暖かさが、欲しい。
 天本玲泉はこの所、そう思っては人知れず深く溜息をついていた。
 
 コート越しに身を突き刺してくる冬の冷気や、師走の雪雲から降り注ぐ雪には容赦というものがなく、
 天本も十二月に入ってからは、登校の際には赤い大きめのマフラーを首に巻いて登校している。
 天本に限らず、日の出高校の学生にはマフラーをしてくる者が多くいるのだが、
 小さな島では、自然と購入先も被るようで、まるで図ったかのように皆同じデザインの物を使っていた。
 主人公もまた天本と同じ物を使っているようで、お揃いだと気が付いた日の天本は一日中、上機嫌であった。
 翌日、山田も同じ物を使っていると知るまでの短い間ではあったが、とにかく上機嫌であった。
 
 
 
 だが、天本が欲しているのは、体だけの暖かさではない。
 
「今日も寒い中、頑張ってますね……」
 
 ぼそり、と呟いて、コートの襟を体に密着させる。
 下校前の数分間、天本の姿は、野球部のグラウンド前にあった。
 正しくは、グラウンドから二十メートル離れた歩道にあった、というべきであろう。
 こうして、遠くから野球部の練習を少しだけ見ていくのが、天本の帰宅前の習慣となっていた。
 
 目的は、部というよりも人。
 ありていに言えば、想い人の主人である。
 主人が転校してきて、一年と少々。天本にとっても関わりの深い『呪い』との戦いは、決して容易いものではなかったはずだ。
 だというのに、彼はその辛さや恐怖を表には出さない。
 天本が『呪い』について説明した当初こそは、やり場のない感情を発する事もあったが、
 日が経つにつれ、彼はその心情を情けなく吐露するような事はなくなっていった。
 日の出島野球部が成長し、主人がチームメイトとの仲を深めていくのと比例するかのように、彼はたくましく、そして優しくなっていった。
 
 そんな主人との交流の末に、彼に惹かれているのは、もう天本も自覚していた。
 だから、こうして少しでも主人を見ていたくて……主人の暖かい人柄に触れたくて、天本は練習を眺めている。
 しかし、それはささやかに過ぎる行為だった。
 数分間、野球部の練習を眺めていくだけ。
 表情も見えない位置から、主人の背中を見つめるだけ。
 
 主人に深く接したいのならば、他にやりようはあった。
 少子化が進む日の出高校では、一学年のクラスが一つしかなく、それは小学校、中学校でもほぼ同様だった。
 すなわち、全部員が二年生である日の出島野球部員とは長い付き合いなのだから、
 それが柄であるかどうかは別として、野球部の手助けを申し出て、マネージャーの補助ができたかもしれない。
 そこまで腰を据えずとも、ちょっと神木に用事があるふりをして、練習終了まで見学し続ける事もできた。
 
 だが、天本はどちらも選ばない。
 自分は、主人に、そして野球部に真実を隠している。
 彼らに深い罪悪感を抱いている。
 だというのに、自分が主人と仲良くなりたいから練習に関わろうとするだなんて、虫が良すぎる話だ。
 だから、こうして見守るだけ。
 ほのかに届く主人の熱気にほだされつつ、見守るだけ。
 
 
(……本当は、もっと主人さんの暖かさを感じたいものですけれど……)
 
 到底口にはできない欲求を心中で呟きつつ、天本はこの日もグラウンドを背にした。
 暖かさが、欲しい。
 この冬に入って、その言葉が何度も、頭の中を駆け巡っていた。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 暖かいマフラー
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 ある日の放課後であった。
 
 図書室でたまたま手に取った本が、幸か不幸か『当たり』だったのだ。
 つい夢中になって読みふけってしまい、ふと我に返って窓の外を見れば、もう陽が沈みだしている。
 慌ててぱたぱたと足音を立てながら、鞄を置いていた教室に戻ると、もう誰の姿も見当たらない。
 完全に暗くなる前に帰路につこうと、鞄を手に取って教室を出ようとして、天本の動きは止まった。
 
