甲子園フィーバーとは大したものである。
 開拓高校が独立一年目にして甲子園出場を勝ち取ってからというものの、開拓高校ナインを取り巻く環境は一変していた。
 町の人々の応援に、学校総力を挙げての支援、そしてそれら周囲の人々の好意的な視線。
 更には、開拓高校の特異性を逃すはずもない、マスコミのクローズアップ。
 ナインは『時の人』だったと言っても過言ではない。
 
 甲子園出場で、それ程の盛り上がりなのである。
 その甲子園であれよあれよと勝ち上がり、ついには優勝を果たした彼らを待ち受けていたのは、圧倒的と言わんばかりの歓待であった。
 町どころか、市が主催する幾多の式典に加え、これまでも十分過ぎる程に取り上げてきたマスコミの、底知れぬ全力報道。
 その熱烈なフィーバーが、ようやくというべきか、やむを得ずというべきか、
 どちらにしろ落ち着きを見せ始めたのは、新学期の始まった九月に入ってからの事であった。
 
 
 
 
 
「ええっ、詰井、スカウトさんにまで声掛けられたのか?」
 杉田の声が、開拓高校の教室内に響く。
 その言葉を受け、杉田と机を挟んで向かい合っていた詰井は、後頭部を描きながら頷いてみせた。
「はっはっはっ! いやあー、あんときゃあ俺も驚いちまったよ!
 いやな。別に指名の挨拶ってわけじゃないんだ。本当にただ『今後とも宜しく』って声掛けられただけだよ。
 そりゃ甲子園優勝投手を完全スルーってわけにもいかないし、スカウトさんも大変だよなあ。はっはっはっ!」
 
「まあ、確かにそりゃそうだが……甲子園優勝投手って言っても、その後に、カッコ二番手、と付くんだろ?」
「む、むうっ!?」
 詰井が唸る。
「そりゃ背番号1は詰井だったけれど、実質的なエースは澄原だったよなあ」
 更に、二人の会話に入ってきた軽井が突っ込みを入れた。
 的確な指摘に、何か言い返そうと詰井はむぐむぐと口を動かしかけたが、
 結局、何も言い返す事ができずに、がっくりと肩を落とした。
 
「はっはっはっ!」
「詰井ちゃん、ドンマ〜イ!」
「ぐぬぬうっ……おい、主人! 助け舟出してくれよお」
 杉田と軽井が大声を上げて笑う。
 一躍笑い者と化した詰井は、窓際の席に座っていた主人公に泣き付いた。
 だが、主人公は頬杖を付いて窓の外を眺めたままで、詰井の言葉に反応を示さなかった。
 
「おい主人。主人ってば。聞いてるのか?」
 詰井が席を立って主人の肩を揺さぶる。
 そうする事でようやく顔を向けた主人は、覇気のない表情をしていた。
 
 
 
「んあ……?」
「んあ、ってお前は馬か」
「なんだよそれ……で、何?」
「何って……いや、いいや」
 詰井は顔を左右に振って、主人の席の向かいに座った。
 それから、主人の顔を覗き込むようにしながら声をかける。
 
 
「……主人さ。甲子園優勝してから、何か変じゃないか?」
「変って、なにが?」
「元気がないというか、いや、ちょっと違うな。こういう時はなんと言うんだったか……
 とにかく、前のお前とは何かが違う感じがするぞ」
「そうかなあ」
「そうだよ。あれか? 燃え尽き症候群?」
「どうだろうなあ」
 主人が気の抜けた返事を連発する。
 詰井は『これだ』と言わんばかりに大きく嘆息した。
 
 
「……まあ、良いか。主将のお前の心労は俺達以上だったのかもしれないな。
 何かあったら、遠慮なく言ってくれよ」
「……ああ。サンキュー、詰井」
 主人は小さく笑い、詰井に頭を下げた。
 それから、また彼は頬杖を付いて窓の外を見る。
 
 
 
 
 
