好きだとは、伝えないでおこう。
 
 倉見春香が自分の気持ちを抑え込むと決めたのは、昨年秋に開かれたドラフト会議の日だった。
 彗星の如く現れ、しがない県立高校を甲子園優勝に導いたニュースター・主人公。
 ドラフト一位指名を受けた彼の笑顔を、大挙したマスコミはこぞってカメラに収めようとした。
 生徒達も大いに騒ぎ、その様は、これまでヒーローに向けられていた黄色い歓声が彼へとスライドしたようだった。
 それも当然だろう。だって彼は時の人なんだから。
 
 
 あの日、春香は少しだけ泣いた。
 群衆に囲まれて照れくさそうに笑う彼を、遠くから見つめながら、人知れず涙を流していた。
 嬉し涙だったのかな。それとも悲し涙なのかな。
 答えは、暖かな春風の季節となった今でも、まだ分からない。
 
 
 
 
 
「先輩、いよいよ今日、卒業しちゃうんですね〜」
 土手沿いの登校路を行きながら、春香は努めて明るい声で言う。
 その声に風の音が混じるくらい、今日は風が強い日だった。
 だけれども、聞きそびれるような距離じゃない。
 隣を行く主人は、青空を眺めながら顎を小さく縦に振ってくれた。
 
「うん。あっという間だったなあ……」
「やっぱり感慨深いものなんですか?」
「どうだろうね。ちょっとは緊張してるけどさ」
「やっぱりそうなんですねー」
「でも、登校自体久しぶりだから、単に懐かしいだけなのかも」
「あー、なんか登校拒否している人みたいなセリフ」
 おどけてそう言ってみせるけれど、主人も冗談だと分かっているようで、怒りはせずに苦笑を返してくれる。
 
 いや、そもそも彼がこれまでに怒った事があっただろうか。
 温厚で優しい、誠実な先輩。
 きっと、受験票の一件がなくとも、知り合いさえすれば好きになってしまっただろう。
 春香は、そんな主人の前に回り込むと、くるりと身を翻して彼に相対しながら、また口を開いた。
 
 
 
「……でも私は、先輩が卒業すると思うと、ちょっとジーンときてますよ」
「へえ。寂しがってくれてるの?」
 主人が少し明るい声で聞いてくる。
「そりゃー、もちろんです!」
「それにしちゃ、随分と明るい声だね」
「でしたら、嘆きましょうか? ふえええええん、先輩、卒業しちゃ嫌ですよ。留年してくださいよぉ〜」
「またこの子は無茶を言って……」
「えへへっ。プロ野球選手に留年させるわけにはいきませんよね。そんなわけで、今日はバッチリ卒業してください!」
 
 おー、と腕を掲げながら、春香はまた前を向いた。
 そうでもしないと、表情のどこかに寂しさが滲みでてしまっただろう。
 登校中、こんな気持ちになるのは、多少なりとも予想済である。
 春香は無理に口の端を広げて、大股で歩き始めた。
 
 
 
 
 ――主人は、明日にはチームに戻ると聞いている。
 フェンスの向こうの人になってしまったら、彼とこうして軽口を叩きあうなんてできないだろう。
 ましてや彼は、ただのプロ野球選手じゃなく、ドラフト一位なんだ。
 大成を約束されたわけじゃないけれども、少なくともそのレールには乗った人なんだ。
 
 レールの始発駅に、倉見春香という人間は必要ない。
 それが、春香が自分の気持ちを封じた理由であり、強がってみせる理由だった。
 今、彼に必要なのは、プロの指導者であり、チームメイトであり、チームスタッフだけなのだ。
 
 ……でも、自分にだって感情はある。
 主人の前では自分を偽るのを大前提に、春香は今日だけ、ワガママを言おうと思っていた。
 
 
 
 
 
