『先輩の第二ボタン、私に下さい』
 倉見春香は、あの日言おうと思っていた一言を、今でも覚えている。
 あの日が何年前になるのかとを数えると、今の年齢を意識してしまって億劫になる。
 だからそれはやらないが、あれは高校二年の卒業式の事だった。
 
 
 
『ひょっとして、春香ちゃん……家のクーラー壊れてるの?』
『あ、春香ちゃん。どうしたの、こんな所で』
 倉見春香は、彼と交わした幾多の会話を、今でも覚えている。
 春香が好意を持っていた彼は、優しくて、愛嬌があって、良い人で……そしてどこか鈍感だった。
 春香のオブラートに包んだ積極性では、その好意をそれとなく伝える事ができなかった。
 
 
 
 
 
 そうして思いを伝える事無く、ずるずると日は過ぎてゆくばかり。
 学園祭のようなイベントの時になら、一念発起して告白できたかもしれないが、
 当時の彼は運悪く、野球部のケーキ喫茶の店番が忙しく、その機会は訪れなかったのだ。
 
 そのままではいけないと思っていた。
 ただの友達では終わりたくない。
 もう、この日を逃せば機会はないかもしれない。
 それが、高校二年の卒業式……すなわち、思い人である主人公の卒業式だった。
 
 でも、言えなかったのだ。
 
 主人公を目の前にして、春香の口は貝のように堅く結ばれてしまった。
 今なら、その理由は分かる。
 イベントなんか関係ない。
 怖かったのだ。
 拒絶されて、良い友達でさえいられなくなるのが怖かったのだ。
 
 
 
 
 
 ――その結果……確かに、彼とは今でも良い友達だ。
 プロ野球選手となった彼と、共通の先輩である東優と一緒にクリスマスを祝う事もある。
 これで良かったのかもしれない。
 友達でも良かったのかもしれない。
 そう思っていた。
 今年の冬になるまでは。
 
 
『次のニュースです。海外FA権を行使して国内外球団との交渉を行っていた、
 広島東洋カープ所属の主人公投手が、球団と共同で記者会見を開き、
 ダイヤモンドバックスへの移籍が成立した事を発表しました』
 
 
 テレビに映るアナウンサーが、抑揚の聞いた声でそのニュースを読み上げるのを聞くまでは。
 
 
 
 
 
 
 
 
不意打ち
 
 
 
 
 
 
 
 海外移籍が決定したこの日、彼は多忙を極めている事だろう。
 移籍元と移籍先球団との連絡に、家族やチームメイトへの報告。
 マスコミへの対応だって欠かせない。
 ともなれば『友達』の自分がでしゃばるわけにはいかない。
 だが、この話を流せる程の余裕もない。
 少しだけ悩んだ春香は、東の携帯に電話をかけた。
 
「まだニュースは見ていないけれど……そうか、メジャー挑戦が決まったんだ」
 東の声は、どこか感慨深そうだった。
「東先輩は知っていたんですか?」
「メジャーに挑戦しようかどうか迷っている、としか聞いてなかったよ。
 その話は、春香ちゃんも聞いていたよね?」
「ええ、そこまでは私も聞いていました……」
 春香はそう呟きながら自室のベッドに腰掛ける。
 
「しかし、メジャーか。なんだか遠い所に行ってしまうね」
「当然ですよ。日本とアメリカですもん」
「あ、うん。もちろん地理的にも遠いんだけれど、立場的にもね。
 僕から見ても、やっぱり日本人メジャーリーガーは特別な存在だよ。
 雲の上……とまでは言わないけれど、別の世界の人、とは思うな」
「……ええ」
 春香の声が沈む。
 
 
 そこは、彼女も案じている所だった。
 今年のオフは当然の事、来年以降も、これまでのように一緒に遊びに出かけるのは難しいだろう。
 彼と時間が合わないから、というだけではない。
 日本中の野球ファンが注目する存在になれば、それはグラウンド外でも同様だ。
 迂闊に彼の私生活に干渉すれば、迷惑をかけるかもしれない。
 
 東が干渉するのは問題ないだろう。
 別の世界の人とは言っても、そこは同じプロ野球選手だし、同じ高校の出身でもある。
 むしろ、マスコミなら東との関係を『メジャーに行っても先輩』と、好意的に書き立てるだろう。
 だが、春香は違う。
 女性である春香が干渉すれば、どのようなスキャンダルに仕立て上げられるか分かったものではない。
 
