運命、という言葉がある。
 
 ものの本によれば、人間の意志を超越して人に幸、不幸を与える力という事らしい。
 まるで具現化じゃないか。運命、大したものだ。
 だが、昔野球をやっていた頃は、この言葉には縁がなかった。
 全てが思いのままに進んでいて、どうしても抗う事の出来ない出来事なんて出くわした事はなかった。
 ……いや、もしかすると、俺が気づいていないだけなのかもしれない。
 例えば、野球をやっていた事が運命だったのかもしれないが……まあ、今はその考察は棚上げしよう。
 
 俺が言いたいのは、この言葉を強く意識するようになったのは、旅を始めてからという事だ。
 
 
 
 例えば、河川敷で少年を助けたのは運命だろう。
 それが縁で遠前町に長居するようになったのも運命だろう。
 
 どちらも、自分の意志で別の未来を選ぶ事だってできた。
 だが俺は、別の未来を選んだ自分を、どうしても想像できない。
 
 別に、俺なら必ず人助けをすると自惚れているわけじゃあないさ。
 なんというか……もう一つの未来の周りには、照明が一つも灯っていない気がする。
 だからその未来は見えないし、存在に気が付いても足を踏み込もうという気も起きない。
 そういうわけで、俺は遠前町で野球をやるという運命の上を歩いている。
 なかなか刺激的な人々に囲まれた、悪くはない運命だ。
 
 
 
 だが、全てが好ましい運命ではない。
 時には哀しい運命だってある。
 今回遭遇した哀しい運命、これは決して悪い事ではないのだが哀しいという、摩訶不思議な状態だ。
 まるで謎掛けみたいな言い草になったが、まあ、仕方ないものだ。
 人の心ってものは、簡単に解きほぐす事は出来ないからな。
 
 つまり、俺が遭遇した哀しい運命とは――
 
 
 
 
 
「風来坊さん、遊びに行こう!」
 同居人……といえば聞こえは良いが、その実、俺の飼い主の広川武美は、朝も早くから元気良く俺にそう提案してきた。
 彼女の事は嫌いではないし、そもそも、一緒にいて疲れるような者の所で世話にはならない。
 だから、普段ならどこへとでも遊びに行くのだが、今日は『普段』ではない。
 
「試合が近いから今日は野球の練習をすると言わなかったか?」
「あれ、そうだっけ? でも全体練習じゃなく自主トレでしょ? なら少しくらい良いじゃないの」
「そこを譲ったとしても、武美だって今日はカシミールの店番だろう」
「今日は夜の営業時間担当だから、それまでに帰ってくれば大丈夫。
 はい決まり! よし行こう! この秋晴れの日に引きこもるなんてもったいないよ〜」
 
 
 反論する間もなく、予定を入れられてしまう。
 俺の哀しい運命……広川武美は、こういう人なのだ。
 
 
 
 
 
 
 
 
夕暮れ時運命交差点
 
 
 
 
 
 
 
 今日は思いっきり遊びたいという武美の希望を受けて、遊園地に出かけた。
 少々ひと気に当てられてしまうので、それ程好きな場所ではないのだが、武美様のご希望とあれば逆らうわけにもいかない。
 ただ、前に遊びに来た時同様に、武美の力で偽電話を流して、順番待ちをせずに遊ぶ事だけは止めさせてもらった。
 あの時はカンタがいたし、武美も待つ事の方が当然と思っていたので、それはつつがなく受け入れられる。
 そんな、ごく普通の遊園地ライフは……まあ、悪くはないものだった。
 だが、楽しい時間とは随分と早く過ぎてしまうのが相場だ。
 
