それは、弾むような足取りだった。
 
 日の出神社へと続く石段は二百段ある。
 傾斜は緩やかだが横幅が長いので、駆け上がったりしようものなら、人によっては終盤で息切れしてしまうだろう。
 だから天本冷泉も、この石段を走る事はほとんどなかった。
 これまでの人生で何千回と登ってきたが、走るのは急用がある時か、或いは天真爛漫だった幼き時期だけだ。
 だというのに、最近はちょくちょく走る。
 それも弾むような足取りで、休憩を挟まず一気に登りきるのだ。
 
「百九十九……二百……っと」
 段数を数える天本の声が、白い息と共に口から漏れる。
 もう陽は完全に暮れているのだが、吐息は、はっきりと見て取る事ができた。
 
 今日は、百五十段目辺りから走り出したが、それだけで体は十分過ぎるほどに暖まったようだ。
 通学用のコートも、やや暑く感じられる。
 ボタンに手を掛けつつ、神社横の自宅へと向かう天本の表情は、大いに緩んでいた。
 
 
「主人さんったら、買い食いだなんて、よっぽど部活でお腹が空いたんでしょうね。
 ……明日は、帰路用のクッキーでも用意してみようかしら」
 
 数十分前まで一緒だった恋人、主人公の事を思いながら、なおも独り言を呟く。
 自分らしくないとは思うけれど、自然と出てしまう感情表現なのだから、仕方がないのだ。
 
 
 
 
 ――主人公と付き合い始めたのが、十一月の上旬だから、もう一ヶ月が過ぎた事になる。
 
 彼は昨年から自分を遊びに誘ってくれていた。
 時には島を出て、本土で野球観戦した事だってある。
 ホームランボールが直撃しそうになったところを、彼が護ってくれた上に、ボールをプレゼントしてくれたのだ。
 
 そういうと、随分仲睦まじく遊んでいるようにも感じられるが、
 頻度自体はそう大した事がない。せいぜい、二月に一度といったところだろうか。
 今の彼にとって一番大切なのは、呪いを解く為の野球なのだから仕方がないが、悪くはない。
 ゆったりとしたペースで二人の関係が変わっていくのは、どこか心地良かったのだ。
 
 彼に会う度に、人柄の良さと優しさが少しずつ見えてくる。
 一方の彼が、自分のどこを気に入ってくれたのかは、皆目見当が付かないのだが……
 しかし一月前、彼が告白をしてくれて、今に至るわけだ。
 
 
 
 小さい島、小さい学校では、交際を隠すなんて到底できる事ではない。
 クラスの皆に知られた時には大いに驚かれたが、その際、主人よりも自分に対して、驚きの目を向ける者が多かった。
 
『あの天本玲泉が転校生と付き合うなんて』
 
 そんな意を、多分に含んでいたのだろう。
 これまで男性とは無縁の日々を送ってきたのだから、そう見られるのも無理もない。
 交際の理由を、天本は誰にも教えなかった。
 
 彼の人間性に惹かれたのが、主だった理由ではある。
 だがそれだけではない。
 天本の心は、暖かさを渇望しているのだ。
 渇望の理由は、だれにも分からないだろう。
 
 
 
 
「おや、今帰ったのかい?」
 しゃがれた声が、神社側から聞こえてきた。
 玄関を前にして、声のした方に目を向ける。
 夜闇の中では視認しづらかったが、よく見れば祖母のセツが近づいていた。
 
「お、お婆様。ただいま帰りました……」
「ん。分かっておる」
 唸るような返事が返ってくる。
 とはいえ、それはいつもの事。どうやら陽気な帰宅を見られてはいなかったようで、内心胸を撫でおろす。
 だが、セツの話はそれでは終わらなかった。
 
 
 
「こんな時間になるなんて……お前、またあの男と帰っておったな?」
「あ……そ、そうです」
「ちょっと、忠告があるのだがね」
 セツが、砂利を踏み鳴らしながら近づいてくる。
 暗闇の中で見る祖母は、見慣れた家族とはいえ、狂人のような迫力があった。
 いや、実際……狂人そのものなのだ。
 そしてその点は自分も……
 
 
「冷泉や」
「はい……」
「お前、あの男と別れるんじゃ」
 
 非情の言葉が、セツの口から漏れた。
 天本は一瞬言葉を失ってしまう。
 だがすぐに、彼女の方からセツに向かって、一歩強く詰め寄る。
 
 
 
