの時の葉月さんは、確か猿のような獣から俺を助けて……あっ」
「あれは主様が、死力の最上位の力、生命を作り出す神の力で産み出した遣いのような者よ」
「神の力というと、神業奏の、あの神?」
「知ってるのなら説明が省けるから早いわね。
 そう、その神。私もそうして新たな生命を受けた存在よ。
 彼は人とは違ってベースが猿だけれど、それでも知性はあるわ。そして、彼は強硬派よ」
 
「もしかして、対人間に対する強硬派という事?」
 大神が尋ねる。
「その通りよ。
 ……信じてもらわなくても構わないけれど、私は穏便派だったわ。
 話し合うべきだと思っていた」
 その言葉に、大神の目が見開かれる。
 だが、彼はそれ以上口を挟まなかった。
 
 
「私達は島の自然が危ないと分かった後、
 断固人を追い出すべきという強硬派と、共存の道を探ろうという穏便派に分かれたわ。
 主様は、安直に意見を述べずに双方の言い分を聞いた上で、対応を保留とされていたの。
 ……でも、強硬派が耐えられずに人間を襲った」
「………」
「だから、私はそんな彼を抑えたの。
 でも、あの後で主様が結論を下したわ。
 これまでのように脅すだけでなく、実力行使で人を島から追い出すと」
「それで、次に会った時は襲ってきたのか」
 四柳が言う。
 葉月は悲しそうな表情で頷いた。
 
 
「……さっきも話した通り、主様は神の死力を使われるわ。
 そうして守り人達を作り出している。私達にとっては、親のようなものよ。
 その主様が下された結論なら……それが島の自然を守る為の行為なら、
 ……ううん。この話は、別に良いわね」
 葉月の表情がなおさら曇る。
 彼女の事情が、一つ見えた。
 戦わなくてはいけない理由があったのだ。
 
 
 
 
「そういうわけで、貴方達の敵は私だけじゃなかったという事よ。
 そして、今朝方。体調が回復したから、神社を出ようとした時だったわ。
 他の守り人達が攻めてきたのは」
 四柳がもっとも聞きたい話が始まった。
 改めて葉月を凝視しながら話を聞く。
 
 
 
「守り人達の狙いは彼女だったわ。
 私はそれを防ごうとしたけれど、多勢に無勢ね。見ての通り」
「助けてくれたのか……」
 大神が小さな声で言う。
「……一応、穏便派だから。でも、人間の味方というわけではないわ」
 葉月は冷たい口調で言った。
 わざとそうしているのかもしれない、と四柳は思った。
「他の守り人とは考え方が違うだけで、私が主様の味方である事に変わりは無い。
 だから、私が攻撃しないというわけで、彼らの襲撃の可能性は喋らなかったわけだし」
 口調がだんだんと投げやりになる。
 だが、彼女が助けようとしてくれた事に変わりは無い。
 四柳には、葉月への悪印象は全く無かった。
 
 
「怪我、痛む……?」
 唯が心配そうに尋ねる。
 葉月は頭を横に振った。
 
「大した怪我じゃないわ。これでも加減されたの。
 そうして捨て置かれたのは、一応は同僚だからかしら。
 今でもそういう扱いをされているのかは分からないけれど。
 ……私より、彼女の方が重症なのよ」
 葉月が一呼吸置く。
 彼女の言葉と、その間に、四柳の緊張は酷く高まった。
 
 
 
 
 
「彼女はある特殊な死力を受けて、昏睡状態にあるの。
 どの守り人が使った力なのか分からない。
 だから、助ける方法は実質一つしかないわ。
 ……主様の下に参じて、助けてくれるよう懇願する他、無い」
「一つ聞いても構わぬか?」
 河島が初めて口を開いた。
 無言の肯定が生まれる。
 
 
「先程から何度も『主様』と言っておるが……
 その主様とは、一体何者なのだ?」
 片目を細めながら聞く。
 
 問いを受けて、葉月は目を瞑った。
 何か考えているのだろう、と思った頃には、もう目は開かれた。
 
 
 
「……恐れ多くて、普段は名前では呼ばないようにしてるの。
 だから、主様の名前を出すのも一度だけにするわ」
 葉月が居住まいを正す。
 それだけで、部屋の中に強い緊張感が走る。
 外で、また雷が鳴り響いた。
 
 
 
 
 
 
 
「貴方達も、主様の姿を見た事はあるわ。
 いいえ、見た事があるどころか、毎日目にしている。
 私達が遣えている、化身としての姿の主様ではないけれども。
 ………主様の御名前は、日の出。
 この島を司る神……それが、主様よ」