(……悪いな、詰井。こんな事、相談できないんだよ……)
 具体的にどこを見るでもなく、漠然と窓の外を眺める主人。
 
 夏休みが終わったとはいえ、九月上旬の校庭は、まだまだ夏そのものである。
 青の絵の具を単色で撒き散らしたかのような、濃い青空。
 その空から降り注ぐ殺人的な日差しと、それを照り返すグラウンド。
 遠くの木々からは、休みなく蝉の鳴き声が聞こえてくる。
 
 一ヶ月前と、何の変わりもない夏の光景だ。
 だが、光景に変わりはなくとも、主人を取り巻く環境は大きく変化している。
 甲子園優勝も、もちろんその一つに含まれている。
 だが、もう一つ大きな変化があった。
 尾木靖子の存在である。
 
 
 
 
(なんなんだよ、未来人って……なんなんだよ、俺の孫って……。
 ……なんで、よりにもよって靖子がそうなんだよ。
 それじゃ……好きになったって、どうしようもないじゃないか……
 別れるしか、なかったじゃないか……)
 
 
 
 未来で会おうと約束した靖子の笑顔が、脳裏に浮かぶ。
 無意識のうちに、主人は口をきつく結んだ。
 
 靖子の言う所では、彼女は、将来産まれてくる主人の孫との事だった。
 そして未来では、怪物やロボットの出現によって、世界が半壊してしまう現実が待ち受けているらしい。
 だが、靖子が未来に帰れば、それを防げる人物が過去に来る事ができるという。
 そうする為に……未来を救う為に、靖子は未来に帰る選択をし、主人もまたそれを了承した。
 
 荒唐無稽という他ない話である。
 だが、靖子が未来人でなくては辻褄が合わない話を、彼女は幾つもしてきた。
 目尻に涙を浮かべながら話す彼女の言葉が、嘘だとは思えなかった。
 
 だから……主人は、靖子と別れた。
 世界が壊れてしまうのだ。
 彼女は、自分の孫なのだ。
 どうしようもないではないか……。
 
 
 
 
 
「……ふぅ」
 重く、息を吐く。
 
 そんな主人の姿を、教室の入り口から眺めている少女がいた。
 
 
 
 
「……心ここにあらず……ね」
 少女が、誰にも聞こえなくらい小さな声で呟く。
 野球部マネージャー、木村冴花であった。
 
 
 
 
 
 
 
 
夏の夜の選択
 
 
 
 
 
 
 
 翌日は休日だった。
 甲子園から帰ってきて、初めてのフリーの日でもあった。
 
 
「……あちい」
 主人は、自転車で住宅街を走っている。
 別に、久々の休日を満喫しようと外に出てきたわけではない。
 特に何もやる気がおきず、自宅でぐうたらと寝ていたのだが、父親に叩き出されてしまったのである。
 とはいえ、どこにも行くあてはない。
 とりあえず涼しい所にでも行こうと、主人は住宅街の奥にある図書館を目指していた。
 
 
「……あちい」
 幾度となく呟いた言葉を、また漏らす。
 日差しは、人間を溶かしにかからんばかりの勢いで降り注いでくる。
 帽子を被っていても、額に汗が無数に噴出しているのが感じられた。
 夏の残り香というには、少々優し過ぎる表現である。
 少しばかり思考能力が乱れて、しゃーこ、しゃーこという、自転車を漕ぐ音が、どこか遠くで聞こえているような気がした。
 
 
 
 
「あら……主人君?」
 不意に声を掛けられた。
 
「ん……?」
 自転車を止め、きょろきょろと周囲を見回す。
 近くの民家の前に、打ち水をしている少女の姿があった。
 
「あれ、木村?」
「おはよう。どこに行ってるの?」
 木村冴花が、柄杓を握る手を止めながら尋ねる。
 白を基調としたTシャツにジーパンという私服姿である。
 珍しいと思ったが、すぐに休日なのだから当然だと思い直した。
 
「ん。おはよう。一応、図書館かな」
「へえ。珍しく勉強でもするつもり?」
「いや、家を叩き出されたんで、涼しい所に行きたいだけ」
 肩を竦めながら、そう言ってみせる。
「………」
 あとは、別れの挨拶を交わしておしまいだと思っていた。
 だが、木村はすぐに口を開かない。
 顎に手をあてがい、何か考え込んでいる様子だった。
 
