日に日に暖かくなる春の陽気を彩るかのように、
 最近では、午後六時を過ぎてもまだ陽が落ちないようになった。
 ほんの数十分の違いではあるが、この日暮れの延長は地味にありがたい。
 そんな事を考えながら、主人公は和桐製作所から神社までの道をランニングしていた。
 
 主人が神社に足しげく通うようになってから、もう一年が過ぎていた。
 そこまでして彼が神社に通うのは、暇人だからでも、神社マニアだからでもない。
 神社で知り合った女子高生、蕪崎詩乃との穏やかなひと時を過ごす為である。
 
 落ち着いた雰囲気と、それでいて親しみやすい明るさを持った彼女に、主人は惹かれていた。
 野球の練習と称して彼女のもとに通ううちに、詩乃も彼に心を許してくれた。
 まだ思いの丈は伝えていないけれども、強く相手を想い合うような間柄。
 そしてその間柄は『任務を終えて未来に帰る』という主人公の運命を変え、彼を現代に留まらせていた。
 
 
 
「はっ、はっ、はっ……はぁ……」
 主人が神社の入口に辿り着く。
 両手を膝の上に当て、呼吸を整えながら鳥居を眺める。
 鳥居の奥では、まだ陽は落ちていない。
「最近は日暮れ前に着くようになったな。
 陽が暮れても話し込むわけにもいかないし、ありがたい、ありがたい……」
 そんな独り言を漏らしながら、敷地内に足を踏み入れる。
 
 
 詩乃の姿は本殿付近にああった。
 主人は話しかけようとして……彼女が携帯で会話中である事に気がついた。
 
「そんなんちゃうて〜。ほんま、ほんま。
 そっちこそ、彼氏と仲良くしいや?」
 彼女の話し声が耳に届く。どうやら学友との会話のようだ。
 だが、それを耳にした主人にとって、会話の相手や内容はどうでも良かった。
 
 
(か、関西弁……だと……?)
 
 
 背筋に電流が走る。
 普段の詩乃は標準語で喋っており、彼女の関西弁を聞くのは初めてであった。
 それは実に流暢で、それでいて巫女服の女子高生が発するには特徴的なものであった。
 要するに……
 
(め……め……
 メチャメチャ萌えるううっ!!)
 鼻息を荒くしながら彼女の会話を盗み聞く主人であった。
 
 
 
「うん、うん。ほな、明日学校でな……ぴっと。
 ………あっ、主人さん!?」
 通話を終えた詩乃は、そこでやっと主人の存在に気がついた。
 口元に手をあてがいながら、恥ずかしそうに頬を紅潮させる。
 
「き、聞いていました? 今の……」
「うん。詩乃ちゃん関西弁喋るんだ。すっごい可愛かったよ!」
 勢い良く答える。
 だが、詩乃は相変わらず恥ずかしそうな様子で顔を伏せた。
 
「あっちゃあ……恥ずかしいなあ」
「恥ずかしがる事無いって。今度から俺と喋る時もその話し方にしてよ。
 いや、本当に可愛かったからさ!」
「うーん……」
 暫し考え込む詩乃。
 
「や、やっぱり今更って感じもするから……
 可愛いって言ってくれるのは嬉しいけれど、ごめんなさい」
 苦笑しながら頭を下げる。
「そ、そう……」
 主人はがっくりと肩を落とす。
 だが、場所が場所だから、というのは考えすぎであろうか。
 不意に、神がかり的な悪知恵が主人の脳裏をよぎった。
 
 
(待てよ? 今更だから駄目だとしたら、彼女と出会って間もない頃なら? つまり……)
 顔を上げ、目を見開く。
 
(コールドスリープで一度未来に帰ってから、今から一年前に戻って、詩乃ちゃんとの出会いをやり直せば……!!)
 無茶苦茶な案であった。
 
 
 
 
 
 
 
パワプロクンポケット6
 
神社世界のリブート
 
 
 
 
 