 
「あ、もう五時か。はっやいなあ〜」
 ふと、武美がぼやく。
 その言葉に反応して、近くに備えられた時計を見上げれば、確かに五時を少し過ぎた所だった。
 陽も、大分と赤みを増している。ここまでくると、暗くなるのはもうあっという間だ。
「そろそろ帰らないと、カシミールの営業に間に合わないんじゃないか?」
「仕込みは昼担当の奈津姫がやってくれてるんだ。もうちょっと大丈夫じゃないかな」
「余裕をもって帰っておいた方が良いぞ」
「ううん……それはそうなんだけど……」
 武美が渋る。
 ……どうにも、今日の武美は何か変だ。
 従順とは言わないが、ここまで後先考えずに遊びたがる程我儘でもない。
 
 
 
「……なんで、遊園地なんだ?」
「え?」
「だから、なんで今日は遊園地で遊びたかったんだ?
 なにか理由があって来たようにも見受けられるが」
「……風来坊さん、鋭いなあ」
 武美が諦めたように肩を竦めた。
 それから、ゆったりとした足取りで遊園地の出口の方へと歩き出す。
 俺も武美に肩を並べて、前を向きながら歩いた。
 
 
「……思い出作り、かな」
「思い出?」
「風来坊さんって、いつかは遠前町を出て、別の町を徘徊するんだよね」
「徘徊はないだろう。徘徊は」
 眉をひそめるが、武美は悪びれずに笑い飛ばしてくる。
「あはは、ごめんごめん。んじゃさすらう?」
「まあ、そんな所だな」
「それって、哀しくない……?」
 
 はっと、武美を見た。
 そこにあるのは、いつものあっけらかんとした表情の武美だ。
 時には人懐っこく、時には空気の読めない、のほほんとしたガイノイド。
 だが、言葉は違う。
 俺の事を思ってとはいえ、武美から寂しいという言葉を聞いたのは、初めてかもしれない。
 
 
「定住する事無く、町から町へ延々と旅ガラスの生活。
 一体何が目的なのかは知らないけどさ、そんな生活送っていたら、
 誰かと知り合っても、いつかは必ず別れちゃうんでしょ?」
「……そうだな。そうしてきた」
「それが、寂しいと思うんだ。……だから、思い出作り。
 いつか、私達が会えなくなっても『あんな奴いたな』って思い出す為の、ね」
「随分と急な話だな。別に今日明日どこかに去るわけじゃないぞ?」
「ま、なんとなく。なんとなく今日になってそう思ったの。
 ……風来坊さんは、そんな生活、哀しいとは思わないの?」
「……どうという事はないさ」
 
 
 
 帽子を深く被り直し、息を吐いた。
 そう、どうという事はない。
 いくら哀しかろうと、俺の運命だと分かっているのだから、どうという事はない。
 そう言い聞かせて、旅を続けてきた。
 
 それでも強い哀愁に駆られる時には、哀しいではなく、惜しいと思うようにしている。
 心を許せる相手、それなりの好意を持てる相手が出来た時に、惜しいと思うのだ。
 ……そうだな。それこそ、武美に対しても、惜しいと思う。
 良い人だと。
 この人と共にありたいと。
 ここで暮らしたいと。
 そう思った瞬間、やがて別れるという運命もまた現れる。
 なんとも、惜しい話ではないか。
 
 だから、せめて思い出だけも遺したいものだ。
 良き人の余韻さえあれば、旅なんかいくらでも続けられるものだ。
 今日だって、練習を後回しにした理由の一つには、その気持ちがある。
 ……そういうわけで、寂しさはともかく、思い出作りという武美の言葉には、少々狼狽させられた。
 
 
 
「……別れなんて、どうという事はない」
 もう一度、自分に言い聞かせるように呟いた。
 それから、隣を歩く武美を一瞥する。
 武美は、群れから取り残された狐のような瞳をして、俺を見上げていた。
 一瞬、胸が強く鼓動する。
 表情の平静を装うのに、随分と神経を使ってしまった。
 
「……風来坊さんは強いね。あたしも見習わなくちゃ」
「そうだな。俺がいなくなった所で、元通りの生活に戻るだけだしな」
「……うん」
「それに、武美には商店街の皆もいる」
「……うん」
「ま、正体はばれないようにな」
「……うん」
 