「ど、どうしてですか、お婆様! 私が誰と付き合おうと……」
「あの男は甲子園に行かねばならぬ。色恋にうつつを抜かしておる暇等ない。
 だというのに、呪い騒動に加担しておるお前が、練習の邪魔をするとは何事じゃ!」
「それとこれとは話が別です!」
「消えるぞ」
「あっ……」
 淡々と告げられた一言に、天本の勢いが削がれる。
 
「お前も知っておろうに。あの男、甲子園に行かねば呪いで消えるぞ。
 お前が好いておるなら、身を引くべきじゃ」
「それ……は……」
 
 
 セツの睨みつけるような目つきから逃れるように、視線を泳がせてしまう。
 火照った身体が急激に冷えていくのが自覚できた。
 別れなくては、いけないんだろうか。
 
 小さな島の平凡な野球部が甲子園に行くなんて、素人の自分にでも難しい話だと分かる。
 だが、それを成さなくては、彼は呪いによって消滅してしまうのだ。
 確かに、今は野球に集中するべき時期。
 もちろん、多少の息抜きは必要だが、自分との交際はその範疇には収まらないだろう。
 だから別れろと言われている。
 
 いや、待て。
 なら、その範疇に収めれば……。
 
 
 
「……お婆様の言われる事にも、一理あります」
「うむ」
「ですので、別れるとまでは行かず、練習の邪魔にならない範囲で」
「それは、お前の為にならん」
「私の……?」
 予想外の言葉を受けて、思わず首を傾げる。
 一方のセツは、憐れむような目付きで自分を見上げてきたが、それを隠すかのように深く頷いた。
 
「左様。……お前、高校を卒業したら、どうする?」
「どうって……はっきりとは決めていませんが、お婆様と神社を盛り立てようかと」
「この婆はもう長くない。お前一人になったら、どうするつもりなのかと聞いておる。
 ……いや、言わんでもええ。やりたい事があるんじゃろう」
「……お婆様」
 
 凍り付いた表情で、玲泉は立ち尽くした。
 何も、言葉が捻り出せない。
 やはり家族というべきだろうか。笑顔の仮面で心中を隠してきたつもりでも、祖母にはお見通しなのだ。
 
 自分の、やりたい事が。
 復習という願望が。
 自分と母を捨てた父への、隠しきれない憎悪が。
 
 
 
 
「……その時、男がいれば辛いぞ」
「それ、は……」
「住む世界が違うのじゃ。……別れよ、玲泉」
「………」
 
「お前は、独りなのじゃ」
 
 
 
 冷たい冬の風が、コートの上から突き刺すように吹き付ける。 
 暖められた心は、急激に冷えていった。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
  
嘘つき玲泉の決断
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
「……別れましょう。主人さん」
 
 冷静に、そう告げる事ができた。
 少しでも気を抜けば、言葉尻が震えてしまうだろう。
 それでも天本は、かろうじてその言葉を絞りだした。
 
 
「……あ、天本、さん?」
「……今日で、お別れにしましょう」
 唖然とする主人に対し、もう一度告げる。
 面食らった主人は、目を瞬かせるだけで、それ以上は何も言わない。
 無理もないだろう。何の前触れもなく別れを切り出した上、下校直後の不意打ちなのだから。
 だが、時間を置けば置くほど辛くなるはずなのだ。
 
 
 セツの勧告を受けた翌日……つまり、丸一日経たぬうちに、天本は別れ話を持ち掛けていた。
 まさか主人も、こんな時に別れ話を切り出されるとは、夢にも思わなかったのだろう。
 二の句を継げず、ただ唖然と立ち尽くしている。
 分かってはいたが、この一言で終わる関係ではない。
 天本は、微かに奥歯を噛みしめながら頭を振った。
 
 
 
「理由、分かりますよね?」
「わ……分かるわけないよ! 突然何を言い出すのさ!」
「野球、ですよ」
 用意していた言い訳を、淡々と口にした。
 唖然が一転、叫ぶような声で抗議しかけた主人が、また口を閉じる。
 
「主人さんは、今とても大切な時期です。人生の中で最も野球に専念すべき時期です。
 来年の最後の夏に甲子園に行かないと、神隠しに遭い、貴方という人が消滅してしまうのですよ?」
「………」
「一分一秒の猶予もありません。全てを野球に打ち込むべきだと思います」
 
 なおも、事務的に告げる。
 それを受けた主人は、何度も目を瞬かせながら、じっと自分を見つめていた。
 
 周囲には、通行人も他の下校生徒もおらず、ただ寒風が吹きすさぶ音だけがする。
 風が、身体のみならず心にまで突き刺さっている気がした。
 今すぐにでも逃げ出したくなるような、沈黙の時。
 でも、それは許されない。
 主人を裏切るというのだから、相応の態度で臨まなくてはならない。
 
 
 
