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時は四月。
注ぐ日差しは日に日に暖かなものとなり、
それと比例するかのように、日々を営む人々の気持ちも高揚する季節。
あらゆる物事の始まりの季節であり、自然と行動的になる季節。
そしてそれは、水木卓に至っても、それは例外では無かった。
「映画を観た後の飯は予約したから良いとして……問題なのはこの後だ。
せめて足があれば誘いやすいんだがなあ。ううん……」
この日の午前。
ドリルモグラーズ選手寮の自室で、ジャージ姿の水木卓はタウン情報誌を眺めながら唸っていた。
壁には、この日着ていくつもりの、少しだけ値の張る服が掛かっている。
同じく壁に掛かっているカレンダーには、この日の箇所に『愛ちゃんとデート』の記載があった。
気合十分、である。
デートの約束自体は、一週間程前に取り付けていたが、この当日に至っても、彼はデートコースを確定していなかった。
というのも、この日のデートはしくじられない物だった為である。
「さすがに、昨年デートをすっぽかした時は怒ってたからなあ。なんとか挽回しないと……」
深く嘆息しながら、なおもタウン情報誌と格闘する水木。
彼と野々村愛は、昨年から、ちょくちょくと一緒に遊びに出る機会が増えていた。
水木が愛に接近した理由には、身近な美少女である事も含まれていたが、
それ以上に彼は、愛の家庭的な優しさに興味を持っていた。
そうして少しずつ好感度を積み上げた矢先……
昨年11月に、水木はデートに寝坊するという大失態を犯していた。
更に、その際に寝坊を誤魔化して言い訳を試みた為に、愛の怒りは相当たるものであった。
その後、帰省やオープン戦が重なって、その失態を挽回する機会を逸し続けていたのだが、
今シーズンは見事に開幕二軍が確定し、全ての時間を野球に注がなくても良い状態になったという情けない理由で、
水木は、愛を久々にデートに誘っていたのであった。
ここで愛の機嫌を損ねるような事があっては、関係の修復は非常に難しいものとなる。
出発時間が迫る中で、水木はその日のプランを考え続けたが、やがて思い立ったように雑誌を閉じて立ち上がった。
「まあ……ちょっと、入れ込み過ぎてるかもな。
今日は飯だけでいいか。愛ちゃんに楽しく過ごしてもらうのが一番だ」
口の端を緩め、致し方なしと言わんばかりの苦笑を浮かべる。
予定が定まれば、後は準備するのみであった。
時計を一瞥し、時間に然程余裕がない事に気がついた水木は、慌てて壁に掛けていたデート用の服に着替える。
更に、洗面台で髪型を整え、最後に財布を確認する。
「よーっし、久々のデート、頑張るか!」
廊下に通じるドアの前で、握りこぶしを作って小さくガッツポーズする。
そして、ドアを開け……ようとした時であった。
「水木君、水木君っ!」
「わっと!?」
先に廊下側から扉が開けられ、思わずのけぞってしまう。
ドアを開けたのは、中年女性の寮長であった。
「ちょ、ちょっと寮長さん! ノック位してから入って……」
「それどころじゃないのよ!!」
寮長に苦言を呈そうとするが、寮長の叫ぶような声が遮った。
良く見れば、寮長の口元が微かに震えている。
不意に、水木に一抹の不安が過ぎった。
心臓が、自覚できるくらいに強く鼓動する。
「あ、あのね……落ち着いて……落ち着いて、聞くのよ?」
そうは言うものの、自身が狼狽しながら、寮長は一度言葉を切る。
そして彼女は、消えてしまいそうな声で、水木卓に告げた。
「貴方の…………。妹……、………飛行機……」
殆ど形になっていない、かすれて途切れ途切れとなった声。
だが、すぐ側にいた水木は、その言葉を聞き取った。
水木の瞳が、大きく見開かれた。
パワプロクンポケット2
悲しみの果てに
野々村愛は、駅の改札口前で、柱に背中を預けて待ちぼうけていた。
この日のデートでは、水木とここで待ち合わせていたのだが、いつまで経っても彼の姿が見える気配はない。
そんな事態に、悲しそうな表情を浮かべ、コンコースに掛かっている時計を一瞥しては首を左右に降る。
気がつけば、こうして待ち続けて一時間が経とうとしていた。
(……水木さん、またなの……?)