 
 
「……木村?」
「……ねえ、主人君」
 主人の声に上書きするように、木村が喋る。
「あ、はい?」
「涼しい所ならどこでも良いなら、うちに寄っていかない?」
 
 思わぬ提案であった。
 木村から自宅に誘われるのは初めてである。
 どういう事なのだろうか、と考えようとする。
 だが、この炎天下では、ろくな思考ができなかった。
 
 
 
「それじゃ、お邪魔しようかな」
 主人は、ろくに考えをまとめずに頷いた。
 
 
 
 
 
 
 
 ◇
 
 
 
 
 
 
 
「主人君、最近変よね」
 案内された客室で麦茶を飲み干した所で、木村はいきなりそう述べてきた。
 
 
(……なるほど。そういうお話か)
 主人は緩慢な動作でグラスをテーブルに置きながら、眼前の木村を見る。
 クーラーの風で、彼女の髪はささやかに揺れていた。
 その髪の下では、相変わらずきつく横に広がっている切れ長の眼が、主人を見つめ返している。
 
 だが、その眼の中に浮かぶ小さな瞳には、どこか憂いがあるようにも見受けられる。
 木村も、自分の事を心配してくれているのである。
 そういうお話、とは不適切な言葉であると、主人は自身の言葉を内心反省した。
 同時に、あまり自分の中で抱え込みすぎるのも良くない、と思う。
 
 
 
「……そっか。木村にも分かるか」
「誰だって分かるわよ」
「心配かけてごめんな」
「……別にそういうわけじゃないけれど……」
 木村が一瞬視線を逸らす。
 だが、一瞬である。
 すぐにまた主人を直視してきた。
 
「言いたくない事を根掘り葉掘り聞くつもりはないわ。ただ……」
「いや」
 主人が木村の言葉を遮る。
「……良かったら、少しだけ話、聞いてもらっても良いか?」
「……ええ。口にして楽になる事もあるでしょうし」
「ん。サンキューな」
 そう言って笑いかけ、居住まいを正す。
 適度にぼかせば、何の問題もないだろう。
 
 
 
 
 
「木村はさ。自分じゃどうしようもない事に遭遇した事、あるか?」
「……あるけれど、主人君もそういう悩みを抱えてるの?」
「まあ、あるというか、ないというか、ううん、なんと言うか……」
「歯に物が詰まったみたいな言い方ね」
 木村が苦笑する。
 それから、こくりと頷いて彼女は言葉を続けた。
 
 
「良いわ。主人君の事は聞かない。
 そうね。こういう事を聞かれているんじゃないかもしれないけれど、
 私の場合は……顔、かしら」
「顔? 木村の顔の事?」
「そう。これよ」
 木村が自身の目尻を引っ張ってみせた。
 珍しいコミカルな行動を見せられ、主人は肩の力が抜けていくのを感じてしまう。
 
「なんだ。自分の目が気に入らないって事か?」
「ええ。別に自分に自信がないというわけじゃないの。
 差が気になるというか、コンプレックスというか……」
 木村が言葉を濁らせる。
「ふむ?」
「……もう亡くなったけれど……私のお母さん、凄く美人だったの」
「へえ……客観視できる木村が言うんだから、相当だったんだろうな」
「うん。自慢のお母さんだったわ。……同時に、コンプレックスでもあった。
 お母さんはあんなに綺麗なのに、どうして私は怖い顔してるんだろう、って」
「ええと……」
「別に取り繕わなくて良いわ。元々は貴方の事を心配した話なんだし」
「あ、うん」
 反射的に頷いてしまう。
 
 
 
「なるほど。お母さんが美人なのでコンプレックスを感じていた、と。それで?」
「それでって、それだけよ」
 木村は淡々と言う。
「だって『自分じゃどうしようもない事』でしょ。
 どうしようもないから、解決のしようもないわ。それだけよ」
「そっか。そりゃそうだよな」
「……ただし、私の場合は……ね」
「?」
 木村が付け足した言葉の意味が分からなかった。
 思わず首を傾げると、木村はなおも言葉を続ける。
 