「あら? 今のは……」
 
 視界の端に、何か赤いものが入った。
 振り返れば、主人の机の上に、自分が今首に巻いているものと同じ、赤いマフラーが置かれている。
 おそらくは、置き忘れたままで練習に向かったのだろう。
 せっかくなので帰る前に渡そうと、主人のマフラーを手にした時だった。
 
 
 
「あ……」
 
 一つのひらめきが、天本に宿る。
 
 自分が好きな主人が、毎日撒いているマフラー。
 彼の首周りに所々触れているマフラー。
 彼の吐息を浴びている部分もあるマフラー。
 
 ……主人の匂いがする、マフラー。
 
 良心は、咎めた。
 まるで小学生男児のような振る舞いだ。
 みっともない。
 恥ずかしい。
 情けない。
 ……だが、その感情は『暖かさ』には到底釣り合わないものだった。
 
 
「……私……でも……」
 葛藤を口にしつつも、無意識のうちに周囲を見回してしまう。
 大丈夫だ。誰もいない。
 誰も見ていない。
 ほんの、少しならば。
 心臓が、トクン、と鼓動する。
 その音が聞こえてくるくらい、感情が昂る。
 鏡を見ずともわかる。こんなにも顔を赤らめたのは、生まれて初めてではないだろうか。
 
 
「ん……」
 手にしたマフラーを、そっと口元に寄せる。
 暖かさに頬を包まれ、反射的に息を吸い込んでしまった。
 
「……主人さんの、匂い……」
 消えてしまいそうな声で呟く。
 少しだけ汗の香りがする、赤いマフラー。
 もう少しはっきりと香りをかごうと、マフラーを口元に押し当てれば、まるで主人と抱き合っているような錯覚を覚えた。
 何をやっているんだろう。
 頭の隅で、冷静な自分がそう呟いて呆れている。
 それでも、行為は止められなかった。
 
(……だって、暖かいんですもの……)
 なおも、その暖かさに浸るかのように、天本はそっと目を閉じ――
 
 
 
 
 
 
「あ。天本さんまだいたんだ」
「――っ!!?」
 
 突如聞こえてきた声に、飛び上がるような勢いで肩が跳ね上がった。
 口元を覆っていた主人のマフラーを、反射的に鞄の中に叩き込む。
 教室の入口に背を向けはいたが、見られてしまっただろうか。
 猛烈な焦りを覚えつつも、必死にいつもの笑顔を作って振り返れば、そこにはユニフォーム姿の主人がいた。
 
 
「ぬ……主人さん。どうかしましたか?」
「うん。ちょっと忘れ物をね。天本さんこそ遅くまでどうしたの?」
「……ちょっと図書室に寄っていたら、遅くなりまして」
「そっか。ところで、教室にマフラーなかったかな?」
 主人はそう尋ねながら、教室の中を見回し始めた。
 
「さ、さあ……私は、何も……」
 冷や汗をかきつつ、なんとかそう声を絞り出す。
 答えは、鞄の中にある。
 はいこれですね、とマフラーを取り出せば良いだけの話ではある。
 邪推……否、実際に邪ではあったのだが、変に思われる前に、
 『忘れていたようなので、持っていこうと思って』と言えば良いのだ。
 
 だが、それに気が付いたのは、主人がマフラーを探し出してから数十秒後。
 今更出しては、それこそ変に思われてしまう。
 
 
「おかしいなあ。絶対、机の上に置いていたんだけれど……」
「……そうですね。おかしい、ですね……」
 なおも諦めず探し続ける主人に、相槌を打つ。
 主人は探すのに夢中で気が付かないようだが、その声は酷く沈んだものだった。
 
 また、嘘をついてしまった。
 猛烈な罪悪感を感じつつ、天本は黙って、マフラーを探す主人を見つめ続けていた。
 
 
 
 
 
 
 
 ◇
 
 
 
 
 
 
 
 主人は五分ほど教室を探し続けてから、練習に戻っていった。
 その姿を、天本は教室の窓から見つめ……深く溜息をついて、着席する。
 
 結局、主人には切り出せなかった。
 鞄の中に、彼のマフラーがある事を切り出せなかった。
 こっそりと彼の臭いをかいで、探しているというのに鞄にしまい続けて。
 後半は予期せぬ展開だったとはいえ、これでは犯罪者ではないか。
 これでは、いけない。
 その気持ちが、天本を教室に残し続けていた。
 窓の外にはちらほらと雪が降っており、それだけでも外気の冷たさは想像できる。
 このままならば、主人はさぞ寒い思いをして帰宅せねばならないだろう。
 ならば、せめて。
 事実は話せずとも、せめてマフラーは渡さなくてはならない。
 
