|
|
|
|
自転車に、乗りたいのだ。
主人公の自宅は島のはずれに位置していて、日の出高校生徒の中でも遠距離通学している方になる。
自転車通学圏内なのだが、転校してきた当時は自転車が無かったのと、
通学距離が長いのも「それはそれで良い運動になる」という判断のもと、主人は徒歩で高校に通っていた。
とはいえ、今日みたいな灼熱の七月に通学していると、
汗粒がぽつぽつと額に浮き上がるもので、風を切って走る自転車が恋しくなってくる。
加えて言えば、颯爽と自転車を漕いでいる子でも目にすれば、その気持ちも尚更なのだ。
「おっはよー、主人君、山田君っ!」
登校中、ふと背後から掛けられた声。
主人に振り返る間も与えず、その声の主である神木唯は、主人と山田の横までやってきた。
いつもと変わらない、朝の登校風景。
一点だけ違うのは、主人らと同じ徒歩通学だったはずの唯が、自転車に乗っているという事だった。
「唯さん、おはよう。今日も元気だね」
「うんうん。今日は特に気持ちが充実しているのよねえ」
「夏休みも近いからね」
「そうそう。それはそうなんだけれど、ここだけの話、他にもちょっとあるのよ」
「なにかいい事でもあったみたいだね」
「さあさあ。一体なんなんでしょう?」
何度も自転車本体をチラ見する唯。
なんともまあ、分かりやすい仕草である。
わざとらしさが微笑ましくさえあり、頬がつい緩んでしまう。
まあ、聞いてあげるのが優しさってものだろう。
「……ええと。その新品の自転車、どうしたの?」
「あ、気づいちゃった? 気づいちゃったかー!」
そりゃ気づきますがな。
そんな突っ込みを飲み込んで、主人は苦笑と共に頷く。
「前までは徒歩通学だったよね」
「うん。申請していた自転車通学、やっと通ったんだ。
それに合わせて、自転車も新しく買っちゃって。
へへー、いいでしょ、いいでしょ!」
「でも、唯さんの家は徒歩通学圏内じゃないでやんすか?」
隣を歩く山田が会話に加わってくる。
「ちょっと裏技使ったのよ。通学ルートを、まあ、ちょこちょこっとね」
「それ、裏技というよりズル技じゃないでやんすか?」
「言いませーん!」
山田の指摘にも怯む事なく、唯は笑顔を振りまきながら、主人らの前を走りだした。
紺碧の青空の下、ポニーテールを揺らしながらペダルを漕ぐ彼女の姿は、なかなか絵になっている。
真っ白なYシャツの背中が、日差しを反射させる。
見とれる事、暫し。
隣の山田が口元をニヤニヤ緩ませてこちらを見ているのに気が付いて、主人は露骨に視線を逸らした。
「なんともまあ、朝っぱらから元気でやんすねえ」
「ん。まあ、そうだよねえ」
「気になるでやんすか? 唯さんの事」
「……ノーコメント」
答えを口にしたも同然の返事である。
「はあー……気になるなら、さっさと告白したらどうでやんすか?」
「いや、なかなか機会がさ。……ちなみに、山田君は気にならないの? 唯さんの事」
「なんでそういう発想になるでやんすか」
「なんでって……いや、別に山田君が云々ってわけじゃないんだけどさ。
唯さんって普通に可愛いし、人気がありそうだと思うんだけれど」
「意外とそんなもんじゃないでやんすよ」
山田は肩を竦めながら言う。
「なんせ、おいら達は、ずーっと小さな島で暮らしてきたでやんす。
一学年が一クラスに収まる狭さで、毎日のように顔を合わせていたでやんす。
そりゃ、中学生になる頃には、同級生の女の子を意識する事もあったでやんすよ?」
「だよね」
「でも、それが落ち着いてからは、どうって事ないでやんすね。
みんな兄弟みたいなものだから、今更、恋愛対象にはならないでやんすよ」
「なるほど、そんなものなのか」
感心したように頷く。
「でもパンツは別でやんす。
ほら、唯さんのスカート、ちゃんとサドルに挟まれてないでやんす。吹き上がれ突風、でやんす!」
感心して損をした。
はああ、と主人が盛大に嘆息をすると、それを合図にしたかのように、
数十メートル先を行っていた唯が、自転車をUターンさせて戻ってきた。
「あーっと……言うのすっかり忘れてた!