寂しそうに呟き、ため息をつく。
何度も帰ろうかと思ったが、入れ違いに水木が来る可能性を考えると、なかなかその場所を動くわけにもいかなかった。
こういう事になるなら、少々無理をしても携帯電話を購入しておけば良かった、と思う。
最近では所持している学生も多いようだが、簿給の彼女にとってはハードルが高いものであった。
選手達に最も身近な同年代の女性という事もあって、愛に言い寄ってくる選手は少なくはなかった。
彼女はその多くをいなしていたのだが、その中の一人である水木とは、少しずつ関係を深めている。
水木も他の選手の例に漏れず軽い所はあったが、性根は優しい人である、と愛は思っていた。
だからこそ、昨年デートをすっぽかされた上に言い訳をされようが、
再びの誘いを受けたし、この当日に至っても、こうして水木の到着を待ち続けている。
しかし……
(……もう、限界)
約束の時間を一時間過ぎた所で、愛は跳ねるようにして背中を柱から離した。
もう一度ため息をつき、重い足取りで歩き出す。
「……ガッカリだな」
休日の駅の雑踏の中、彼女の呟きは誰にも聞き取られずに消えていった。
帰宅した愛は、帰宅の旨を告げずに靴を脱ぎだした。
この日のモグラーズはデイゲームで、野々村耕造は午前中から出勤しており、家には誰もいなかった為である。
ジリリリリリッ、ジリリリリリッ!
「あ、電話……」
ちょうど靴を脱ぎ終えた所で、リビングからベル音が鳴り響いた。
愛はぱたぱたと足音を立ててリビングに駆け込み、慌てて受話器を取る。
「はい、野々村ですけれど」
「………」
受話器の向こうから、声が聞こえてこない。
「あの、野々村ですけれど、どちら様でしょうか?」
イタズラ電話かと思ったが、もう一度尋ねる。
デートをすっぽかされて消沈している所にこのような電話を受け、その声は少々苛立ったものとなっていた。
「……あの、俺だけれど……」
「俺?」
男性のかすれたような声が聞こえてきた。
相手の言葉をオウム返しにしながら、声の主に覚えがないか考え込むが、すぐに思い当たった。
「……もしかして、水木さん?」
「……うん」
「水木さん……!」
もう一度彼の名を呼ぶ。
唐突に連絡してきた彼に対して強い怒りを感じる。
昨年すっぽかされた事、言い訳をされた事、今日駅のホームで待ちぼうけを受けた事。
それぞれの光景が脳裏を過ぎり……彼女の感情は沸点にまで達してしまった。
愛は、普段の彼女には見られない勢いでまくし立てはじめる。
……その為に、水木の声に生気が無い事を、愛は気に止めなかった。
「一体、どういうつもりなの!?」
「……それは」
「私、一時間も待ったんだよ? 遅れるなら事前に連絡くれてもいいじゃない!」
「……その」
「なんなのよ、さっきからハッキリとしない事ばかり!」
「……愛ちゃん……」
名前を呼ばれて、愛は喋るのを止める。
眉を顰めながら、彼の言葉を待った。
五秒程、間が生じる。
それから、水木の震えるような声が聞こえてきた。
「………妹が……
今朝、飛行機事故で………死んだんだ」
だが……
「……水木さん。冗談でも、言って良い事と悪い事があるわ」
愛は、声色に静かな怒りを含めて、言葉を返した。
「あ、愛ちゃん……」
「昨年も寝坊した時に言い訳してたよね?」
「………」
「言い訳する癖自体いけない事だけれど、
家族の不幸を理由にするって、妹さんに申し訳ないと思わないの?」
「いや、聞いて……」
「何を聞けって言うの? 他の言い訳!?」
「………」
一層強い怒鳴り声を受け、水木が黙り込む。
が、それも僅かな間であった。
「……愛ちゃん、デートすっぽかして、ごめんな」
謝罪の言葉が聞こえてくる。
そしてその次の瞬間には、プツン、という電子音。
「あ……」
愛は受話器を耳から離して一瞥する。
謝罪した水木は、一方的に電話を切ってしまった。
暫し受話器を見たままで唖然としていた愛だったが、やがて、忌々しげに受話器を本体に戻した。
「……なんなのよ。一体」
愛の怒りは、まだ収まらなかった。
数日が過ぎた。
この日の愛は、選手寮食堂での仕事を終えて帰宅するなり、再びキッチンに立っていた。
家事としての調理……父、耕造の為の軽食作りである。
時刻は既に21時を回っていたが、この日はナイトゲームの為に、耕造が帰宅するのはこれからであった。
「お父さん、最近胃の調子が悪くて、御飯ちゃんと食べていないから、せめて栄養のあるものにしないとなあ」
チームが勝てない事もあり、最近少しやつれてきた父の事を想いながら、包丁を振るう。
――野々村家の電話が鳴り響いたのは、そんな時だった。
「もしもし、野々村です」
「愛か。私だ」
「ああ、お父さん。お疲れ様。今日の試合はどうだったの?」
「試合か。また零封負けだよ」
「あら。じゃあ、せめて元気が出るもの作っておくから、はやく帰ってきてね」
「それなんだが……すまない。今朝言い忘れていたのだが、今日は帰りが相当遅くなるので、軽食はいらないのだよ」
「そうなの? 球団の人と会食でもあるとか?」
「いや………」
耕造が言葉に詰まる――
「……うちの二軍の水木は、お前も知っているだろう?
