俺は……おかしくなってしまったのかもしれない。
 
 いや、そんなに珍しい話じゃないんだ。
 というのも、奇妙な出来事自体はいくらでも起こっている。
 
 皮切りになったのは、開田君がパソコンに引きずり込まれた一件だろう。
 人食い野球ゲームの噂を教えてくれた千脇さんも、どうやら失踪してしまったらしいし、
 ワギリ製作所の寺岡さんとやらは、どうやら電子生命体のカオルとなって、ウェブ上で生きているようなのだ。
 
 どれもこれも信じがたい出来事だ。
 だから、もう一つ起こっている怪奇現象に俺が惑わされるのも、無理もない話というわけだ。
 実は……得体のしれない人影が、たまに現れては、俺の決意をひっくり返すような事を言ってくるんだ。
 俺の心中を知らなくては絶対に指摘できない発言。
 まるで心の闇のような人影。
 本当に心の闇が具現化したものなのか、それともそれ以外の何かなのか、俺にはよく分からない。
 
 分かるのは、人影の甘言に溺れても仕方ないんじゃないか、という気持ちだけ。
 これまでは、強く自分を持つ事で誘惑を跳ね除けてきたけれども、そうはいかない場合もある。
 そして、まさしく今がその時だ。
 俺は、あの人影に取り込まれてしまったのだろうか……、
 
 
 
 
 
 
 
「言い訳はそれだけですか」
「アッハイ」
「つまり、内なる欲求に逆らえずに、私のうなじにしゃぶり付いたと」
「……えっと、その……」
「主人さん、これまでずっと、そうして生きてきたわけですか?
 女性を見て『触りたいなー、しゃぶりつきたいなー』と思ったら、そうしてきたわけですか?
 凄いですねー。渦木さんに報告したら、逮捕されちゃいそうですねー」
「……ごめんなさい。俺が悪かったです」
 
 ネットカフェの外に引きずり出されるなり、矢継ぎ早に飛んできたミーナさんの追及に、俺は白旗を上げざるを得なかった。
 いや、初めから説き伏せられる話じゃなかったのだ。
 ネットカフェのカップル席で、膝の上に乗って調査に没頭しだしたミーナさんのうなじが魅力的で、
 思わずしゃぶりついた俺に、どう考えても勝ち目はない。
 人影の件だって正直な話、ただの言い訳だ。
 嘘じゃないが、さっき現れていたわけでもない。
 
 
 
「……はあ、幻滅ですよ、主人さん。なんでそんな事をしましたか?」
「面目ありません。瑞々しいうなじが好きなんです」
「そ、そういう意味で聞いているんじゃなく……もう……」
 
 ミーナさんが微かに顔を赤らめる。
 とはいえ、声色が優しくなったわけではないし、俺を睨みつけるキツい表情も変わらない。
 この場の主導権は、完全に握られてしまっている。
 さあ次は説教か折檻かと待ち構えていると、彼女は首を左右に振りながら、道路を歩き始めた。
 
 
 
「あ、あの、ミーナさん……どちらへ?」
 彼女の背中に恐る恐る声を掛ける。
 まさか、本当に警察に行く気じゃないだろうか。
 
「立ち話もなんですから。落ち着ける場所、行きましょう」
「じゃあ、近くのファミレスにでも」
「駄目です。ネットカフェにいる時に、調査対象をハッキングしていました」
「ハッキング……ですか」
「ええ。相手に気づかれていたら追手が来ますから、他人を断絶できる場所に行きましょう」
「と言うと、カラオケとか? でも、あれも完全に断絶はできないか。そんな場所、あるかな」
「あるじゃないですか。主人さんの家です」
「そっか、俺の家か。……って、えええっ!?」
「さ、急ぎましょう」
 ミーナさんは、最後にそれを短く告げると、少しだけ歩調を速めた。
 
 お、俺の家……!?
 いや、仰る事は分かりますよ?
 そりゃ、俺のアパートなら安全だ。
 ミーナさんもアジトでは、相応の構えをしているんだろうけれども、より安全なのは俺のアパートの方だろう。
 実際、彼女もそう考えていたのか、以前に我が家を緊急避難先に使われた事もあった。
 だけれども、それは裏社会の人間を相手取った場合……である。
 