主人君、明日は学校も部活も休みだよね?」
「そのはずだけど、それがどうかしたの?」
「何か予定、入ってる?」
「別にないなあ。多分、部屋でゴロゴロしてるだけだと思う」
「それじゃあ、遊びに行かない? せっかく自転車買ったから、出かけたいんだ。
ね。付き合ってよ?」
付き合って、の一言に、内心ドキリとしてしまう。
交際という意味じゃないけれども、デートのお誘いである事に間違いはない。
「……ま。いいよ。暇だし」
「良かった! じゃあ、朝、迎えに行くからね」
太陽にも負けない明るさの笑顔で、唯が言う。
それから彼女は、その笑みを崩さないままで山田に向き直った。
「それと山田君。あとで突風の代わりに小キックね」
地獄耳なのである。
神木唯の願望
唯は午前九時を少し過ぎた頃にやってきた。
「お待たせー。今日も暑いねー」
「んじゃあ、部屋で遊ばない? クーラー効いてるけど」
「却下! サイクリング行くの!」
で、二人して自転車を走らせる。
今日も空はカラッと晴れ渡っているが、風を切って走ると清涼感がある。
海に目を向ければ、空との境界線が分かりにくくて、空を走っているような気持ちになってきた。
町のはずれに差し掛かると、道はあぜ道から舗装道路に変わり、アスファルトが日差しで輝く。
ジワジワジワジワ。
耳に届くのは蝉の大合唱。
いつどこで聞いても同じ周期に感じられる鳴き声だけれど、声量は普段よりも強い気がする。
「このまま町を突っ切って、学校まで行ってもいいかな?」
アスファルトを走り出して間もないうちに、唯が並走しながら聞いてくる。
Yシャツにミニスカートと、制服とあまり変わらない井出達だったが、実にさわやかな印象だ。
「学校? 休みなのに、わざわざ?」
「休みだから行くの!」
よく分からないが、今日は彼女に付き合うと決めたのだから、行きたいと言われれば頷く他ない。
「唯さんがそうしたいなら、俺はいいよ」
「えへへっ。ありがとねー! さあ、じゃんじゃん飛ばしていきましょー!」
「でも、唯さんがそんなに自転車好きだなんて、知らなかったな」
「別に自転車が特別好きって事はないのよ?」
「あれ、そうなんだ。それにしちゃあ、随分とサイクリングしたがってたみたいだけど」
「まあねえ。……その辺は、後でゆっくり話そ!」
言われるがまま、日の出高校に向かう。
途中、自動販売機の前で止まって飲み物を買った。
清涼飲料水のボタンを押した主人に対して、唯が買ったのは赤いボトルのコーラ。
「夏はやっぱりこれよね」と頬に当てて笑う彼女こそが、夏らしかった。
日の出高校の門は閉まっていたが、唯は外周を回って野球部のグラウンドに向かった。
グラウンドの裏門前で自転車を降りるが、裏門にも鍵は掛かっている。
一体どうするつもりなのだろう、と思いながら唯を見ていると、
彼女はスカートのポケットから鍵を取り出して、グラウンドへと入っていった。
実に用意が良い。
職権乱用とも言う。
「いやー、誰もいないわねえ」
「そりゃそうだよ。土曜だし」
「でも、普段は土日も野球部が練習しているじゃない。他に誰もいない学校って、見るの初めてじゃない?」
「それもそうか。……で、今からどうするわけさ」
「野球部のグラウンドに来たんだから、もちろん野球に決まってるじゃない。
ね。キャッチボールしようよ!」
唯はそう告げると、返事を待たずに部室へと駆けていった。
キャッチボールまで、わざわざ休日に? と思わないでもない。
「ねえ、唯さん……」
その疑問を投げかける途中で、ハッと気が付く。
よく考えてみれば、わざわざ休日にキャッチボールをするのは、自分だけなのだ。
マネージャーである唯が、練習中にキャッチボールに加わる事はないし、
そもそも部員の練習が最優先だから、部活のついでにやれるものでもない。
彼女にとっては貴重な時間なのだと思うと、キャッチボールも悪くはない気がする。
「はーい、お待たせ!」
グラブとボールを手にした唯が、すぐに戻ってきた。
グラウンド整備が面倒になるので、ファールゾーンの端で早速キャッチボールに興じる。
