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大学に入っても、アルバイトはしなかった。
させてもらえなかった、と言う方が正しいだろう。
白木恵理の両親は、とにかく恵理を手元に置きたがっていた。
別に、それを不満に思っているわけではない。間違いなく愛情である、と恵理は思っている。
――恵理は、両親が四十歳を過ぎてから始めて授かった子だった。
両親の溺愛っぷりはすさまじく、叩かれたり怒鳴られた事は一度もない。
欲しい物だって何でも買ってもらえたけれども、良い事ばかりというわけにはいかかった。
中学と高校は『変な虫が寄り付かないように』と、お嬢様学校に通わされたし、大学だって実家から通わされているのだ。
その代わり、大学生活に必要なお金は、学費から小遣いまで両親が用意してくれているのだから、文句は言えないだろう。
優しい両親と、女の子ばかりの学友達に囲まれ、恵理はお花畑のような環境で二十一年間を過ごしてきた。
「恵理ってお嬢様というよりは、お子様よねえ」
大学の友人である女子が、口の端を上げてそう告げながら、ジョッキ二杯目のビールをあおる。
騒がしい居酒屋の中でも、彼女の言葉はハッキリと耳に届き、恵理は不満そうに頬を膨らませた。
「むぅー、そんな事ないと思うけどなあ」
「そんな事あるって。ほら、そうやってムキになるところ」
「だってえ」
そう言われれば、頬は引っ込めざるを得ない。
その代わりに周囲を見たが、カウンター席で一緒に飲んでいる他の男女四名は、自分達の会話に夢中で、助け船を出してくれそうになかった。
「う、うう……お子様じゃないのに……」
「それだけじゃないわよ。恵理、お酒だって飲まないんでしょ? 飲めないんじゃなくて」
「うん。……酔っぱらったらなんだか怖そうだし」
「お酒くらい、高校生でも普通に飲むわよ。恵理、そんな怖がりじゃ男と付き合った事もないんでしょ」
「な、ないよ。全然ない! だから今日も本当は……」
「本当は来たくなかった、とでも言うつもりでしょ。でも駄目。
無理矢理引っ張られたとはいえ、コンパに来たからには、恵理も盛り上がんなきゃ」
彼女はそう告げ、高々と手を挙げる。
他の四名……コンパの参加者達が、挙がった手に注目すると、彼女はそれを待っていたかのように大きな声を出した。
「この子は、男遊びなんか全然した事のない生娘でーす!
多分、すっごいマゾだと思うから、男子諸君は存分に可愛がってあげて下さーい!」
「ち、ちょちょ、ちょっとぉ!」
慌てて手を引きずり降ろそうとするが、もう遅い。
参加者達の中に小さな笑いが起こり、男子の一人が、グラスを片手に隣の席へ引っ越してきた。
「へえ、恵理ちゃん、彼氏いた事ないんだ」
「あ、は、はい……」
真っ赤になって俯きながら、首を小さく縦に振る。
……コンパなんか来るんじゃなかった。
二十一歳になったのだし、少しは世間を知っておこうと、思い切って夜遊び好きの友人に相談したのがマズかったのだ。
だが、今更後悔しても、もう遅い。
気が付けば、男子と入れ替わるようにして友人が席を離れ、恵理は一対一での会話を強いられていた。
「じゃあさ、この後、俺と二人で二次会行かない?」
「い、いえ、そういうのは……」
「いいじゃんか。そのつもりで来たんじゃないの?」
「ち、違います!」
「まぁたまた。な? いいだろ。……近くにあるんだよ、ホテル」
男子が、カウンター椅子を大きく後ろにそらし、馴れ馴れしく肩に手を掛けてくる。
びくり、と肩が震えたが、他に抵抗らしい抵抗はできなかった。
違う。
全然違う。
大人の世界に興味はあるけれど、こんな事をしに来たんじゃない。
誰か、助けて……、
「邪魔だ、オラッ!!」
怒声は、突然に聞こえてきた。
それと同時に、肩に掛かっていた手の感触が吹き飛ばされてしまう。