 彼のマフラーは、担任のみゆき先生の卓上にそっと置いておけば、
 誰かが届けた忘れ物として、主人のもとに届くだろう。
 だが、それはおそらく明日になる。
 それでは、今日の帰路で寒波に見舞われる。
 
「こんな事で、罪はぬぐえませんが……」
 そう呟いて、自分の首に巻いていたマフラーを外す。
 暫く借りてきた本を教室で読んでいるうちに、陽は完全に落ち、そして野球部の照明は落ちた。
 野球部顧問のみゆき先生が校舎に戻ってくる前に、天本は立ち上がると足早に無人の職員室へ向かい、主人のマフラーを置いた。
 それから校舎の外に出れば、木枯らしがきつく吹き付けてくる。
 体をかすかに震わせながらも、小走りでグラウンドに向かうと、ちょうど制服に着替え終えた主人が、帰宅しようとしている所だった。
 
 
「主人さんっ!」
 ちょっとだけ、大きな声を出して駆け寄る。
 声はしっかりと届いていたようで、立ち止まってくれた主人の前に出ると、彼は小首を傾げながら自分を見つめてきた。
 これまで、野球部の練習が終わるまで、彼を待っていた事はないのだ。当然の反応だろう。
 妙な間を作らないようにと、天本はすぐさま自分のマフラーを差し出した。
 勢いが付きすぎて、それこそ少々不自然な動作だったのだが、天本にはそれに気が付く余裕はなかった。
 
 
「あ。もしかして、俺のマフラー?」
「いえ、その……私のマフラーです。宜しければ、明日まで使って下さい」
「使って下さい、って……それじゃあ天本さんが寒いでしょ?」
「大丈夫ですよ、これくらい。それでは」
 無茶苦茶な事を言っているのは、分かっている。
 根掘り葉掘り聞かれる前に話を終えようと、天本は強引にマフラーを押し付け、主人の横を通り抜ける。
 しかし、いくらなんでも力技にすぎたのだろうか。
 殆ど歩かないうちに、主人がすぐに横に並んで歩きだした。
 
 
「天本さん、ちょい待ち」
「……なんでしょうか?」
「こうも暗いと危ないよ。送っていく。あと……」
 一度言葉を切り、主人はもぞもぞと着用していた手袋を取り外した。
 それが、先ほどの自分と同じように、強引に手渡される。
 
「……これは?」
「マフラーのお返し。天本さんが付けてよ」
「でも……」
「いいんだよ。……それより、ありがとうね」
 主人が明るい声で言う。
 ふと、顔を見上げれば、そこには天本が求めていた暖かさの篭った笑顔があった。
 ああ。
 これだ。
 この人の、この優しさに惹かれたのだ。
 改めて自覚をするのと同時に、気恥ずかしさに顔が赤々と火照った。
 
 
(……話さなきゃ)
 ふと、思う。
 呪いの事は、話が大きすぎてまだ決心がつかない。
 それでも、マフラーの件は、正直に打ち明けなくてはならない。
 彼の暖かさにまで嘘をついてしまってはいけない。
 結果、主人に嫌われてしまっても、自業自得というものだ。
 
 
 
「主人さん……ごめんなさい。実は、主人さんに隠していた事があります」
「そっか。実は俺もあるんだ」
「はい……?」
 思わぬ言葉が返ってきた。
 決心をいなされて、つい言葉を失ってしまった所に、主人が話を続ける。
 彼の頬には、心なしか、まるで今の自分の様に朱が差しているような気がした。
 
 
 
 
 
「その……気まずくて、聞けなかったんだけれどさ」
「なんでしょう?」
「いや、怒ってるわけじゃないよ? 全然、構わないんだけれどさ」
「はあ」
「……教室で、俺のマフラーの匂い、かいでいなかった?」
 
 人生最大の狼狽が、天本に襲い掛かるのであった。