「ところで先輩、第二ボタンは誰かにあげるんですか?」
「第二ボタン? 俺のが欲しい子なんて、いるわけないじゃん」
 主人は、さも当然の如く肩を竦めながら言う。
「え〜!? 先輩、知らないんですか。実はすっごくモテモテなんですよ!」
「俺がー? 冗談キツいなあ」
「本当ですって。なにせ甲子園のヒーロー、その上ドラフト一位なんですから!」
「それにしちゃ、モテた実感はないなあ」
「甲子園の後も、国体とか指名挨拶とか、色々と忙しかったから、気づく暇がなかっただけですよ」
「そっか。へえ。俺がモテモテねえ」
 
 それは、嘘じゃない。
 甲子園の後と、ドラフト会議の後。
 それぞれにおいて、練習を見学しに来る女子が爆発的に増えていた。
 その中には、自分なんかよりよっぽど美人の子も沢山いる。
 ……うん、やっぱり不要だ。
 つり合いという意味でも、自分は、主人に必要な女の子とは……、
 
「じゃあ、春香ちゃん、第二ボタンいる?」
「ふ、ふえっ!?」
 思わぬ不意打ちに、思考が強制遮断される。
 言葉は裏返り、心臓は猛烈に高鳴り始めた。
 こんなドキドキ、抑え込めるはずがない。
 でもせめて、外見は平静を装わなくちゃ……!
 
「せ、先輩ったら、まーたまたぁ。からかうのもいい加減にしてくださいよ!」
「……バレたか」
 主人はちろりと舌を出してみせた。
 ほら、やっぱりこんなオチだ。
 それより、ワガママを言うのなら今しかない。
 ほんのちょっとだけの、小さな小さなワガママ。
 だって今日を逃したら、次に会えるのはいつになるかも分からないんだから。
 
 春香は、主人にも気づかれないくらい、小さく深呼吸をした。
 
 
 
 
「……でも」
「うん?」
「最後に、カラオケくらい付き合ってもらえませんか? 景気付けにガンガン歌いましょうよ!」
 今度は本心からの笑顔と共に提案する。
 ぐっと右腕に力が入った。受け入れて貰えたら、この腕を高々食突きあげるのだ。
 
「あー……」
 
 だけれども。
 
「ごめんね、春香ちゃん。……帰ったらすぐ……うん、チームにとんぼ返りの予定なんだよ」
 主人は言葉を選びながらそう言った。
 それでもまだ、自分の発言に自信がないのか、途方に暮れたような顔で、こちらの反応を伺っている。
 
 ああ、なんて考えたらずなんだろう。
 彼のプロ野球人生は、とっくの昔に始まっているんだ。
 ちょっと考えれば分かる事なのに、気を遣わせてしまったじゃないか。
 
 唇の内側を微かに噛みしめながら、春香はぺこりと頭を下げた。
 既に、自分が割って入る余地はない。
 それなら、言うべき事は一つしかないだろう。
 
 
 
「そっか。そーですよねえ……先輩、ごめんなさい!」
「こっちこそ本当にごめんね」
「いえいえいえいえ! 悪いのは私ですから! 罪滅ぼしに、球場に行ってガンガン応援歌歌います!」
「……応援歌か。俺は、どんなのになるんだろうなあ」
 
 どこか遠くを眺めながら、主人が呟く。
 きっと、輝かしい未来を見据えているのだろう。
 とても、視界の中に入る事なんてできやしなかった。
 
 
 
 
 
 
 
 ◇
 
 
 
 
 
 
 
 卒業証書を手にした卒業生が、一同に学校玄関から出てくる。
 そこが記念撮影会場になるのには、あまり時間はかからなかった。
 クラスメイト同士で、先輩後輩同士で、部活仲間同士で。
 或いは、恋人同士で。
 幾つもの眩い笑顔が、次々とカメラに収まっていく様を、春香は校門の離れた位置で、同級生の少女と一緒に見守っていた。
 
 多分、彼が出てくると、周囲にはすぐに人垣ができるだろう。
 撮影を求める生徒だけじゃなく、マスコミまでが待ち構えているんだから。
 やっぱり彼は、スター候補のプロ野球選手なのだ。
 そこに割って入っていく気は起きなかったけれども、終わった後に挨拶くらいはしておきたい。
 