「……俺の為を想ってくれているのは、分かったよ」
 ぼそりと。
 消えてしまいそうな声で主人が呟く。
 胸がきりきりと締め付けられる。
 
「……分かって頂けましたか。それでは」
「でも、別れる必要はないよ」
「それは……」
「甲子園優勝を決めるまで、デートを控えるだけで十分だよ。
 俺はそれだけでも満足できるし、ちゃんと野球に打ち込める」
「……主人、さん……」
 昨日の自分と同じ反論が、主人の口から漏れた。
 思わず顔を伏せかけてしまうが、辛うじて視界の隅に彼を残す。
 
 自分で言ったのだから、分かっている。
 これが来る事は、分かっている。
 昨晩、布団に入った後で、どう反論したものかずっと考えていた。
 祖母にしか見抜かれていない本心を、告げるわけにもいかない。
 では、どうしたものだろうか。
 やがて、まどろみと共に渡来した答えは……まず確実に、彼を納得させられるものだった。
 それだけではない。
 復縁の可能性を残さずに、彼との関係を完全に断つであろう、非情の一言でもあった。
 
 
 
 
「……本当の事、お知りになりたい?」
 顔を上げ、主人をはっきりと見据えながら言う。
 
 心の中で、仮面を被りなおした。
 大丈夫、言える。
 これさえ言えば、終わるのだ。
 
 
 
 
「私、実は野球が嫌いなんですよ」
「う、嘘……」
「本当です。ずっと付き合いで観ていましたけれど……大っ嫌い。眠たくなりますし、応援だってうるさすぎます。
 もちろん、恋人の趣味程度でしたら、関わらないようにすれば良いだけ。許容はできますよ?
 ……でも、主人さんの場合、そうはいきません」
「どういう事だよ、それは!」
「貴方にとって、野球はもう人生なのでしょう?
 呪いとは関係なく、甲子園を目指し、そしてプロ野球選手になる……それが貴方の夢なのでしょう?
 であれば……共に歩けないと思うのですよ」
「あ……」
 
 主人が、絶句する。
 天本の方も、これが限界だった。
 これ以上語ればボロが出る。
 
 天本は踵を返し、一人歩きだした。
 暫くしても、背後から主人が駆け寄る気配も声もない。
 
 まだ唖然としているのか。
 それとも納得したのか。
 或いは怒ったのかもしれない。
 
 決して振り返れないのだから、答えが分からない。
 天本は、最後まで涙を流さなかった。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 ◇
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 気が付いたら、商店街を歩いていた。
 何も考える事ができず、足の赴くままに行きついた通りでは、もう大半の店がシャッターを下ろしている。
 別に用事はないから構わないけれど、静かになった商店街にいつまでもいると、気が変になりそうだった。
 はぁ、と深く嘆息を零し、日の出神社側に伸びている道へと進む。
 ……呼び止められたのは、ちょうどその時だった。
 
 
「ちょっと、待たんかね」
 聞き覚えのあるしゃがれた声。
 首だけを向けると、駄菓子屋の軒先に立つうめ婆さんがいた。
 視線を店内にスライドさせれば、外に置いていたはずのガチャガチャがある。ちょうど店じまいの最中だったようだ。
 
「うめさん。こんばんは」
 いつも通り、アルカイックスマイルを携えて頭を下げる。
 うめりんと呼ぶように言われてはいるが、そんな気にはならなかった。
「ああ、こんばんは。今、帰りかね?」
「はい。……少々用事があって、遅くなりまして」
「そうかね。ちょっと、あたしの所に寄って行かんかね?」
「え……?」
「お前さん、他の子よりもあまり立ち寄ってくれんじゃろう? あたしも寂しいんじゃよ」
「あ、いえ、それは……」
「ま、それは冗談じゃ。ちょっと余り物があるだけじゃよ」
 うめは、にかっ、と歯を見せて笑ってみせてから、店内に入った。
 本当に後を追ったものか躊躇してしまうが、うめは殆ど間を置かずに出てくる。
 手には、棒状の袋菓子が握られていた。
 
 
 
「ちょうど、明日で賞味期限が切れるんじゃ。
 捨てるのも勿体ないし、食べていかんかね?」
「……そうですか。では、遠慮なく」
 あまり駄菓子という気分ではないが、むしろ、そんな気分を切り替えるにはちょうど良いかもしれない。
 笑顔は崩さず一礼して受け取る。
 店の前で固定されているベンチに鞄を置き、腰掛けて袋を破ろうとすると、ちょっとした事に気が付いた。
 
