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風雲が、咲き乱れていた。
冬の日の出島の早朝は、気候次第で見応えのある風景を見せてくれる。
空に敷き詰められた雲は、その背後で橙色に輝く朝日によって、透かし彫りのような色合いを見せていた。
海上では霧が沸き立ち、凍てつく風に吹かれてゆったりと流れていた。
そして、その白い雲と霧を支えるようにして、対比的な色合いである濃紺の海面がさざめいている。
何千年も時が流れて、日の出島の生態系が変われども、この幻想的な風景だけは不変である。
四柳知佑(よつやなぎ ともすけ)がこの風景を見つけたのは、
二年前の高校一年生の頃……この島に越してきてから初めての冬だった。
(あの頃は、こうして風景を楽しむ余裕は無かったなあ。
島に来てから、やっと落ち着けた気がするよ)
そんな事を考えながら、沿岸に伸びている農道をランニングする。
上下に纏っているジャージは薄手だったが、30分程走った頃から寒さは感じなくなっている。
海側を眺めながらそのまま走っていると、視界の端に岬と慰霊碑が入り込んだ。
(あけぼの丸の慰霊碑か……)
ふと、感慨深い気持ちが心中に沸きあがる。
慰霊碑の前を走るつもりはなかったが、彼は気まぐれに進路を変えた。
それは幸なのか、或いは不幸なのか。
戦後の帰還船「あけぼの丸」の沈没事故で亡くなった死者を弔う慰霊碑。
四柳の数奇な高校野球生活は、その慰霊碑から始まっていた。
島に越してきた高校一年の夏に、彼は足を滑らせて慰霊碑を倒してしまった。
その後、彼が属する日の出高校野球部は、部室の火災や突然の備品爆発、
そして部員の神隠しという幾多の祟りに見舞われるようになっていた。
(何がなんだか分からなかったよなあ、あの時は)
苦笑を零しながら走り続ける。
慰霊碑がいよいよ近づくと、ギアを小走り程度に落とした。
「いぇーい慰霊碑! なんちって」
酷い独り言である。
が、彼は自身のダジャレのセンスを省みる事なく、
死者達が「いぇーい」と親指を突き立てて挨拶を返す空想に囚われていた。
いぇーい。
yeah.
紛うことなき当時の敵性言語。
日本軍軍服を着た幽霊十数名によるいぇーいの合唱は、なかなかに奇妙な光景である。
風景を楽しむ余裕だけではなく、そんな事を考えられるのも、今でこそであった。
それは、気持ちの余裕によるものだけではない。
神社の神主である天本セツと、その孫である巫女の天本玲泉の助言で、
野球部祟りは、あけぼの丸に乗船していた島の野球部員のものであり、
甲子園大会に出場しなければ、呪いは解けない事が判明していたからである。
ノリノリで「いぇーい」と挨拶しながら呪ってくる亡霊は、さすがに奇妙という域を超えている。
三年目であるこの年の夏、ついに甲子園大会出場を果たし、呪いを解く事には成功している。
だが……
黄泉人奇譚
師走一日(日)「がんばっていきまっ憑依!」
「ふう〜、走った走った」
慰霊碑の前まで来た四柳は、白い息を吐く。
呼吸を整えた後で、慰霊碑に掘り込まれている名簿を一瞥した。
その中から『河島廉也』の名前を見つけると、彼は今でも奇妙な気分を覚える。
「……河島さんか。どんな人だったんだろ。
とりあえず『いぇーい』なんて挨拶は返してくれない気がするな。ははっ」
河島廉也。
その名と、彼が自分に類似した容姿を持っていた事を知ったのはつい最近だ。
先日、天本玲泉から告げられた三つの真実……
呪いの使い手は、あけぼの丸の乗員ではなく、今年の夏に病死した天本セツであった事。
あけぼの丸に乗船していた野球部主将の河島という男が、セツの恋人であった事。
セツは、河島と似た容姿を持つ自分に、河島の無念を晴らしてもらうつもりだった事。
いずれも衝撃的であった。
だが、四柳の心中には、セツを恨む気持ちは微塵も無い。
甲子園への道は、確かに厳しいものだった。
部員集め。
止まない祟り。
エース不在のチーム状況。
