「カンタ君、お母さんが倒れたって本当か?」
 主人公はカシミールの扉を開けるなり、早口気味にその言葉を口にした。
 
 
 店内には、カウンター席に腰掛けていた広川武美と神田カンタの姿があった。
 二人で顔を見合わせて何か話していたようだが、唐突に入ってきた主人公に、視線が移る。
 
「ありゃりゃ、随分耳が早いんだね。どこで知ったの?」
 武美が僅かに首を傾げながら尋ねる。
「野球の練習の帰りに、たまたま会った大村会長から聞いたんだ」
「なるほど。倒れた時は会長さんも店にいたからねえ」
「なあ、そんな事よりカンタ君のお母さんは……?」
 マイペースでうんうんと頷く武美に対し、主人がやや焦燥気味に声をかける。
 
 
「おじちゃん、そんなに焦らなくても大丈夫でやんす」
 カンタがそう言いながら椅子から飛び降りる。
 それから、主人の近くに来ると、彼を見上げるようにして言葉を続けた。
 
「ちょっと疲れが溜まっているだけで、数日休めば大丈夫って言われたでやんす。
 心配してくれてありがとうでやんす」
 気丈な言葉だったが、少年は、いつの間にかすがるように主人のマントを握りしめている。
 
「……そうか。なら良かった」
 主人はそんなカンタを勇気づけるように、彼の頭部に右手をあてがった。
 そうする事で、主人も落ち着きを取り戻す事ができた。
 普段通りの香ばしいカレーの香りがする事に、今更ながら気がつく。
 おそらくは勤務中に倒れたのだろう、と主人は思う。
 
 
「明日にでも、見舞いに行ってみるかな」
 ぽつりと呟く主人。
 その呟きは、武美の笑い声によってあっさりとかき消された。
「主人さんが? あははー、だーめだめ。患者さんから病気を移されて、逆に自分が病気になっちゃうよ」
「病気だと? そんな事は……」
 
 武美に反論しようとして、彼女の家で同棲する前の生活を思い出す。
 変なものを食べては、五割以上の確率で下痢を引き起こす有様。
 今では拾い食いを止めて改善気味とは言え、彼女の言葉には現実味があった。
 
「ぐう」
 ぐうの音くらいは出して怯む。
 
 
 
「ま、そんなわけで看病はいいんだよ。カンタ君が言う通り、本当に軽い症状だからね。
 それよりも、他に一つ問題があってさ。その事についてカンタ君と相談してた所」
  腰を据えろという事だろう。武美がカムカムと手招きする。
 主人は招かれるままに武美の隣に腰掛け、カンタも元の席に戻った。
 
「問題か。退院するまでのカンタ君の生活とか?」
「それは解決したんだ。会長さんの所でお世話になる予定」
「そうか。まあ、ウチよりはマシだな。主に食事面で」
 同棲している広川家を自宅のように語ると同時に、武美に反撃する。
「まあ、否定はしないけどさあ」
 悔しそうに頭をかく。
 
 
「そうじゃなくて、問題なのは三日後の夏祭りでやんす。
 ウチの店も出店する予定だったのでやんす」
「そう、そうそう、そうなのよ!」
「ああ、なるほど」
 二人の言葉に主人が頷く。
 
「元々あたしも手伝う予定だったから、店が出せない事はないんだけれど、
 さすがに女手一つってのはしんどいから、どうしようかって悩んでいるんだ」
 武美がカンタの現状説明を補足する。
 悩んでいる、とは言った。
 しかしながら、彼女のニヤついた表情に悩みの色は見受けられない。
 どちらかと言えば……
 
「あーあ、どこかにいないかなあー。
 居候の身で、こういう時にこそバリバリ働くべき、イケメン風来坊がー」
 
 棒読みである。
 
「分かった、分かった。
 ……こんな事態なんだ。居候じゃなくとも手伝うけれどな」
 良いカモを見つけたと言わんばかりの表情でそう口にする武美に対し、主人は苦笑しながら頷いた。
「へへっ、そうこなくっちゃ」
 口の端をニヤリと上げて笑み、彼女は片手を広げて前に出す。
 主人は肩を竦めながら、彼女の手を張り、小気味の良い音を立てるのであった。
 
 
 
 
 
 
 
パワプロクンポケット9
 
あいじょ〜カレー
 
 
 
 
 
 
 夏祭りは瞬く間にやってきた。
 祭りとはいっても、遠前町の商店街が主体となったものの為に、そう大規模なものではない。
 一応は花火を打ち上げる予定こそあるものの、川沿いに幾つかの出店が並び、土手でちょっとしたステージイベントがある程度の、ささやかな祭りである。
 