 
「……この袋……野球のイラスト?」
「ああ。バットを模したチョコレート菓子じゃの。見た事ないのかね?」
「あ……はい。無かったかもしれません」
 苦笑しながら、袋を破る。
 中身はチョコレートがコーティングされたスナック菓子だった。
 うめが「袋の中を見ろ」というので見てみると、うっすらと「アウト」の文字が書かれている。
 この結果次第で、景品が貰えるらしい。
 
 
「……アウト。つまり、はずれって事ですね」
「そうなるの。……そういえば、この前、山田の倅がとんでもない屁理屈を言いおった」
「なんでしょうか?」
「この菓子は、ホームランなら一つ、ヒットなら四つ集めれば景品一つ貰えるんじゃが、
 山田の倅ときたら、ホームランとヒット三つをメーカーに送ったらしい。
 当然、届いた景品はホームラン一つ分なんじゃが、その事であたしに愚痴を言いに来たんじゃ」
「ヒット三つとホームランで四点だから、景品は四つ届くべきだ、とか?」
「そうそう! まったく、阿呆としか言いようがない。……しかし、野球に詳しいのう」
「あ……」
 感心したようなうめの言葉を受け、思わず声が漏れる。
 それを隠すかのように、眼前のチョコバットにかぶりつき、飲み込んでしまってから首を横に振った。
 
「……別に、これくらい誰でも知っていますよ」
「まあ、そういう事にしておこうか」
 うめはそう告げると、天本の隣にゆったりと腰掛けた。
 ふん、と鼻息が漏れたのが聞こえる。
 老婆は、こちらに視線を向ける事なく話を続けた。
 
 
 
「ジジババってもんはな。お前さん達が思っているよりも、ちょっとだけ賢いんじゃよ。隠し事なんか、すぐに分かってしまう」
「……そうなのですか」
「いや。お前さんが今、何を考えているのか分かるというわけではないぞ。
 じゃがの。……お前さんが、いつも本心を隠すようになったのは、よく分かっておるんじゃよ」
「……っ!」
 仮面の表情が、崩れる。
 そこを指摘されたのは、初めてだった。
 
「……あたしだけじゃない。お前の母に起こった悲劇を知っておるジジババ達は、お前が自分を偽っているのだと知っておる。
 知っていて……何も言えんのじゃ」
「………」
「あの時、力になってやれなかった罪悪感と、これからも力にはなれん無力さ。
 これらがが邪魔をしておるんじゃよ。……ふん、とんだ役立たずよなあ」
「違います。かくしてなんか……」
「本当は、こんな事言うつもりはなかった。じゃがな」
 天本の否定を無視して、うめはなおも語る。
「今のお前さんを見ていると、何故か、糸の切れた凧のような気がしての。放っておけなかったんじゃよ」
 
 静かに、言葉が紡がれる。
 それが、恐ろしく感じられた。
 かけられた言葉は、多分、好意なのだろう。
 恐れるようなものではないはずだ。
 
 しかし。
 
 父の姿がフラッシュバックする。
 天本は反射的に立ち上がっていた。
 
 
「おい……?」
「私、帰ります!」
「待つんじゃ、おい!!」
 うめが、声を張りあげて呼び止める。
 だが、逆にそれに背中を押されたかの如く、天本は思いきり駆けだした。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 ◇
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 一体、どれだけの距離を走っただろうか。
 商店街はとうに抜け、段々と照明が少なくなる中、村の郊外へと辿り着く。
 目の前に広がる林を抜けると、日の出神社の麓に出るのだが、さすがにそこまでは走れない。
 
 林の手前でようやく立ち止まり、膝に両手をついて荒い息を必死に整える。
 白い吐息が、浮かんでは消え、浮かんでは消え。
 昨日、石段を駆け上がった時以上に、全身が熱い。
 
 
「……はあ……」
 また、重い吐息が漏れる。
 今度は、換気の息ではなく、純然たる嘆息であった。
 
 まさか、うめ婆さんに、あそこまで心中を見抜かれているとは思わなかった。
 気まずすぎて、当分は顔を合わせられないだろう。
 それにしても、一体どこまで本心を見透かされていたのだろうか。
 父に対する思いまで知られてしまっては問題だが、少し考えて、それはないと判断した。
 
 彼女は、自分の事を「糸の切れた凧のような気がする」と言った。
 気がする、だけだ。
 何かしら心の機敏を悟ってはいるのだろうが、答えには至っていないはずだ。
 それもそうだろう。
 分かっていれば、間違いなく忠告を受けるはずなのだから。
 
 
 
 
 