 
 それから、一年『前』。
 二日連続で神社に訪れた主人は、詩乃の姿を見かけるなり声をかけた。
「やあ、詩乃ちゃん」
「あ、主人さん。今日はどうしたんですか?」
「いや、特にこれといって……」
 苦笑しながら答える主人。
 一方の詩乃は物珍しそうな表情を浮かべた。
「主人さんって実は……」
 その言葉を、主人が遮る。
「暇人でも神社マニアでもないよ?」
「わ! なんで私が言おうと思った事が分かったんですか!?」
 詩乃の表情が、物珍しさから狼狽したものへと変わる。
「まあ……なんとなくだよ。そんな事じゃなく、ランニングの途中でさ……」
 主人は肩を竦めながら答える。
 思った事が分かるのも当然である。
 
 もう、これが四回目の説明であった。
 
 
 
 あの日、コールドスリープで未来に帰った主人は、
 他の隊員の目を盗んで、私用の為に再びタイムマシンを使用して過去に……詩乃の関西弁を聞いてから一年前に戻る事に成功した。
 しかし……
 
(どうすれば……どうすれば関西弁を喋ってくれるんだ……!)
 詩乃と雑談を交わしながら、内心では強い焦燥感を感じる。
 
 一年前に戻り、詩乃と出会い直し、神社へのランニングを繰り返して程々に仲良くなったある日。
 主人は、彼女の喋り方について話題を誘導してみた。
 だが、初めて関西弁を聞いた時と同じく、彼女は恥ずかしがって関西弁を用いてくれなかった。
 会話の運びを間違えたのかと、タイムスリップをやり直して再度詩乃と出会い直したが、次も同様。
 最初に関西弁を聞いた時を一周目と数えれば、今は四周目、四回目の挑戦であった。
 
 
 
「じゃあ、またね」
「はい」
 詩乃との会話を終えた主人は、ランニングで帰宅の途についた。
 その最中に彼は、どうすれば詩乃に関西弁を喋ってもらえるかを考えていた。
 幾つかの会話シミュレーションを行っている最中、彼はふと、ある事を思い出した。
 
(……そういえば……世界ってものは、無数に存在するんだ。
 俺が詩乃ちゃんと会う世界、会わない世界、その他更に多くの世界。
 そして、それらの異なる世界は、一つの世界線に収束している。
 その収束元は無数にあるが……どの世界でどんな行動を起こしても、その収束元に限っては結果は定められている。
 仮に、αという人物が死ぬ事が収束元であれば、彼の死を回避する為にどう歴史を改ざんしようが、彼は必ず死ぬ……)
 
 タイムパトロールの教習で習った、時空の理。
 それを思い出しながら駆け続けるうちに、和桐製作所の前までやってきた。
 主人はランニングからウォーキングに切り替え、頭脳をフル回転させる。
 
(もしかすると、詩乃ちゃんの喋り方も、その収束元なのかもしれない。
 何度やり直しても、どう話の運び方を変えても、彼女は関西弁を喋ってくれないのかもしれない。
 その場合、関西弁を喋ってもらう手段はただ一つ……世界線を越える事だ)
 
 なおも主人は考え込む。
 いつしか、彼はアスファルトの上で立ち止まり、顎に手を当てて考え込んでいた。
 
(詩乃ちゃんの喋り方が収束元となっている今の世界線をAとしよう。
 そして、詩乃ちゃんの喋り方が収束元ではない世界線Bが存在する。
 この世界線に移る事ができれば、詩乃ちゃんは関西弁を喋ってくれるかもしれない……!!)
 