 
 
「主人君も、なにか、自分では解決できない悩みがあるんでしょう?」
「……ああ」
 少し声が曇ってしまう。
 
「私の話は、確かにコンプレックスよ。でも我慢できない事じゃないわ。
 貴方の場合は、その所、どうなの?」
「………」
「さっきも言った通り、具体的にどんな悩みがあるのか、私は聞くつもりはないわ。
 でも、もしその悩みが我慢できないものだったら……
 全てを捨ててでも解決しなくてはいけない、重大な悩みだったら、考え直すべきじゃないの?
 もしかしたら、何かを犠牲にすれば、解決できるかもしれない話じゃないの?」
「……木村」
 主人は目を丸くして、木村を見る。
 
 解決できるかもしれないなんて、思っても見なかった。
 考えてみればそうである。
 靖子の告白はあまりにも話が大きくて、あの時は選択肢が見えていなかった。
 だが、靖子を諦めないという選択もあったのではないだろうか。
 
 
 
 
「……お前からそういう体当たりの助言をもらえるとは思わなかったな」
「私だって、なんでも理屈で割り切るわけじゃないわ」
「そうか……そうだよな」
 主人がすくっと立ち上がる。
 それから彼は、歯を見せてにっこりと笑ってみせた。
 
「ありがとう、木村。お前のお陰で、ちょっと見えてきたかもしれない。
 俺、ちょっと用事ができたから、帰るよ」
「うん。頑張って」
 木村は片手をあげて、主人に答える。
 
 主人は深々と頭を下げると、駆け出すようにして玄関へと向かっていった。
 見送る暇もなく、あっという間に、客室には木村一人が残される。
 まるで台風のような男である。
 
 
 
「……やれやれ」
 残った木村は、けだるそうに立ち上がる。
 窓の外を覗くと、主人が猛烈な勢いで自転車を漕いで去っていた。
 
 
 
 
 
「理屈じゃない……か。まったくよね」
 木村は深く嘆息する。
「……女の子の事で悩んでいるのが分かるのは、女の直感って奴かしらね。
 そんな主人君に、なんでアドバイスなんかしちゃったんだろ……」
 
 
 
 
 
 
 
 ◇
 
 
 
 
 
 
 
 この日の夜は、少しだけ涼しかった。
 まだ秋というには程遠いが、たまにそろりと吹く風が心地良い。
 晴天にも恵まれ、満天の星々が余す所なく空に広がっている、良い夜だった。
 散歩をするにはうってつけである。
 開拓高校の前にも、人影が一つあった。
 ……ただし、その人影の目的は、散歩等ではなかった。
 
 
 
 
「……本当に……」
 
 開拓高校前に広がる林には、か細い明かりではあるが、街灯がある。
 人影は、その街灯の下で、手にしていた古い日記を広げる。
 書かれている文字は所々擦れていて、読み難い部分が多い。
 だが、広げられたページには、一際強い文字でこう書かれていた。
 
「……新学期が始まって初休日の夜。
 開拓高校前で交通事故に……遭う……」
 人影の……尾木靖子の肩が震える。
 靖子は、その震えを押さえ込もうと、日記ごと自分の肩を抱きしめた。
 ぎり、と奥歯が噛みしめられる。
 
 
「……未来を変えるわけにはいかない。どの様な影響を及ぼすのか分からない……」
 肩を抱きしめ、俯いたままで靖子は呟く。
「だから私は、今から事故に遭う主人を救ってはいけない。
 この事故が原因でお婆ちゃんと知り合う事だって、あるかもしれない。
 ……けれど……けれど……」
 靖子の肩が、抑え切れない程に震える。
 声は苦しそうだった。
 
 
 
 
 
 
 
「助けちゃいけないなんて……無理だよ、そんなの……」
 
 
 
 
 
 
 