 
 
(夜中に俺の部屋に乗り込むって……この人、大丈夫だろうか)
 
 ぽりぽりと頭を掻きながら、ようやくミーナさんの後に続く。
 いや、俺が何もしなきゃ良いだけなんだけどね……。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
  
キミはもっと『若さゆえの劣情』に身をまかせてもいいと思うのだよ
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 我が家に入るなり、ミーナさんはしげしげと中を見回したが、
 やがて、少しだけ表情を緩め、満足げに頷いてみせた。
 
「前もそうでしたが、随分と片付いていますよね。感心です」
「散らかってると思っていましたか?」
「実は少しだけ」
「隣の部屋は、想像通りですよ。見てみますか?」
「あ、そっちは見てなかったです。じゃあ、せっかくですから」
 
 隣室へのドアをスライドさせ、中を覗き込んだミーナさんは、そこで動きを止めた。
 それから、巻き戻し映像のように同じ動きをしてドアを戻し、また俺の方を見る。
 
 
 
「……主人さん、面倒事は溜め込むタイプですか」
「違いますよ。ルームシェア相手の開田君の部屋なんです」
「ああ、パソコンに飲み込まれてしまった彼ですか」
「はい。事件を解決すれば、彼が帰ってくるかもしれないんだから、勝手に整頓するわけにもいかないって事で」
「ごもっともですね」
 
 納得してくれた彼女に、パソコンチェアに腰掛けるよう告げてから、俺はキッチンに出てコーヒーを入れる。
 五分も経たずに戻ってくると、彼女は両手を合わせて気軽に頭を下げてきた。
 
 
「わー、お茶、わざわざどうもですよー」
「いえ。……これから説教されるんですし、これくらいはしないとね」
「もう怒ってませんよ。というか、怒る為にここに来たわけじゃないです」
 あっけらかんとした笑顔で言われる。
 声も優しげだし、どうやら他意を含んだ発言ではないようだった。
 
「そうだったんだ。……ふぅー、良かったあ……」
「でも、またあんな事はしないで下さいね?」
 小さく頬を膨らませながら言われるが、冗談めいた表情だ。
「分かってます。……ミーナさんの事を考えない独善的な行為だったと理解しています。
 本当にすみませんでした」
「いいですよ。もう本当に怒っていませんから」
 
 いやはや……良かった。
 
 彼女に嫌われたら、最悪、デンノーズに亀裂が入っていたかもしれない。
 俺個人としても、かなりのショックになっていたところだった。
 何故かというと、そりゃまあ……単純な答えで、嫌われたくないからに他ならない。
 正義を追い求める彼女はどこまでも純粋で、誰にも打ち明けた事はないが、実は非常に憧れている。
 ついでに言えば、可愛い人だし、今日分かった事だが肌も奇麗だし。
 ……ついでだ。
 体よりも心に惹かれてるの。
 本当だって。
 インディアン嘘つかない。
 俺、インディアンじゃないけど。
 
 ともかく、思わず安堵の息を零した俺だが……その最中に、ふと疑問が浮かび上がった。
 
 
 
 
 
「……あれ。じゃあ、何の話があるんですか?」
「実は、これといって用事はないのです。強いて言えば雑談でしょうか」
「雑談……ですか。
 そういや、ネットではよく練習の合間に雑談しますけど、
 現実ではミーナさんの仕事の手伝いばかりでしたね」
「そうそう。……それで、ですね」
 
 ミーナさんが椅子から降り、カーペットの上に正座した。
 釣られて俺も腰を下ろすと、彼女の頬が微かに赤らんでいるのに気が付く。
 
 
 
「ちょっと、聞きたい事があるのです」
「なんでしょうか。俺、今日は負い目があるから、大抵の事には答えますよ」
「なら良かったです。……ええと、その……肌の事なんですが」
「肌……?」
「そうです、肌。……主人さん言ったじゃないですか。瑞々しいうなじが好きって。
 ……その、ええと……私の肌、まだそんな風に見てもらえていたんです……よね?」
 ミーナさんの声が次第に小さくなり、それと反比例して顔の赤らみがより明確になる。
 