 主人は、その様な事には構わないはずだ。
 これまで通りの関係を望むはずだ。
 それは分かっている。
 優しい彼なら、きっとそう望む。
 だが、それに甘えてはいけない。
 春香の方から、距離を置かなくてはいけない。
 そして、それは『良い友達』ではなくなる事を意味するのだ。
 
 そんなのは……嫌だ。
 でも、どうすれば……
 
 
 
 
 
「春香ちゃん」
 東の声が春香の意識を引き戻す。
「あ、はい?」
「来週の日曜、夜七時。ミルキー通り」
「?」
「偶然、この日主人君と夕食を食べる予定でね。
 一躍時の人となった彼だけれど、この予定は変わらないと思うよ」
「え……」
「ところが僕は違う。困った事に、来週は骨折する予定が入ったんだ」
「ぷっ、なんですかそれ……あっ」
 思わず噴き出してしまう。
 だが、すぐに彼の冗談が、気遣いである事に気がついた。
 
「そういうわけで、悪いんだけれど、その日は春香ちゃんが行ってくれないかな」
「……私が行って、良いんですか?」
「うん。構わない」
 東の声は、優しい声だ。
 彼に好意を持っているわけではないが、主人に似た声だと思う事はある。
 
 
 
「主人君は、いい奴だよ」
 東が言葉を続ける。
 昔、高校生の頃に同じ言葉を聞いた気がする。
 そう。
 あの頃から東は、こうして主人との仲を応援してくれていたのだ。
 
 
「……はい、知ってますよ」
 春香が返事をする。
 彼女の返事も、あの頃と何も変わっていなかった。
 
 
 
 
 
 
 
 ◇
 
 
 
 
 
 
 
 雪の降る約束の場に訪れた主人は、酷く驚いていた。
 東と合流するつもりが、代わりにいたのが春香なのだから無理もない。
 なんでも、東からは何の連絡も届いていなかったそうである。
 
「春香ちゃんが来るなら、もうちょっと良い服着てくれば良かったな」
 冗談交じりでそういう彼は、白のズボンに茶系統のゴテゴテとしたコートを纏っていた。
 コートに隠れてインナーは見えないのだが、安物だという。
 一方の春香は、白のコートとマフラーに、やはりのミニスカート。
 そこから覗く足は、さすがに無防備では寒すぎるので、黒のストッキング。
 いずれも細かい刺繍が施されている、普段着ている衣装とはワンランク違うものだ。
 
 
 
 人数が変わったわけではないから、という事で、食事は予定通り行われる事になった。
 歩いて十五分位の所にある天ぷら屋の奥座敷で、特別高級という所ではない。
 予約していたコース料理は、こんにゃくやら、ブロッコリーやら、ソーセージやら、
 定番メニューから少し外れたものを次々と繰り出してくる。
 だが、会話のネタにはちょうど良かった。
 
 食事中、春香はとりとめもない雑談に終始し、主人のメジャーリーグ挑戦について聞こうとはしなかった。
 主人もまたその事を話題には上げず、何事もなく食事は終了する。
 東と三人で食事をする時は、その後はバーなりカラオケなりに移行するのだが、やはり今の主人はあまり時間がないらしい。
 食事だけだがお開きにしよう、という事になり、二人は駅へと足を進める。
 ……春香が、ちょっとだけ公園に寄っていこうと提案したのは、その最中だった。
 
 それくらい、良いじゃないか。
 春香は自分で自分にそう言い聞かせながら、提案した。
 まだ、良い友達なのだ。
 これ位の我侭は良いじゃないか。
 
 
 
 
 
 
 
「いやあ、今日も寒いねえ」
 主人がポケットから手を出して、だがどこか楽しそうに言う。
 彼の手に降りてきた雪は、すぐに水と化して消えていた。
 なんとも、はかないものである。
 
「この所どんどん寒くなってますよねー。でも、アリゾナは、暖かいと思いますよ」
 春香は平静を装って言う。
 心臓が、一度強く鼓動するのが分かった。
 それを抑えつけるイメージを持ちながら、主人を直視する。
 
「春香ちゃん……」
「ええ。ニュース、見ました」
「……だよね。知らない方が不自然だよね」
 主人が頭を掻きながら言った。
 
「ええ、報道初日に知りましたとも。びっくりしてテレビにかぶりついちゃいましたよ」
「ごめんね。なんだか言い出し難くて……」
「いえいえ、全然気にする事じゃないです! 大丈夫、大丈夫!」
 春香は手を左右に大きく振る。
 それから、一度深呼吸した。
 主人にも分かるような行動だった。
 だが、それくらい勢いをつけなくては、この先は飛べない。
 