 主人の瞳が輝いた。
 ぐっと力を込めて握りこぶしを作る。
 
「彼女との交流の何かを変えれば、きっと世界線Bに……
 関西弁を喋る世界に、到達できる……!」
 誰にも聞かれないよう、そう呟く。
 野心溢れる力強い表情だった。
 
 ……入れ込みによる注意力散漫。
 彼はその為に、製作所の物陰で何かが光った事に気がつかなかった。
 
 
 
 
 
 
 
 二日連続で神社に訪れた主人は、詩乃の姿を見かけるなり声をかけた。
「やあ、詩乃ちゃん」
「あ、主人さん。今日はどうしたんですか?」
「いや、特にこれといって……」
 そう答える主人に対し、一方の詩乃は物珍しそうな表情を浮かべた。
「主人さんって実は……」
 その言葉を、主人が遮る。
「違う。暇人でも神社マニアでもない」
 機械的な声。
 自身の考えを見抜かれた詩乃であったが、それ以前に、感情の篭っていない主人の様子が気にかかった。
「あ……あはは、良く分かりましたね。
 ………あの。主人さん、ちょっと機嫌悪い、ですか?
 喋り方がなんだか……」
「なんでもないよ。そんな事じゃなく、ランニングの途中でさ……」
 なんでもないと言いながら、相変わらずの機械的な声。
 
 もう、これが八回目の説明であった。
 神社までランニングし、彼女と交流を深めては関西弁を断られる。
 何度やり直しても、詩野は関西弁を喋ってくれなかった。
 
 
 
「じゃあ、またね」
「あ、はい……」
 不安そうに頷く詩乃を尻目に、主人はランニングで帰宅の途につきながら、考え込む。
 
(和桐製作所に潜り込む手続きも、彼女との出会いも、もう八回だ……八回目だ! 八回も同じ事をやっている!
 そして、その度に何度も何度もランニングして、こうして考え込んでいる。ランニングに限れば、もう百周以上だ!!
 同じ事の繰り返しが、こんなにも辛いなんて……
 このままじゃ、正気を失って……いや、まだだ……)
 主人はランニングを続けながら、決意し直すように、あの時と同じく握りこぶしを作る。
 
(詩乃ちゃんに関西弁を喋ってもらうまで……
 世界線Bへの道を見つけるまで、俺は正気を失うわけには行かない……!)
 
 既に正気を失っている男は、そう自分に言い聞かせた。
 
 
 
 
 
 
 
「主人さんって実は……」
 その言葉を、主人が遮る。
「今、人に失礼な事を言おうとしなかったかい?」
「え、あ……」
 ずばり心境を言い当てられた詩乃は大いに狼狽する。
 同時に、主人の機械的な声色に僅かに恐怖を感じ、彼女は一歩退いた。
「ランニングのついでなんだよ。じゃあ、またね」
「……はい……」
 怯えた声を漏らす詩乃に振り返る事なく、主人はランニングで帰宅の途につく。
 
 十周を超えてからは、もう周回を数える事は止めた。
 もう、これが何周目なのか分からない。
 こうしてランニングするのが何百、いや何千回目なのかも分からない。
 
(関西弁……関西弁……関西弁……
 俺は、詩乃ちゃんの関西弁さえ聞ければ、それでいい……
 世界線Bへの道を見つけさえすれば……)
 
 死人の目を浮かべて主人は走った。
 
 
 
 
 
 
 
「マタ、ネ」
「………」
 
 とうとう詩乃から見送りの言葉も掛けられず、主人はランニングで帰宅の途についた。
 
 もう、彼の思考能力は完全に停止していた。
 機械的に未来に帰り、詩乃との出会いをやり直し、こうして走る。
 げに恐ろしきは反復。
 ただただそれを繰り返すうちに、主人は心を壊すどころか、その殆どを失っていた。
 そして、世界線Bへの道について考える能力も失っていた。
 
 
(カンサイ……ベン……)
 
 
 脳裏にあるものは、ただそれだけ。
 歴史の繰り返しを主人公に植え付けた言葉、関西弁。
 それがある限り、主人は自動的にタイムスリップをやり直す事であろう。
 そして、思考能力を失い、世界線Bへの道を見つけられなくなった彼にとって、
 それは死に等しき悪魔の言葉であった。
 
 
 