「一安心、ですね……」
 そう自分に言い聞かせて、上半身を起こす。
 大丈夫。バレていない。
 誰にも知られずに、この先を行ける。
 
「………」
 
 そう。
 独りで行くのだ。
 祖母の言う通り、この先は独りなのだ。
 
 不意に、猛烈な寒気を感じて身震いする。
 身体は、熱い。
 だがその熱気等、すぐにでも消沈させそうな程に、心が寒い。
 冬風が、直接心に突き刺さっているような気さえした。
 気だるげに前を見れば、暗い林が広がっている。
 まるで、心中に巣くう虚無感のようだ。
 
 
 
 
「私は……これから……」
 
 声までもが、震えてしまう。
 涙が頬を伝った。
 それを拭う事もできない程に、身体が重い。
 
 いやだ。
 
 独りはいやだ。
 
 会いたい。あの人に……あの人に……。
 
 
 
 
 
 
「天本さんっ!!」
 
 ――名を呼ばれた。
 幽霊のように虚ろな表情で振り返る。
 動悸。
 強く胸が動悸する。
 自分に向かって真っすぐに駆け寄る主人公が、そこにはいた。
 
 
「主人、さん……?」
「良かった……追いついた……」
 四、五歩先まで寄った彼は、立て続けに小さく息を吐いて呼吸を整える。
 それだけで会話できるようになったのか、彼はやがて、更に一歩近づきながら口を開いた。
 
 
 
「うめ婆さんの店で、鞄、忘れていったでしょ?」
「………」
 言われて、手に一切の荷重がない事に気が付く。
 同時に、それが彼の手に握られているのが分かった。
 彼はなおも近づきながら……しかし、鞄は突き出さず、コートのポケットに手を入れた。
 
「天本さんが立ち去った時に、鞄が開いて、中が全部出ちゃったらしいんだよ。
 帰り道に、うめ婆さんから渡すように頼まれて……。
 一つ一つ、鞄の中に戻している最中に、気が付いちゃったんだ。
 ……別に、覗き見つもりはなかったんだけどさ。これ……」
 
 ポケットから出た手が、突き出される。
 彼の手に握られていたのは、殆ど新品同然の野球ボールだった。
 
 
 
「あ、っ……」
「これ……夏に野球観戦デートした時のホームランボール……だよね。
 ずっと、鞄の中に入れて持ち歩いてたんだね。天本さん……」
「ち、違……それは……!!」
 
 口を震わせながら、彼の発言を否定しようとする。
 だというのに、それ以上の言葉が出てこなかった。
 彼の、言う通りなのだ。
 お守り代わりに、大事に持ち歩いている物だ。
 彼が、自分の前に躍り出て、護るように捕球してくれた、想い出のホームランボールなのだ。
 
 
 
 
「野球……好きとまではいわなくてもさ。嫌いってのは、嘘だよね」
 苦笑気味で主人が言う。
「あ……うあ……」
「別れたいってのも……嘘、なんだよね?」
「う、あ、う……ああ……」
 
 涙が、ぽろぽろと零れ落ちた。
 嘘だと、バレてしまった。
 ならば。
 ならば、彼とやり直せるのだろうか。
 
「違い、ますっ!!」
「………」
「えぐっ……ひっく……嘘、なんかじゃ……!!」
 
 だが、否定する。
 涙ながらに、首を横に振る。
 やり直せるはずがない。
 彼を騙して、深く傷つけてしまった事に変わりはないのだ。

 やり直す資格なんて、自分にはない。
 それに、根本的な問題は解決していない。
 彼がなんと言おうと、同じ道は歩けない……
 
 
 
 
 
「……よく分からないよ、俺には」
 主人が言う。
 彼は、意図するところの分からない笑みを携えていた。
 
「天本さんには、何か事情があるんだと思う。それがどんなものなのか……俺には分からない」
「じゃあ……ひっく……私の事なんかほっといて……」
「嫌だよ。どんな事情があろうと……」
「だめ……主人さん、だめ……」
「俺は、ずっと天本さんの傍にいるよ」
「……主人さんっ!!」
 
 気が付けば天本は、主人の胸元に飛び込んでいた。
 わんわんと、小さな子供のように泣きじゃくる。
 厚く大きな彼の手が、後頭部にそっと宛がわれた。
 濁流のような感情が押し寄せて、とても言葉を発する事ができない。
 それが落ち着くまで、ずっと彼の胸元に顔をうずめていた天本は、やがて首だけを動かして主人を上目遣いに見た。
 
 
 
 
「ごめん、なさい……ごめんなさい、主人さん……」
「謝らないでよ。辛かったんでしょ? 天本さんも」
「……辛く、ありませんもん」
 
 また、嘘をつく。
 嘘つき玲泉は、再び主人の胸元に顔を埋めた。