「ねえねえ、春香」
 ふと、隣の少女が話しかけてくる。
 わざわざ自分が一人にならないよう着いてきてくれた、気のおけない友人だった。
「主人先輩に挨拶したいなら、もっと玄関近くで待った方がいいんじゃない?」
「ううん。ここでいい」
「それじゃ、他の人達に先を越されちゃうじゃん」
「それでいいんだもの」
「わっかんないなあ。春香、主人先輩と仲良いんでしょ?」
「もっちろん! 一年の頃から、ずーっと仲良しだよ!」
 ぐっと力強く握り拳を作り、胸を張ってみせる。
「じゃあ、遠慮する事なんかないのに」
「まあ、私にも色々……」
「好きなんでしょ? 先輩の事」
「……色々、あるの」
 
 友人の問いから逃げるように、視線を玄関付近に戻す。
 大いにはしゃぐ卒業生達の中に、まだ彼の姿はない。
 
 やっぱり、先輩もはちきれんばかりの笑顔で出てくるんだろうか。
 なんと言って祝福したらいいだろう。
 泣いちゃったりするかもしれない。我慢できるだろうか。
 ……もしかして、話せるのはこれが最後になったりしないだろうか。
 
 思い悩めばキリはなく、目に入る光景も次第に気にならなくなってしまう。
 だから、わっと歓声が湧き上がるまで、その瞬間が訪れたのには気づかなかった。
 
 
 
 
「あー、主人君だー!」
「主人、一緒に写真撮ろうぜ!」
「駄目でやんす、整列、整列を……へぶっ!」
「主人さ〜ん!!」
 
 玄関から出てきた主人を、瞬く間に人々が取り囲んだ。
 さすがの彼も笑うどころじゃないのか、困惑した様子で周囲をきょろきょろと見回している。
 どこか間の抜けている、普段通りの彼の姿に、春香はつい吹き出してしまった。
 しかし、マスコミも同様に取り囲んでいるのを目にすると、その笑顔もしぼむ。
 
 やっぱり、彼は違う世界の人になってしまったのだ。
 百メートルも離れていないというのに、星よりも遠くにいるような気がした。
 口元が震えかけたけれど、キッときつく結び直して、主人を改めて眺める。
 
 ――主人が叫んだのは、その瞬間だった。
 
 
 
 
 
「春香ちゃん!!」
 
 
 
 
 
「え……?」
「春香ちゃん、どこにいるかな!?」
 なおも人垣を機敏に見回しながら、主人は名を呼んだ。
 春香の耳に届くのは、彼の声だけじゃない。
 生徒達からも、特にマスコミからも、突然のシャウトに対するどよめきの声があふれている。
 ……一体、何がどうなっているのか。
 唖然とした春香が動けないでいると、不意に隣の友人が、自分の腕を取って掲げた。
 
 
「先輩ー! 春香ならここです!」
「ち、ちょっと!」
 慌てて腕を振りほどくが、もう遅い。
 友人はにっと歯を見せて笑うと、肩を軽く叩いて去ってしまった。
 追いかけようか、とも思ったけれど、それよりも気になる存在がある。
 ゆっくりと主人の方へ視線を向けると……目が、合ってしまった。
 
 
 
「なんだ。そんな所にいたのか」
 
 主人は、群衆の間をかき分けるようにして歩き出した。
 一度も目を離す事なく。
 他の誰にも構う事なく。
 ただ自分だけを見つめて、主人が近づいてくる。
 
 気が付けば、生徒達の中には口笛を吹く者や、拍手を送る者も出てきていた。
 なんとなく、それは好意の篭ったものだと伝わってくる。
 でも、恥ずかしがるような余裕なんてない。
 心臓がロックミュージックのドラムのように高鳴り、切なさが全身を駆け巡っている。
 登校中、第二ボタンの冗談を受けた時とは比べ物にもならない衝撃。
 気を抜けば脚が崩れそうな気さえしているのだ。
 