「………」
 和桐製作所の前まで走り、主人は歩調を緩める。
 数える事を放棄するまでに続けているランニング。
 徹底的に走り込んだ事で、いつしか主人の脚はトップアスリート並の膨れ上がりを見せていた。
 
 
「ナンド……」
 主人が呟く。
 僅かに残った心が、自らの足に反応して蠢いた。
 
「ナンド……何度だ……」
 目に絶望の色が浮かぶ。
 身体が震えていた。
 
「何度だ!! 俺はあと何度ランニングをすれば良い?
 どうすればこのランニング地獄から抜け出せるんだよぉおお!!!
 どうすれば世界線Bに行けるんだよ、ああああああああっ!??」

 
 周囲を気にする事なく絶叫する。
 誰かに聞かれ、正体を怪しまれようが構わなかった。
 耳にした人間を葬れば良いだけの事。
 どうせ、やり直せばその人間も復活する。
 
 
スキニ、スレバ、イイノダ……
 
 
「……だよ」
「!!」
 
 不意に何者かの声の一部が聞こえた。
 主人は思わず身構え、声のした方を見やる。
 声は和桐製作所の中から聞こえた。
 薄暗い製作所の中に、ふた筋の光が浮かんでいた。
 
「『声をかけない』だよ」
 
 今度ははっきりと聞き取れる。
 ふた筋の光が、改めてそう口にする。
 その声には聞き覚えがあった。
 
「なんだと……?」
 無意識のうちに懐の得物に手を伸ばしながら、声の主に向かってゆっくりと近づく。
 まさか、と思う。
 彼は、元々何を考えているのか分からない所があった。
 だから、その言葉も自分に向かって発してるのではないかもしれない。
 しかし……
 
 
「お前は……」
「ほるひすだよ」
 
 声の主が自己紹介した。
 距離を1m程まで詰めて、主人は立ち止まる。
 ほるひすの口が再び開いた。
 
「世界線Bに行くには『声をかけない』だよ」
「!!」
 懐から銃を取り出し、ほるひすに向ける。
 彼は今、世界線を口にした。
 ほるひすの正体も、なぜ世界線を口にしたのかも分からない。
 だが……ほるひすが、主人の何かを知っている可能性の否定もできない。
 であれば、始末しておくに越した事はない。
 主人は引き金に指を掛けた……が……
 
 
「……声をかけない、だと……?」
 
 ほるひすの言葉を繰り返す。
 銃口を向け続けながらも、彼の言葉の意味について考える。
 そうする事によって、壊れたはずの、失われたはずの記憶が、ゆっくりと再構築されはじめる。
 瞳には、再び人間らしい色が戻りはじめた。

 一方のほるひすは、それ以上は何も言わずに、そんな主人を見つめている。
 どれだけの間、そうしていただろうか。
 主人はやがて、ほるひすから目を離しはしなかったが、ゆっくりと銃口を下げた。
 
 
「……そう言えば、俺は積極的に詩乃ちゃんとコミュニケーションを取ろうとしていた。
 まさか、それが……それが世界線Aから抜け出せない理由だったのか?」
 自問するとも、ほるひすに語りかけるとも取れる口ぶり。
 
「ほるひすだよ
 ほーむらんをうつけど  ひっともうつよ」
 ほるひすの返答はそれだけだった。
 
 
 
 
 主人はもう一度考え込む。
 この者の事は、やはり分からない。
 何故世界線を口にするのかも、その根拠も分からない。
 だが、このループから抜け出せるのなら……
 ランニングから抜け出せるのなら……
 関西弁を喋る詩乃の世界に行く事ができるのなら……
 
 
 
 
「……もう一度……」
 主人はぽつりとそれだけを呟くと、身を翻して再び走り始めた。
 
 
 行き先は、コールドスリープマシン。
 詩乃に声をかけない為に。
 世界線Bに行く為に。
 関西弁の為に。
 
 主人はもう一度だけ、ランニングを始めた。
 関西弁と新たな受難は、もう主人の目の前であった。