気が付けば、自分を抱いていた男子は床に転がっていて、傍には同年代と思われる釣り目の男が立っていた。
「ってえ……な、何するんだよ!」
「邪魔だから殴り飛ばしたんだよ。通り道塞いでんじゃねえよ!」
「だ、だからって暴力をふるう事はないだろ……!?」
男子は涙声で叫ぶように主張した。
流石にその声は店員の耳にも届いたようで、遠くから「どうなさいましたか」なんて声が聞こえてくる。
だが、店員が来るよりも先に、釣り目の男の傍にいた別の男が、釣り目の男の袖を引っ張った。
「何やってんだよ馬鹿、暴力はマズいって!」
「ああん? 大丈夫だって。どーせ俺の顔なんか誰も知らないし」
「警察沙汰になったらバレる事だろ!? に、逃げるぞ!」
傍の男はそう言うと、釣り目の男を強引に引っ張って、通路の奥へと姿を消してしまう。
目まぐるしい出来事に、恵理は何も口を挟めず、そのやり取りを見ている事しかできなかった。
考えてみれば、暴力なんて初めて見たかもしれない。
……だというのに、何故だろうか。
恵理の体の震えは収まり、代わりに胸が激しく鼓動していた。
マゾヒストの衝動
暴力が良い事だとは、微塵も思っていない。
それでも、恵理が先日の居酒屋を一人で訪れたのは、礼を述べる為だった。
彼に助けられたのは事実だし、その様な時は礼を言うものだと教育されている。
加えて、ほんの小さな好奇心が芽生えていたのも、否定はできなかった。
とはいえ彼の名前は知らないし、知っていたところで、居酒屋で再会できるとも限らない。
そもそも、彼の顔を見たのも短い間の事で、はっきりと覚えてはいないのだ。
あまり期待を持たずに、夜の居酒屋の入口を潜ると、喧騒と煌びやかな照明に包まれる。
店員が来る前に中を一瞥すると……恵理の視線は、その途中でピタリと止まった。
(いた……)
先日、自分達が座っていたカウンター席に、あの釣り目の男がいる。
いざ目の当たりにすると、記憶が鮮明に甦る。彼で間違いないはずだ。
隣の席には、同伴者と思われる大柄な男がいる。こちらは、先日の同伴者かどうかよく分からない。
そこまで確認したところで、店員がやってきて席へと誘導される。幸運にも、釣り目の男の隣であったが、彼は恵理に一瞥もくれない。
恵理は適当にソフトドリンクを頼み、早速釣り目の男に声を掛けようとしたが……それを制するかのように、彼が先に口を開いた。
「だから、俺もできる限りの事はやってるんすよ、古沢さん」
会話の対象は、同席の男だった。
口調は不満げでで、先日の一件を反射的に思い出してしまう。
しかし、今回は相手に殴りかかるような事はなく、古沢と呼ばれた相手も、優しく彼の背中を叩いていた。
「分かった分かった。お前はよくやってるよ」
「んじゃあ、なんで俺は一軍に呼ばれないんすか!」
そう声を張りあげながら、手元のジョッキをあおる。
微妙にろれつが回っていない。大分飲んでいるのかもしれない。
「他の奴が、それ以上の才能と努力の持ち主だからだよ。俺もエレベーター選手だし、偉そうな事は言えないけどな」
「……つまり、俺はこのまま解雇を待つ身って事っすかね」
「お前みたく、まだ二十二歳なのに酒に溺れているようじゃ、厳しいだろうな」
「……俺、これでも昔はやる気あったんすよ?」
「そうだったな。随分ガッツがある奴が入団したな、と思ったものだよ」
「でも、プロに入ってから、レベルの違いを思い知らされて……もう酒に逃げるしかないんすよ」
「モグラーズとはいえ、一軍のレベルはもっと高いぜ。ま、今日のところは酒飲んで、明日から気合入れ直せよ」
「はぁー……入れ直したところでねえ……」
次々と、情報の波が押し寄せてくる。
彼の名は主人。始めて聞く珍しい苗字だった。
次に、モグラーズというと……多分、プロ野球チームの事だろうから、彼はプロ野球選手なのだろう。