 
 
 
「や。春香ちゃん」
「あ……はい。あ、あの……」
 とうとう、主人が目の前までやってきた。
 まだ気持ちは落ち着かないけれど、なんとか主人を見上げはする。
 よく分からないけれども、チャンスには変わりがない。
 胸元のリボンを抑えながら、春香は笑顔を作り、必死に声を絞り出した。
 
「あの……先輩。卒業、おめでとうございます」
「うん。ありがとうね」
「今後も……遠くから応援しています」
「……そう」
 少し、声に元気がなくなった気がした。
 気に召さない言葉ても口走っただろうか。
 何か付け足さなきゃ、とは思うけれど、なんと言えば良いのか分からない。
 
「あの、えっと、つまり」
「春香ちゃん」
 狼狽は、主人の優しい声に遮られる。
 彼はゆっくりと目を細めながら、ぽん、と卒業証書の筒で頭を撫でてきた。
 
「カラオケ、いこっか」
「え……?」
「あの後、親父に電話して新幹線の時間調べてもらったんだよ。二時間くらいなら、なんとか切り詰められそうだ」
「え……ええ……?」
「暫くの間、お別れになっちゃうけどさ。だからこそ、ちゃんとしないとね」
「――っ!!」
 
 
 
 
 
 
 主人は、多分笑っているだろう。
 それを見て取れない程に、春香の瞳は涙でぐしゃぐしゃになっていた。
 
 ああ……。
 やっぱり、この人の事が好きだ。
 優しくて、笑顔が素敵な、主人先輩の事が。
 
 気持ちの全てを打ち明けてしまいたい猛烈な衝動に、全身が震えてしまう。
 好きなら、好きって言わなきゃ。
 言わなきゃ。
 
 言わなきゃ……!
 
 
 
 
 
 
「先輩……」
「うん?」
「応援してます。……ずっと、ずっと応援してますから」
 
 せいいっぱいの泣き笑いで、春香はそれだけを告げた。
 やっぱり、この気持ちを口にしちゃいけない。
 主人が好きだという気持ちを再認識できただけで、彼の境遇には変わりがないのだから。
 でも。
 でも……いつかは。
 
「……やっと、笑ってくれたね。涙交じりだけどさ」
 主人は安堵の息を漏らしながら言う。
「やっとって……ぐすっ……私、ずっと笑ってましたよ」
「さっき卒業祝いの言葉掛けてくれた時も?」
「ええ」
「いーや。あんなの春香ちゃんの笑顔じゃないよ」
「むうー……ぐすっ」
「ほらほら、そんなに泣かないの……おっと」
 主人のは卒業証書の筒を引くと、代わりに顔に向けて手を差しだした。
 涙を拭うんだろうかと驚いたけれども、彼の手は、頬の横に軽く触れただけだ。
 その指先を、眼前で見せられる。
 桜の花びらが摘ままれていた。
 
 
 
wayaさんに描いて頂きました!
 
 
 
「春風のいたずら、だな」
「……ええ。そうですね……えへへっ……」
 
 そうだ。
 この春風を。
 二人の間に吹き付ける春風を、あと何度か受けた後ならば。
 あふれ出る想いを、伝える事ができるのかもしれない。
 そう考えるだけで、涙が驚くほどに引いていく。
 胸の鼓動は、いつしか心地良いものに変わっていた。
 
 
 
 
 
 
「じゃあ、友達とかマスコミに、一言断ってくるね」
「はいっ! お待ちしてますよ、主人さん!
 私、今すっごく歌いたい気分ですっ!!」
 
 ブレザーの袖で思いっきり涙を拭いながら、その人の名を呼ぶ。
 さあ、今日はどの唄を歌おうか。
 きっと、今回もヘタクソと言われるんだろう。
 ああ、もう。くやしいったら、ありゃしない。
 上手いと言わせるまで、あと何年かかるだろうか。