 
 そして、主人と武美の二人は、無事カシミールの出店にこぎつける事ができていた。
 出店に必要な手続きや運搬の手続きは事前に奈津姫が済ませていた為、事前の準備ではさほど問題は生じなかった。
 問題は、どちらかといえば今現在である。
 
 
 
 
「……それにしても、なかなかお客さんが多いものだな。
 もうちょっと暇なものだと思っていたが……」
 六畳ほどの狭い集会用テントの中で、主人が愚痴を零しながら、ご飯の盛られた器にカレーをかける。
 鍋から解き放たれた香ばしい香りが器を包み、同時にほのかな熱気が生じた。
 テントの前には、そのカレーを食べる為に、3、4名ほどの列が生じている。
 
「同感。さすがは奈津姫のカシミールって所かな……あ、五百円になりま〜す」
 主人の隣で接客している武美がぼやく。
 
 
 二人はかれこれ一時間以上、休む間もなく営業に勤しんでいた。
 商店街外でもそれなりに有名な為か、カシミールのカレーを求める客は多く、夏祭りが始まった時にはまだ沈みかけだった陽は、気がつけば完全に暮れていた。
 
 しかし、3、4名でも随分減った方ではある。
 夏祭り開始直後には、これ以上の行列が出来ていたのだが、ステージイベントが始まると、その人数はゆるゆると減少していた。
 そして、それから更に数十分後には、ようやく客を全て捌く事ができた。
 
 
 
 
 
「ふい〜、疲れた疲れたぁ」
 武美が両手を腰に当て、背伸びをする。
 今日の彼女は、普段着の上にエプロンを纏っていた。
 
 主人は、そんな彼女を改めて眺める。
 カシミールで店番をする時でもその格好ではあったが、こうも眼前でまじまじと眺めるのは初めてだった。
 彼女のエプロンは体格よりも少々大きく、エプロンに彼女が飲み込まれるような印象を受ける。
 だが、そんな姿には、愛らしい幼さがにじみ出ていた。
 
 
「ん? どったの。ジロジロ眺めちゃって」
 武美が尋ねる。
「いや……エプロン、なかなか似合うじゃないか」
「お、ありがとー。でも、褒めても何も出ないよー」
 片手首から先を前に振る『ちょっとアンタ』の身振りと共に笑い声を立てる。
「いや、馬子にもなんとやらってやつかもしれないな」
「だから、褒めても何も出ないってばー」
「今のは褒めてないぞ」
 ジト目で突っ込む。
 
 
 
 
 だが、そんな穏やかなやり取りは、不意に聞こえてきた怒鳴り声によって崩された。
 
 
「おぉい!!」
 男性の、明らかに相手を威嚇するつもりの怒鳴り声。
 声に反応して二人がテントの外に視線を向けると、そこにはガラの悪い男性が三名。
 三名とも、テントの中の二人を睨みつけていた。
 
 
 
(ああ……椿……ジャジメントスーパーのいちゃもんか)
 それだけで大方の予想がついた主人は、気だるそうに首を左右に降る。
 
「はーい、どうしました?」
 一方の武美は、そんな主人を一瞥した後で、怒鳴り込んできた男性達に対応した。
 普段通りの軽い調子。
 それがしゃくにさわったのか、男性の一人が一層声を荒げた。
 
 
「どうしたもこうしたもねえよ!
 さっきお前ん所で買ったカレー、ゴキブリが入ってたぞ!
 どう落とし前つけてくれんだ、この野郎!」
「あれれ? 看板にゴキブリ味って書いてたはずですよ」
 どちらも無茶苦茶である。
 
「書いてねえよ、馬鹿野郎!
 てめえ、ちょっと向こうまでツラ貸してもらおうか、ああん?」
「ふふん、いいでしょう。相手になりましょう!」
 意外にも、武美は喧嘩を買おうとしている。
 ふと、主人に嫌な予感が走った。
 
「武美、それはもしかして……」
「ここにいる風来坊さんが!」
「だと思ったよ……」
 面倒くさそうに肩を落とす主人であった。
 
 
 
 
 
 
 十分後。
 主人が無傷で帰ってくると、テント前には『仕込み中の為一時おやすみ』の張り紙があった。
 テントの中を覗き込むと、実際に武美が予備の材料を煮込んでいる。
 