話しぶりからすると、万年二軍選手のようだが、それでも驚くべき職業だった。
お酒は、かなり飲むらしい。年齢は一つ上の二十二歳。古沢という人の良さそうな先輩がいる。
そして……意外と頼りない一面がある人だ。
何故だろうか、その一面を可愛いと思ってしまう。
母性をくすぐられるとは、こういう事なんだろうか。
暴力的な行動と併せて、褒められたものではないのは分かっているが。
……いや。
その前に。
(……私、お礼を言いに来ただけなのに、なんでこんなに興味持ってるんだろう)
心中に浮かび上がった問いに、答えは出せなかった。
◇
結局、恵理は主人に声を掛けずに店を出た。
二人の会話は時折とぎれたし、声を掛けるタイミングが無かったわけではない。
自分の目的が、よく分からなくなっていたのだ。
今、主人に声を掛けるのは、自分にとって良くないような気がしたのだ。
食事も居酒屋で済ませるつもりだったのに、二人よりも早く退散しただから、外に出るのと同時に空腹感に襲われてしまう。
近くのラーメン屋で食事を済ませて駅に向かうと、食事の時間が仇になったようで、自宅方面への電車は出た直後だった。
「三十分待ちかあ……」
独り言を漏らしながら、ホームのベンチに腰掛け、ぼんやりと反対側のホームを眺める。
どれほどの間、そうしていただろうか。
恵理は不意に立ち上がり、速足で連結路に繋がる階段を上り始めた。
どうして、立ち上がったんだろう。
今は、声を掛けない方が良い気がするのに。
何故、湧き上がる衝動を抑えきれないのだろう。
答えを出せぬまま……恵理は、反対側ホームのベンチに座っていた、主人の前に辿り着いた。
「……あん?」
「こ……ここ、こんばんは」
完全に『出来上がっている』主人が、睨むように見上げてくるものだから、声が震えてしまう。
前髪で目が隠れるくらいに俯きつつ、それでも恵理は、小さく口を動かした。
「あの……お、お話、いいですか?」
「誰だよお前は」
「し、白木恵理と言います。……前に、居酒屋さんで男の人に絡まれているところを、助けて頂きました」
「はぁ?」
主人は口元を歪めながら、恫喝するような声を出した。
だが、すぐに何か考え込むような顔付きになり、まじまじと恵理の顔を覗き込んでくる。
「……あー。ガキが通路を塞いでいた、あれか?」
「は、はい。……あの時は、ありがとうございました」
「別にいいよ。お前なんか知らないし」
「え……?」
「あいつがムカついたから殴っただけだ。誰かに絡んでいたなんで知らなかったんだよ」
主人は吐き捨てるように言った。謙遜しているわけではないようだった。
「それでも……私は助かりました。だから……」
「いいって言ってるだろ。……あいつ、突然絡んできたのか?」
「いえ、コンパの相手で……でも、強引で、困ってて……」
「あんた、ウブっぽいから、ああいうのに目を付けられるんだろうな。ま、次から気を付けるこった」
「……はい」
返事をしつつ頷いてから、主人の隣に腰掛ける。
すると、すぐに彼の怪訝そうな視線が飛んできた。
言いたい事は分かっている。礼は済んだはずなのだ。
なのに、また衝動を抑えきれずに、隣に座ってしまった。
「……恵理、とか言ったな」
「はい」
膝の上で、両手を強く握りしめながら答える。
周囲に他の客はおらず、彼の声はひときわハッキリと聞こえた。
クラクラしそうなアルコールの香りも、風に乗って届いた。
「主人公だ」
「はい。……主人さん、お酒、結構飲むんですね」
「匂うか?」
「……結構」
「飲むっつっても人並みだよ。恵理は今年でいくつになる?」
「二十一歳、です」
「飲める歳じゃないか。恵理は飲まないのか?」
「分かりません。一度も飲んだ事、なくて」
「お子様かよ」
主人が、つまらなそうに吐き捨てる。