 武美の声は、最後まで小さい。
 夕陽の中の武美は、なんだか体付きまで小さく見えた気がした。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 ◇
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 武美とはカシミールの前で別れた。
 先に帰宅する為に、夕暮れのブギウギ商店街を一人で歩く。
 最近では秋風にも大分冷たさが篭ってきて、気が付けばコートのポケットに手を入れていた。
 
 もう、冬が近い。
 武美のいう通り、次の街へとさすらう日も遠くはない気がする。
 最近では、商店街もビクトリーズも随分と調子が良いのだ。
 ドライな椿はともかく、粘着質なジャジメントがこのまま引き下がるとは思えないから、もう一悶着はあるだろう。
 だから、別れがいつになるのかは分からないのだが……確実に近づいているとは思う。
 
 
 
 帰宅するなり自室に戻った。
 久しぶりの人混みに疲れたんだろうか。
 なんだか体が重い気がしたので、ベットに体を投げ出してしまう。
 さすらっている時には絶対に感じられない、骨まで埋まってしまうような柔らかな心地が全身を包む。
 
「……定住、か」
 天井を眺めながら、ぽつりと呟いた。
 ただこの町で暮らし続けるだけ。
 やろうと思えば、容易だ。
 
 だが、その選択はしてこなかった。
 その選択の先は、暗くてよく見えない。
 照明が灯った俺の未来はさすらだけなのだから、他の未来は暗くてとても進めたもんじゃない。
 過去に犯した罪を償えたと思えるまで。
 あるいは、それ以上の何かが、太陽のように他の未来を照らし、運命を変えるまで……この日々は続くのだろう。
 なに、分かっていた運命だ。
 どうという事は――
 
 
 
 
 
「風来坊さんっ!!」
 誰かの声が響き渡ったのは、突然の事だった。
 ベッドから上半身を起こすのと同時に、部屋の扉が開かれる。
 扉を開いた者は、せっかく起こした俺の体を、またベッドへと押し倒してしまった。
 
「た、武美……?」
 俺の胸に顔を埋めた侵入者……広川武美の名を呼ぶ。
 それに反応して顔を起こした彼女の表情には、先刻とは打って変わって凛としたものがあった。
 
「……武美、どうした……?」
「風来坊さんに、話したい事があるの」
「話したい事って……店番は?」
「抜け出してきたよ」
「駄目じゃないか。お前が店番する決まりなんだろう?」
「決まりなんか、破っても良いの。それよりも大事な話があるんだから」
 
 随分といい加減なものだ。
 だが、広川武美とは、奔放ではあっても、人との繋がりを大事にする心優しい少女である事を、俺は知っている。
 そんな武美が、親友の店の番よりも大事な話があると言うのだ。
 それに、今の武美からは、何かもっと大きな壁への決意のようなものを感じる。
 行動はともかく、話は本当に真剣なのだろう。
 
 
 
 
「分かったよ。聞こうじゃないか」
「やっりぃ! あ、もうちょっと〜」
「ふざけるのはいい加減にしなさい」
 武美の肩を持ち上げるようにして、ゆっくりと体を起こした。
 シリアスな雰囲気から一転した武美は、引きはがされた事に対してわざとらしく口を窄める。
 その仕草が面白くて、つい苦笑を零してしまった。
 
 ……もしかすると。
 この太陽のような娘は、もしかすると哀しい運命ではないのかもしれない。
 そうではなく、むしろ新たな運命を照らしてくれる存在なのかもしれない。
 とはいえ、ただの直感だ。
 まずは、武美の話とやらを聞いてやらなくちゃいけない。
 
 
 
 
「さて、どんな話なんだ?」
「うん。私の体の話。風来坊さんにしか話せない事。
 ……聞いてくれる?」
 武美は、そう言ってじっと俺を見つめた。