「俺は大丈夫だよ、靖子」
「!!」
 不意に、男性の声が聞こえた。
 靖子は反射的に顔を跳ね上げる。
 よく知った声だった。
 他の誰よりも一番聞いてきた声だった。
 
「え……? ええ……?」
「靖子、ごめんな。事故っての、嘘なんだ」
 暗闇の中から、声が聞こえる。
 一歩、一歩、声の主が近づいてくる。
 街灯の光に微かに触れて、声の主の姿をようやく視認できた。
 
 
 
「……嘘って……」
「それは『今日の昼』に俺が書いた嘘なんだ。
 もう一度、靖子に会う為に書いた嘘なんだ」
「主人……」
 靖子は、消えてしまいそうな声でその男の名を呼んだ。
 
 
 
 
「良かった。もう未来に帰る、みたいな事言ってたから、そういう意味では賭けだったんだけれど」
「……今日を見届けてから、行くつもりだったわ」
「そっか。……あ、嘘ついてごめんな」
 主人が優しい声と共に頭を下げる。
 靖子は、思わず彼から視線を逸らした。
 これ以上、彼の優しい顔を見ていられなかった。
 
 
「だけどさ、靖子。これってこういう事だと思うんだ」
「………」
「未来は、何も確定していない」
「……えっ」
 力のない表情で、靖子が顔を上げる。
 
「このままなら、その日記に書かれている事は嘘になる。
 だけど、今から俺が大通りで車に突っ込めば、現実になる」
「な、なにを……!」
「それはものの例えだよ。俺が言いたいのは……」
 
 
 
 
 主人が一歩、靖子に近づいた。
 ふと、靖子の脳裏に電流が駆け巡る。
 びくり、と体を震わせて一歩後退する。
 もしかすると、彼は……
 
 
 
 
「……靖子の祖母は、あの時の少女じゃなく、靖子自身かもしれないって事なんだ」
「やめてっ!!」
 靖子は叫び声をあげた。
 
 声は、もう完全に涙声だった。
 いつの間にか、眼からはぽろぽろと涙が零れ落ちていた。
 それを拭おうとしない。
 歯を食いしばらせて、眉をひそませる。
 靖子は泣きながらも、主人を睨みつけていた。
  そうしなければ、彼を受け入れてしまいそうだった。
 
 
「そんな事、許されない! 分かっているでしょう!
 ピースメーカーの爆発で世界は半壊するのよ!?」
「それだって、未確定だ!」
「やめてよ! もう私を苦しめないでよ!!」
 
 ぐちゃぐちゃと顔が乱れる。
 これ以上立っていられなかった。
 しゃがみこみながら、それでも日記は離さずに呻き声を漏らす。
 
「私が……私が、どんな思いで、未来に帰ろうと……!!」
「……うん」
「どうしようもないのよ!! 私達、普通じゃないのよ!!」
「……うん」
「結ばれようが……ない……」
「……うん」
「う……うあ……」
 慟哭が漏れる。
 もう、溢れ出る涙を抑える事ははできなかった。
 
 
 
「うあ……うああーーんっ!
 や……やだよぉ……! えぐっ……
 帰り……ひくっ……帰りたく……ないよぉ……!
 ぬ、主人……やだ……やだよぉ!
 うあああんっ! うああああああーーんっ!!」
 
「……靖子」
 主人が、優しく靖子の肩に触れる。
 
 靖子の肩が跳ね上がった。
 顔を上げてはいけない、と靖子は思う。
 顔を上げてしまえば……
 主人の顔を見てしまえば……
 もう、靖子には……
 
 「うあっ……あぐっ、ひっく……」
 
「見えない時間や歴史なんて、どうでも良いんだ、俺は。
 そんな、そんな事より俺は……
 靖子と……靖子と、一緒にいたいんだ」
「……!」
「辛い思いをさせて、ごめんな……
 これからは、それを半分、俺に背負わせて欲しい」
 
「……公ぉっ!」
 尾木靖子は、顔を上げた。
 不確定の未来を共に歩む男は、そっと靖子を抱きしめてくれた。