また、アルコールの香りが鼻孔に届いて、自分も飲んでみたい衝動に襲われた。
お子様との評価が気に入らないわけじゃない。
単純に、猛烈な好奇心が沸き上がったのだ。
「……ま、興味がないなら、興味がないままでいいな。俺みたく、酒に溺れちまう可能性がある」
「お、溺れてるんですか……」
その予感はしていたが、本人の口から聞くとは思わず、本当に意外そうな声が出た。
「ああ、ズブズブだよ」
「そんなに……」
「やらなきゃいけない事があるのに、酒に逃げてばっかりのクズだ」
「……仮にお酒に逃げているとしても、主人さん、いい人です」
「いい人? 俺が?」
主人は、裏返ったような声を出した。
それから、ぐっと顔を寄せてくる。
衝動的に動けば、唇だって重なってしまいそうな距離。
彼は、その唇を動かして何かを言いかけたが、途中で動きを止め、皮肉っぽい笑みを浮かべてみせた。
「あ、あの……何か……?」
「……とにかく、酒は止めておけよ。道を踏み外すぜ」
……一体、どんな言葉を飲み込んだのかは分からない。
ただ、やっぱり、彼は良い人だ。
◇
ホームのアナウンスが、間もなく電車が来る事を告げると、主人はのっそりと立ち上がった。
「じゃあ、俺はこれでな」
「あ……ほ、本当にありがとうございました」
「いいって言ってるだろ。おやすみ」
「おやすみ、なさい……」
そう言いながら小さく頷く。
……同時に、また強い衝動が沸き起こった。
彼との用事は、全部済んでいる。
だが、それとは関係なく今の気持ちを吐露したい。
気が付けば、恵理は主人の服の裾を掴んでいた。
「……あん?」
「あの……」
主人の不機嫌そうな声が、これ以上荒くならないうちに立ち上がり、彼を見つめる。
恵理は、少しだけ大きく、口を開いた。
「今日、お話しできて、良かったです」
「そんな楽しい話したかよ」
「それは……してません。でも、そういう事じゃないんです」
「………」
「最初に主人さんを見た時、凄く怖そうだと思ったんです。
でも、怖いだけじゃないなって分かって……。
いろんな面がある人なんだなって分かったら、なんだか、落ち着いたというか、すっきりしたと」
「恵理」
名を呼ばれて、それ以上の発言を遮られる。
彼は、言葉の通じない動物か何かでも見るような目付きをしていた。
「俺は、殴るぜ?」
「それは、見ました……」
「違う。あの時の事じゃない。
……俺は、気に入らない相手だったら女だろうと殴るぜ?」
雷に打たれたような衝撃が、全身に走った。
唖然としている自分に構わず、彼はくるりと背を向ける。
気が付けば、電車は到着済みで、扉が開いたところだった。
「……お嬢ちゃんよりも、俺は大人の女の方が好みだな。
大人の女とまでいかずとも、キャバ嬢なんかの方がまだマシだ」
それだけ告げると、彼は電車の中へと消えていった。
扉はすぐに閉まり、電車は轟音を立ててホームを経つ。
恵理は、一言も発する事ができずに電車を見送ったが、やがて下半身の力が抜け、その場にへたり込んでしまった。
「なに……なに、これ……」
足のみならず、声まで震えてしまう。
顔が完全に紅潮してしまう。
心臓は、これまでに経験した事の無い猛烈な鼓動を見せていた。
あの人は、自分が知らない世界で生きている。
これ以上深入りするのは危険だと、本能がはっきり告げている。
少女漫画の主人公が、不良漫画の中に行くようなものだ。
……だというのに、そうしたくてたまらない。
だって、仕方がない。
悪い事は、ドキドキするものだ。
その結果、酷い目に遭ったとしても、それで良いじゃないか。
友人曰く、自分はマゾなのだから。
「……好きなんだ。私……」
その言葉を、ようやく紡ぎだす。
彼への衝動は、きっと抑えきれそうにない。
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