そして旧友の属する、手ごわい他校。
しかし、それらのハードルがあったからこそ高い目標意識が生まれ、終わってみれば甲子園出場……
それに留まらず、甲子園優勝、そしてドラフト指名という結果を得たのである。
「終わり良ければ全て良し、ってね!」
そんな思考を投げ出すように、明るい声でそう叫ぶ。
だが、いくら終わりが良かったからと言っても、神隠しにあいかけているのだ。
その上でこういう考え方が出来るのは、彼の美点である。
四柳は大きくのびをして岬の先であぐらをかいた。
陽はだんだんと高くなり、雲からは色が落ち始めている。
幻想的な景色は、日常の海へと、少しずつ姿を変えている。
彼はそのまま、その移り行きを眺めていた。
その表情には笑顔が宿っている。
「色々あったな。でも、来て良かったよ。日の出島」
神妙に呟く。
同時に緩慢な動きで立ち上がると、海に背を向けて歩き出す。
「いつかは島や支えてくれた皆に恩返ししなきゃな。
さ、そろそろ帰ると……ん?」
帰ろうとした所で、慰霊碑の傍で地面が光った事に気が付いた。
近づいてみると、9の字の形をした小さな石が落ちている。
光沢があり、陽の光を反射させたようである。
「勾玉ってやつだっけか。
これが反射したみたいだけど、なんでこんな所に」
それを拾い上げる。
手のひらに置いて握ると、完全に隠れる程度の大きさだった。
「供えられてたのかな?
でも勾玉をお供えなんて聞いた事無いなあ……
随分綺麗だし、落し物かもな」
勾玉を握ったままで、自分の拳を眺めながら考え込む。
だが彼はすぐに、拳を握ったままで再度歩き出した。
「天本さんにでも見てもらお。
お供え物だったら戻せばいいし、違うんなら交番に届ければいっか」
のんきなものである。
そんな彼だから……陽の光が当たらない手の中でもなお、
その勾玉が輝いていた事には、気が付くはずもなかった。
………
……
…
一時間後、四柳知佑自室。
「いぇーい、河島です」
「……はい?」
自室に帰ってきた四柳を迎えたのは、戦時中の日本陸軍軍服を纏った男だった。
棒読みの真顔で挨拶してくる謎の男。
突然の事態に、四柳の脳内では四択が発生する。
その一。家を間違えた。
その二。これは夢なんだ。
その三。コスプレ好きの泥棒。
その四。何らかのドッキリ。
「いくらなんでも一番は無いはずだよ。
ここはフィフティーフィフティーで選択肢を絞りたい所だけれど、
三番の泥棒が残ると嫌だな。むう……」
「おい、聞こえとるぞ。誰が泥棒だ」
軍服男が突っ込む。
「じゃあ、ほんの出来心の人」
「言い方を変えただけではないか」
軍服がまた突っ込む。
なかなかにノリが良い男である。
「そうではなく、名乗ったであろう。河島だ。
せっかく貴様の希望に応えて、なんぞ良く分からぬ挨拶をしてやったと言うに……」
「え? 河島って……」
四柳はその苗字を持つ男を一人しか知らない。
いぶかしみながらも、河島と名乗る男に近づいて顔を凝視する。
……写真で見るよりも自分に似ていた。
「ええと、つまりこういう事ですか?」
背筋に強烈な悪寒が走る。
「あんた、河島廉也の幽霊で、俺は視える人になってしまったと……」
近づいた分だけ後退しながらそう尋ねる。
河島の返答次第で、いつでも叫んで逃げ出す心構えはできた。
しかし、間違いなく足はある。
肌も透けてはいない。
むしろ浅黒く、生命力を感じさせる位である。
「それがだな。よく分からんのだ」
河島が側頭部をポリポリと掻く。
「分からん?」
「うむ。そうおびえんと、まあ腰を落ち着けて聞け」
近づかれて肩を叩かれた。
とりあえず、触れる事は出来るようである。
仕方なく部屋のベッドに腰掛けると、河島は勉強机の椅子に座って向き直る。
「まず、俺が河島廉也である事は間違いない。
自分がどの様な最期を遂げたのかも、それ以前の記憶もある。
それから、慰霊碑で眠っていた時の記憶もな」
「そういや、いぇーいって言ってくれたよね。あれも聞いてたんだ」
「多分な」