先日、彼の妹さんが、飛行機事故で亡くなったそうだ。
今日はその通夜に出席したいのでな……」
「………え……?」
不意に、愛の肩の力が抜ける。
全身を、凍えるような切なさが襲う。
彼女は、ただその言葉だけを絞り出した。
それから……
野々村愛は、通夜にも葬式にも顔を出さなかった。
無論、参加したかった。
水木に詫びたかった。
だが、水木に顔を合わせる勇気が、その時の彼女にはなかった。
葬儀が終了した後も、水木は寮に戻ってこなかった。
葬儀後にも、それに関わる幾つかの手続きがあった事や、同じ飛行機に登場していた、妹の夫と息子……
水木にとっては友人でもあり義弟でもある虎造と、その息子が大怪我を負っており、彼らの看病という側面があった為である。
これが一軍選手であればそうもいかなかったが、耕造が気を利かせて球団に取り繕ってくれ、
また、幸か不幸か二軍選手である為に球団もそれを了承してくれた為、水木は、暇を貰い受ける事が許されていた。
そしてその時間が、愛を決心させてくれた。
別に、彼と交際しているわけではない。
彼に許してもらえなくとも、水木卓という男性を失うわけではない。
しかし、水木卓という人間なら、失ってしまう可能性ならある。
それが、怖かった。
叱られるのは厭わないが、彼という人間と心を通い合わせられなくなるのが怖かった。
だが、そうして彼から逃げ続けた所で、それは偽りの間柄である、と愛は思う。
彼を信じてあげられなかった事に対して詫びる。
その上で、自分に出来る事があるのなら、彼の力になりたい。
その過程や結果で、彼から距離を取られようとも……それは、当然の報いである。
野々村愛は、そう考えた。
そしてその機会は、それから間もないうちに訪れた。
「……これで仕込みはおしまい、っと。ふう……」
ある日の深夜。
この晩、モグラーズ寮にいたのは、寮長の女性と野々村愛の二人だけであった。
選手達は二軍遠征に出ており、この日は食事を用意する必要がない。
その為、日中は普段省略している他の家事に明け暮れるのだが、なにぶん二人でやる為に、結構な時間を要してしまう。
また、選手達が帰ってくる翌日の食事の下ごしらえは必要であり、
結局、この日愛が食堂で下ごしらえを終えたのは、普段なら帰宅できている21時頃であった。
「あとは、寮長室でおばさんの洗濯物畳みを手伝って、おしまいね」
首を左右に傾けて鳴らし、拳を作って軽く叩く。
それから、食堂を出ようと顔を上げた所で……薄暗い食堂の入口に、人影がある事に気がついた。
「あれ? おばさ……、……!」
人影を凝視しながら声をかけて……愛は絶句する。
暗闇の中に浮かんできたのは、今一番会いたい人の顔……
水木卓の顔であった。
「やあ、愛ちゃん。
……義弟達の様態も安定したから、今、帰ってきたよ」
水木が、力のない声でそう告げた。
愛は目を大きく広げ、そんな彼の表情を凝視する。
彼は、無表情だった。
「あ……あ……」
言わなくてはいけない。
謝らなくてはいけない。
浮ついた足取りで彼に近づく。
「あう……み、水木、さん……私……私……」
だが、それ以上言葉を捻り出す事ができない。
決心したはずなのに、声が出ない。
恐怖だろうか、それとも負い目からだろうか。自身でも理由はわからなかったが、瞳が潤む。
彼女が感情を表現できていたのは、瞳だけであった。
「愛ちゃん……」
水木もまた、愛の傍まで足を進めた。
彼が小さく息を吸い込むのが分かる。
ふと、幾つかのビジョンが愛の脳裏をよぎる。
罵倒されるだろうか。
嫌味を言われるだろうか。
叩かれるかもしれない。
だが、それも致し方ない。
自分はそれだけの事をしたのだ。
妹をなくし、失意の底に沈む彼を信じずに、辛辣な言葉を投げかけたのだ。
当然の報いなのだ。
そして、水木卓は、ゆっくりと口を開いた……
「愛ちゃん。デートすっぽかして、ごめんな……」
「え……」
意外な言葉に、愛の声が裏返る。
切なさが、全身を駆け巡るのが感じられた。
そして次の瞬間……
「……なんで!?」
水木の襟元に、しなるようにして寄り掛かりながら声を荒げる。
「ねえ、なんで!?