「お、お帰りー」
 主人が帰ってきたことに気がつくと、彼女は心配した様子もなく出迎えた。
「心配の言葉はないのか……」
「どうせ無傷なんでしょ?」
「まあ、そうだが」
 
 怪我こそないが、疲れた。
 主人がどっしりと椅子に腰掛けると、それを見計らったかのように武美が一杯のカレーを差し出してきた。
 
 
「これは?」
「お疲れ様のまかないだよ。これだけスペッシャルな味付けしてあげたよ」
「へえ、何が入ってるんだ?」
「ゴキブリ」
「いらない」
 片手でカレーを押し返そうとする。
 
「けらけらけら! じょーだん、じょーだん!」
 武美は愉快そうに笑いながら、カレーを強引に主人の膝上に置く。
「味にコクを出す為に醤油を入れてるんだ。
 あとは、あたしのあいじょ〜って奴だね」
「はいはい……愛情、ご馳走になります」
 苦笑しながらカレーの器を手に取る主人であった。
 
 
 主人も、こんなやり取りは嫌いではない。
 考えてみれば、交際もしていない女性との同棲というものは、なかなかに奇妙なケースである。
 それを許容できているのは、やはり相性なのだろうか、と思う。
 彼女の軽快なノリには、多少の気疲れは感じるものの、心地良い気疲れであった。
 自分はそれで良い。
 だが、彼女はどうだろうか。
 武美は、自分の事をどう思っているのだろうか……。
 
 
 
「二人共、お疲れ様でやんす!」
 甲高い声が聞こえてきた。
 気がつけば、両手に水入りのペットボトルを持っているカンタが、傍に立っていた。
 
「はい、差し入れでやんす。今日は本当にありがとうでやんす!
 お母さんも「ありがとう」って言っていたでやんす」
「おー、サンキュー。あはは、お礼なんかいいのにねえ」
「ありがたくもらうよ。ああ、まったくだな」
 二人がカンタからペットボトルを受け取る。
 
 
「ところで、二人に聞きたい事があるでやんす」
 ペットボトルを渡し終えたカンタが、次の用事に移れると言わんばかりに言葉を続ける。
「ん、なーに?」
「なんだい」
 
 
「二人は、付き合っているんでやんすか?」
 
 
 思わず目を見開く主人。
 ちらと真横の武美を見やると、彼女は僅かに頬を染めて、視線を二人から逸らしていた。
 だが、不自然な間が生じないうちに、武美は笑顔を携えてカンタに返答する。
 
「カンタくーん、随分おマセさんな質問だねえ。
 もしかして、誰かから「聞いてこい」って言われたのかな?」
「うん。権太さんからそう言われたでやんす。
 冷やかしたら面白いから、とも言っていたけれど、冷やかすってなぁに?」
 実直な子である。
 
「そっかー。冷やかすの意味はまた今度教えたげよう。
 アイツにはあたしから直接答えておくから、カンタ君はお祭りで遊んできなよ」
「うん、分かったー」
 カンタはこっくりと頷くと、二人に手を振って祭りの喧騒の中へと消えていった。
 
 
 
 
 
 そして、カレーのテントの下には、気不味い二人が残った。
 
「……あんにゃろ、明日は覚悟しときなさいよ」
 武美の物騒な呟きが沈黙を破る。 
「おいおい、穏やかじゃないな」
「いや、だってさあ……」
 口の端を尖らせてボヤく。
 
 
 おそらく彼女は、冷やかされた事が気に入らないのだ、と思う。
 そうだとは思うのだが……自分と組み合わせられた事に対する怒り、と解釈できなくも無い。
 暫しの沈黙の後、主人は彼女の顔を見ながら、ぽつりと呟いた。
 
 
「……すまんな。俺なんかと組み合わせられて。
 迷惑だったら、明日にでも出て行くが?」
「えっ……」
 武美がハッと主人を見上げる。
 
 それから、再びの沈黙。
 時が進む毎に、彼女の顔が強く赤く染まるのが分かった。
 
 
 そして、武美は不意に主人の肩を平手で叩いた。
 ぱしん、と良い音がする。
 
「……馬鹿な事言ってないで、早くそれ食べて、次のカレーの準備手伝ってよ。
 ちゃんと働かなきゃ、明日の朝ご飯抜きだかんね?」
 その顔はまだ赤く染まっている。
 その上で、見る者に幸せを振りまくような笑顔を浮かべていた。
 彼女らしい、良い笑みであった。
 
「そりゃ困るな。頑張るか」
 主人は嬉しそうに嘆息した。