 
「ただ、ですね……」
「うん?」
「……主人先輩が、別世界の人になっちゃうのは、ちょっと寂しいかな」
「別世界? 俺が?」
「ええ。メジャーリーガーっていったら、もう遠い存在ですよ。
 東先輩もそんな事言ってましたから、私にとっては地球と月位遠いんですよ!」
「そりゃ大変だ」
 主人が思わず噴き出す。
 
 掴みは良い。
 ここからだ。
 
 
 
「だから……」
 春香が言葉を溜める。
 一瞬の溜めだ。
 主人に変に意識される前に、一気に口を開いてしまった。
 
「だから……たまには、地球に遊びに来て下さい。その……」
「あ……そっか」
 主人が春香の言葉を遮る。
 本当に言いたかった、最後の一言を遮る。
「ごめんね。マスコミの事とかで、色々気を使わせちゃってるんだね」
「……え?」
 春香の声は裏返り気味だ。
 
「でも、大丈夫だよ。記者さんには予防線張っておくから。
 勘違いを恐れて、友達がよそよそしくなるなんて、寂しいもんね」
「………」
「ごめんね。俺か春香ちゃんのどちらかが結婚でもすれば、そういう心配も減るんだろうけどねえ。
  いや、それはそれでスキャンダルにされるかな? ははは」
 
 
 
 
 
 ああ。
 まただ。
 この鈍感男。
 何も分かっていない。
 
 いや。
 またなのは、彼だけじゃない。
 今、自分は引き下がろうとしている。
 関係の悪化を怖がって。
 
 それじゃあ、あの日と何も変わらない。
 告白し損ねたあの日と、何も変わらない。
 
 違うとすれば、この一点だ。
 あの日から見れば、まだ機会は残っている点だ。
 でも、今は……
 これが……最後なのかもしれない……
 
 
 
「だから遠慮なく」
「違います!!」
 
 
 
 主人の声を掻き消す一言。
 勢いのそのままに、目を大きく見開く。
 瞳が、揺れ動く。
 春香は、一歩、前に踏み出した。
 
 
 
 
 
「私は……友達じゃ嫌なんです! これまで通りの友達じゃ……」
「え……?」
「私は……先輩が……主人さんの事が……好きなんです!」
 
 はっきりと、そう言った。
 この上なく直球で、思いの丈を口にした。
 口が震えている。
 無論、寒さのせいではなかった。
 
 
 
「え? ええっ……?」
 一方の主人はうろたえる。
「いや、その……東先輩の事は……?」
「東先輩は、ただの先輩です。良い人ですけれど、ただの先輩です。
 ……もしかして、東先輩が想い人だと思っていたんですか?」
「……うん。だから……今の言葉、すごい不意打ち」
 主人が苦笑しながら言う。
 だが、表情は違う。
 いつも通りの、あの優しい瞳で、まっすぐに春香を見据えていた。
 
 
 
「……で、だけれど」
「はい……」
 
 
 
 
 
 
 
 ◇
 
 
 
 
 
 
 
 東の携帯が鳴ったのは、その日の午後九時過ぎだった。
 モニタに表示されているのは、彼女の名前。
 この日、骨折したという事にした東の代わりに、主人と会ってきた倉見春香の名前だった。
 
 
「はい。東です」
「………」
 相手の声は聞こえてこない。
 かすかに、興奮したような息遣いだけが漏れている。
「ええと、春香ちゃんだよね? どうだった?」
 あえて、曖昧な言い方をする。
 とはいえ、この日の春香が決心していた事を、東は十分に感じ取っていた。
 その一言で十分だったのだ。
 
「………」
 まだ、春香は喋ろうとしない。
 
「春香ちゃん?」
「……終わりました」
 もう一度名前を呼んだ所で、やっと返事が返ってくる。
 だが、どきりとさせる返事だった。
 
「終わった……何が……?」
「あの日……」
「うん?」
「あの日から、ずっと続いていた関係が……終わりました……」
「……春香、ちゃん……」
 
 
 
 
 
「やりましたよう! 最後の、最後で……やっと終わったんですよう、東先輩ぃ!!」
 
 春香の声は、泣き笑いに変わっていた。
 携帯の向こう側でも、彼女の様子は容易に伝わってくる。
 顔をくしゃくしゃにして笑っている春香の事を想うと、東もまた自然と笑みが零れてしまった。

 
 
 
「おめでとう、春香ちゃん」
 祝福の言葉を投げかける。
 同時に、主人の事も祝福しなくては、と思う東であった。