水木さん、なんで謝るの!?
謝らなきゃいけないのは……
謝らなきゃいけないのは……う……うあ……」
怒鳴るというよりは、問い正すような勢い。
上目遣いで彼を見上げながら、一気にまくし立てる。
そうしているうちに、瞼で留まっていた涙は、今にも溢れだそうとしていた。
「……関係ないさ。
愛ちゃんに寂しい思いをさせた事に変わりはないんだ。
本当に、ごめんな」
乾いた声。
寂しい声。
その心理状況を表した、虚空の声。
それでもなお、自分を気遣って謝っている。
襟を掴む手から、彼の心理状況が伝播した気がする。
切なさはピークに達し……
そして、愛の涙腺は決壊した。
「うあ……あ……あああああんっ!」
子供のように泣きじゃくりながら、襟元に回していた手を彼の背に回す。
辛かった。
彼から伝わってくる切なさが、ただただ辛かった。
「ごめんね……水木さん、ごめんね……!
私、私、なんであなたの事を信じられ……あう……あああああっ……!
い……妹さん、亡くなって……ひっく……水木さん、辛かったのに……あう、あ……
ごめんね……ごめん、ごめんね……ごめん……うあ、ああ……あああっ……」
赴くままに、感情を爆発させる。
もっと明確に表現したいのに、謝罪の言葉しか口にできない。
そのもどかしさを表すかのように、強く強く彼を抱きしめ、泣き叫ぶ。
水木は、そんな愛の頭にゆっくりと手をあてがった。
空いたもう片手で、そっと彼女の腰を引き寄せる。
だが、それだけだった。
水木の表情には、何も灯っていなかった。
「愛ちゃん、ありがとう……
俺の為に泣いてくれて……ありがとう」
水木がふっと目を伏せる。
曇った瞳だった。
「俺さ……泣けないんだ。
静香が死んだ時は泣いたけれど……今じゃ、泣けないんだ。
もう涙は出し切ったのかもなあ。
だから、愛ちゃんが俺の代わりに泣いてくれて……嬉しいよ」
水木はもう一度、愛を抱き寄せ直した。
一方の愛の慟哭は収まらない。
静寂の中、それだけが聞こえている。
悲しい夜だった。
暫しの後。
落ち着きを取り戻した愛は、食堂の椅子に腰掛けていた。
隣には水木が腰掛けている。
二人して何も物言わず、暫くそうしていた。
たまに愛が、残った慟哭を漏らすだけで、喋る事はない時間。
だが、二人が感情を共有している時間。
その沈黙を、そっと破ったのは水木だった。
「愛ちゃん……」
「ん……?」
「俺さ……」
先程までとは変わって優しい声。
だが、その瞳は相変わらず暗いものであった。
「俺……多分、結婚できない人間だと思うよ。
誰かを失うのが、怖いんだ。
きっと、幸せになれない人間なんだろうな。俺は……」
「水木、さん……」
そんな事はない、と言いたかった。
人はそれを乗り越えて生きるものだ、と言いたかった。
だが、口にはできない。
水木を信じてあげられなかった自分が口にできる言葉ではない、と思う。
ならば……
「……水木さん。そんな事、言わないで」
袖で涙を拭いながら、そう口にする。
水木は僅かに首を傾けて、愛の瞳を見つめてきた。
彼を、これ以上孤独に晒すわけにはいかない。
愛は、今の自分にできる最高の微笑みを浮かべて、呟いた。
「結婚なんかできなくても、幸せになれる。
人の幸せって、それだけじゃないわ。
良く分からないかもしれないけれど……」
一度、言葉を区切る。
「……私が、それを教えてあげる。
貴方は一人じゃないって、教えてあげるわ」
水木の瞳を見つめ返しながら、そう呟いた。
「……うん」
水木は、ほっ、と息を零す。
それから小さく頷いた。
どうにでも意向を解釈できる、曖昧な返事。
だけれども、水木の瞳は、もう曇っていなかった。
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