 一方の俺は、一応は平静な表情を装えていたと思う。
 だが、唐突の爆弾質問に、内心は破裂寸前だ。
 なんだ、この質問……!?
 普通に答えてしまっていいんだろうか。
 いや、ミーナさんから聞いてるんだから、良いんだろう。
 流石に『弾道上がりました』なんて言うつもりはないが、普通に褒めてしまえば良いのだ。
 ……しかし、仕事一筋の彼女から、こうも私的な質問が飛んでくるなんて、どういう事なんだろう。
 
 
 
「……普通にそう思いますが」
「ホントーにそうですか? 絶対ですか?」
「そうじゃなきゃ、あんな事しませんよ。そんなに気にしなくても」
「でも、私もうおばちゃんなんです。気軽に年齢言えないくらいになってるんですよ?
 だから、ええと、その……ですね……うう……」
 ミーナさんの小さな口の動きが、緩やかになる。 
「どうかしましたか?」
「あ、あのですね……うう、言いにくいですね……」
「うなじ吸われて、嬉しかったと?」
「そ、そうは言ってません!! 肌を褒められた事が嬉しかったんです!!!」
「なるほど。そういう事でしたか」
「あ、ああああっ!?」
 
 勢いに任せて口外した事に気が付いた彼女は、すぐさま顔を伏せ、更にはその顔を両手で覆った。
 その行為を目の当たりにして、思わず抱きしめたくなったが、今度は辛うじて踏みとどまる。
 さすがに、スリーアウトになりますです、はい。
 
 
 
 
 
「……ミーナさんがいくつになるかは知りませんけど、自信もって良いと思いますよ」
「う、うう……どうもです」
 そういいながら、やっと目だけを覗かせる。
 上目遣い気味に覗かれて、また俺の心臓が強く高鳴った。
 なんだこれ……なんか変な空気だぞ。ちょっと方向性変えた方がいいかもしれない。
 
 
「でも、ミーナさんも、そういう話するんですね。意外だったな」
「いえ、どちらかと言えば、あまりしない話ですよ。
 だから、今更、口にするのがなんだか恥ずかしかったのです」
「いいじゃないですか。仕事に打ち込んでいるミーナさん像を崩したくなかったんですか?」
「別に、そんなのじゃありませんけど……なんだか本性を知られるのって落ち着かないじゃないですか」
「それは分かりますけど、誰だってサルなんですから、気にすることはないですよ」
「サル……ですか?」
 唐突な話に、ようやくミーナさんは両手を膝に戻し、顔を微かに傾けた。
 
 
「ええ。ミーナさんがデンノーズに加わる前に、渦木さんやサイデン、BARUと話した事があったんですよ。
 場所や相手次第で、様々な自分を使い分けるのが人間だ。結局は全部ただの仮面なんだ。
 そして、その仮面の下にあるのは、わがままで自分本位なサルなんじゃないか……ってね」
「本当の自分を見られても、誰だって持っている事なんだから、気にしないで良い……と言いたいですか?」
「ま、そんなところです」
「本当の私、ですか。……ありがとうございます。少しだけ、気が楽になりました」
 ミーナさんはそう言うと、首を小さく縦に振った。
 どうやら、これで一件落着といったところのようだ。
 呼応するように頷いたところで……不意に前方から強い衝撃を受け、同時に俺の視界は全てミーナさんに覆われた。
 
 
「んぐ、むぐう、ううっ!?」
「……んむ、っ……ぷは、あ……」
「あ、あ、あ、あの、ミーナさん……!?」
 
 口内を掻きまわされる事、十数秒。
 強い窒息感と恍惚感に溺れ、頭がくらくらし始めたところで、ようやく解放されはしたが、ミーナさんはまだ俺に圧し掛かっている。
 いや、え、えっと……はい?
 弾道が……うなじの時の比じゃないんですが……?
 ただひたすらに狼狽するだけで、俺が何も言えないでいると、
 彼女は、まるで仕事中のように燃える瞳を浮かべ、俺にこう言ってみせた。
 
 
 
「うなじにしゃぶりついたのも、サルって事になりますよね。
 だったら、私も今日はサルになる権利があります」
「あ……あの……それは、えっと……?」
「嫌だったら、ちゃんと拒絶してくださいね?」
 
 
 
 
 
 かくして俺は『若さゆえの劣情』に身をまかせた。