十球ほど投げ合った頃から、もわもわと全身を包むような熱気を感じる。
自転車に乗っている間は感じなかった暑さが、まとめてやってきたような感じだった。
「ねえ、唯さん。……それっ」
「ん。なーに? ……えいっ!」
「多分、この調子だと汗かくよ。……ほいっ」
「別にいいじゃない。……よいしょっ!」
「俺はいいけど、ほら、唯さんは女の子だし。……よっと」
「……ううん。じゃあ、あと五球だけ。……そりゃーっ!」
頭上を越えそうになる暴投を、軽く背走して捕球する。
そんなやり取りをキッチリ五球終えてから、キャッチボールの距離を詰め合って、ようやく終了となる。
「うー、暑い……」
「そりゃ運動だもん。ほら、水分補給しようよ」
「うん。買っといて良かったわ」
ペットボトルを高々と掲げ、汗の流れる喉を鳴らしながら、唯はコーラを飲んだ。
それが落ち着いたところで、主人は声を掛ける。
「お疲れ様。キャッチボール、どうだった?」
「ちょっとだけど、すっごい楽しかったわ。ありがとうね」
と、屈託のない笑顔で言う唯。
「じゃあ、今度はティバッティングでもやってみる? あまりオススメはしないけど」
「それも汗をかくからって事?」
「うん。……ちょっと目のやり場に困る汗になるかも」
「主人君のエッチ」
「……まあ、否定はしないけど。で、どうする?」
「うーん、それは止めておこうかしら。
ね。男の子だったら、他にどういう事やるのかな」
質問の意味が、よく分からない。
その感情が表情に出ていたようで、唯はハッとしたかと思うと、照れくさそうに舌を出してみせた。
「あ……えっとね。今日は男の子みたいな事、してみたかったんだ」
「男の子……キャッチボールがそうなの?」
「うん。ほら、ちっちゃな男の子が河原でやっているようなイメージ、あるじゃない」
「なるほど。その印象は分からないでもないな」
「自転車の件もそうなの。朝から自転車で遠出するようなイメージがあるから」
「麦わら帽子と虫取り装備でね」
「そうそう、そんな感じ!」
小さく二度手を叩きながら、唯が頷く。
「私も小さい頃は、そうして遊んでたんだ。
山田君とか村田君とか、よく虫取りに付き合ってくれたわ」
「そういえば山田君も、兄弟みたいなものって言ってたな」
「でも、やっぱり男の子じゃないのよね、私は」
唯が眉を顰めながら青空を眺める。
恨めしいというよりは、悔しさのような感情が見て取れる表情だった。
「中学生、高校生になって、段々とそんな機会も減って……
そんな、男の子みたいな日が懐かしくなって、誘っちゃったわけ」
「そういう事か。納得」
「あーあ。私、男の子に生まれたかったなあ」
「男の子、ねえ……」
自分も清涼飲料水を飲みつつ、彼女の言葉を反芻する。
その日々の中にいる自分にとっては、あまりよく分からない願望ではある。
ただ、回顧したくなる気持ちは、分からないでもない。
自分だって、昔みたいに赤坂と野球ができたら、と思う事は未だにある。
だが、それ以上に思うのは、今の野球部の面々の事だ。
そう。
生きているのは、今なのだ。
「……でもさ。唯さんが女の子で良かったと、俺は思うよ」
「むうー」
「そう、あからさまに不安げな声を出さないでよ」
「だってだってえ。……ちなみに、なんでそう思うの?」
「んー……それは、さ」
なんだか、変な流れになってきた気がする。
これはおそらく、待ちわびていた『機会』なのだろう。
いざ訪れると、足がふらつくような気がする。
この後のセリフを考えると、頭がクラクラとした。
心臓がバクバクと高鳴っている。
全身の感覚が鈍って、自分の体じゃないような気がする。
ジワジワジワ。
まともなのは、聴覚だけ。
ここでも聞こえる蝉の鳴き声だけが、ハッキリと耳に届いていた。
「……唯さんの」
「私の?」
「……唯さんの事が好きだから」
「私の事が好き。なるほど、なるほど。
………?
……?
…?
ふ、ふえっ?」
手にしていたコーラが地面に落ちる。
神木唯の頬がみるみるうちに赤くなったのは、暑さのせいではないようだった。
|
|
|
|
|
|