「と言うと?」
「……生前の事は実感がある。
だが、慰霊碑で眠っていた時の事は、記憶だけなのだ」
河島が背筋を伸ばし、両手を膝の上に伸ばして居住まいを正す。
「上手く言えんのだが、そういう記憶があるだけなのだ。
まるで全て夢だったかのように、実感は無い。
意識がハッキリした時には既にここにいて、それから暫しの後、お前が入ってきたのだ」
「ふむう」
「死後の世界でノホホンと過ごしていた所を、足を滑らせて地上界に落下した……
というのならば、それは間違いなく幽霊であろう。
だが、俺の意識は『死んだ直後にここにいた』というものなのだよ。記憶は別にしてな」
「そういうわけで、自分が何者なのかよく分からんと」
「うむ」
深々と頷く。
「で、河島さん……」
「ああ、河島で良い。実年齢は大差無いのだ」
「じゃあ遠慮なく。河島、これからどうするの?」
「それなのだ。自分の正体が分からんのだから、何をするべきかも分からん。
ただ、やりたい事はあるのだがな」
「お。なになに?」
四柳は身を乗り出して尋ねた。
「お前に憑依したいのだ」
「そんな事ができるのは幽霊位だぞ」
ジト目で突っ込む。
「あいや、すまん。言葉が悪かったな」
河島が両手を前に出してなだめてくる。
「お前……ああ、四柳と呼ばせてもらうぞ。
四柳は学生野球大会で優勝して、職業野球の選手となる位、野球が上手いのだろう?」
「うん。良く知ってるね」
「慰霊碑の前で時々話していたのを覚えているからな。
で、俺が野球を愛好している事は知っているな?」
「河島の事を知ったのは最近だけれど、まあね」
「宜しい」
河島が一度言葉を切る。
「……つまり、そういう事なのだ」
「どういう事なのだ?」
その説明だけでは分からない四柳が尋ねる。
「四柳に憑依すれば、愛して止まない野球ができるという事なのだ」
河島が突然立ち上がり、ぐっと握り拳を作る。
「やっぱ幽霊じゃん」
再び突っ込む四柳。
その受け答えに、どっと疲労感が沸きあがった。
「そもそも憑依ってどんな事なの?」
言葉の意味は知っている。
しかし、実際にどういう事をするのかまでは、知る由もない。
「俺が身体を消し去って意識体となり、お前と一時的に一体化する事で、
俺とお前、どちらの意識でもお前の身体を動かせるようになる事だな。
やった事は無いが、そういう事ができる感覚が身体にある」
河島は人差し指を立てながら答える。
「やだなぁ、気持ち悪そう」
顔を仰け反らせる四柳。
「お前がそう言うなら無理にとは言わんぞ。
まずは同居からで、憑依はお互いを良く分かって……」
「その言い方は気持ち悪いから止めてくれ」
河島の言葉を遮る。
「まあまあ、そう言わずに。
姿を消したり、お前だけに意思を送ったりと、
日常生活に支障をきたさぬ術も備わっているぞ」
「何その超常現象。もう完全に幽霊だぞそれは」
「それはこの際置いておこうではないか。
家族や知人に知られてしまう事はないと約束する。
俺が何者なのかが分かるまで。暫くの間なのだ。なっ?」
「むうう……」
唸り声を漏らしながら考え込む。
当然、御免こうむると突き放したい所ではある。
だが、容姿や野球好きという点で、どうも彼は他人である気がしない。
これまでの奇妙な高校野球生活の事もあってか、運命じみたものを全く感じないと言えば、嘘にもなる。
そういう人物の頼みを突っぱねるというのは気が引けるものである。
そして、長考の末……
「……本当に、他の人には分からないようにしてくれよ?」
「うむ! さすが、話が分かる男よ!」
河島は満面の笑みで頷いた。
そんなわけで、この日、四柳家に奇妙な同居人が誕生した。
「で、四柳よ。挨拶代わりに良い休養術を教えてやろうではないか。
まずは身体の力を抜いて、何も考えないようにしてだな」
「早速憑依する気だろお前」
とんでもない日になったものである。
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