吸い込まれてしまうような空とは、こういう空の事を言うのだろう。
 
 武内ミーナの運転する赤いスポーツカーは、法定速度を少々超えながら、
 他の車が走っていない海沿いの道で、風を切って走っていた。
 その車の助手席に座っている主人公は、
 シートに深々と背中を預けながら、夏の青空に暫し見入る。
 
 
 
 夏特有の濃い青色はどこまでも深く、爽やかな気持ちを起こしてくれる。
 その青空には、出来たばかりの飛行機雲が、細い白線を引いていた。
 水平線の彼方では、入道雲が沸き起こっていた。
 まるで煙が沸き立つように、横にぐいぐいと広がっている。
 
 今しか見る事の出来ない青空。
 そしてそれに関連付けられるように、この季節しか出来ない事がある。
 海で泳いだり。
 釣りに出かけたり。
 キャンプをしにいったり。
 夏休みを満喫したり。
 若者は、この今だけの空の下で、今だけの青春を謳歌しているのだろう。
 それを考えると、主人は少し感傷的な気分になる。
 
 
 
 
 
「……良いなあ、こういうの」
 風ではためく髪を押さえながら、主人はしみじみと呟く。
 
「ん? どうかしましたか?」
 スポーツカーのラジオは、シャカシャカと流行の歌を流していた。
 ミーナはそれを止めると、ちらと主人を一瞥してそう尋ね、また前を向いた。
「あ……いや、俺、夏って好きなんですよ」
「へえ。なんでまた」
「夏に遊んだ記憶って、殆どないんです。
 野球を始めてからは、夏は毎日野球漬けでしたから。
 だから、こういう夏空を見ると、良いなあって思うんです」
「そんなに毎日野球していたですか?」
「ええ。休日なんか無かったなあ。
 友達が遊びに行ったり、デートしたりするのを、羨ましく見ていました。
 ……でも良いんですよ。俺はこれから、夏を取り返しますから」
 
「なるほどです……あ、でも」
 ミーナは納得したように頷いたが、すぐに言葉を続ける。
「野球もまた、夏の光景だと思うですよ?」
「あー……それは否定しません。それはそうなんですが……
 夏というか、青春を取り返すって感じでしょうかね」
「青春、ですか」
 ミーナは主人の言葉をオウム返しにする。
 スポーツカーがゆるやかなカーブを曲がりだしたので、彼女はハンドル捌きに集中する。
 そこを曲がりると、地平線が見えそうなストレートに突入した。
 そこまで走った所で、ミーナはまた主人公を見た。
 
「それじゃ、今も青春してます?」
「今も……ですか?」
 主人は怪訝そうに片眉を上げた。

 今は、ミーナの『仕事』の手伝いで、とあるビーチに向かっているのである。
 ビーチとはいえ、アルバイトで行くのだから、青春と呼べない。
 それは、確認するまでもなく、彼女も分かっているだろう。
 では、彼女の言う青春とは何なのだろう。
 少し考えてみると、一案が主人の脳裏に浮かび上がる。
 
 ……彼女は、こうして二人でいる事を、青春と言っているのだろうか。
 
 
 
 
 
 
「……いや、今日は仕事ですから」
 結局、主人はへたれた。
 
 
 
 
「ん。そでしたね。お仕事でした」
 ミーナはそう言って苦笑する。
 結局、彼女の真意は主人には分からなかった。
 
 
 
 
 
 
 
 
私、口説かれてます?
 
 
 
 
 
 
 
 ビーチの駐車場は、それ程混んでいなかった。
 清掃が行き届いていて緑も綺麗なビーチである。
 もっと人気があっても良さそうなものだが、空いている。
 都会からここまで来るのに車で三時間。
 周囲に、人口の多そうな都市はない。
 おそらくは、このの辺境っぷりから来る空き具合なのだろうが、なんとも勿体無い話である。
 
 
 
「で……今日のお仕事は何なんです?」
「監視です。よっ……と」
 駐車場の入り口付近にバックでスポーツカーを停めながら、ミーナが答える。
 
「ふむ」
「とある企業の若社長が、ここに遊びに来るかもしれないという情報が入りましたです。
 でも、勤勉な人ですから、そんな事はないと思うですよ」
「そんな事はないのに、監視ですか?」
「そんな事はないから、監視ですよ」
 ミーナはニコリと笑いながら答える。
 
「そんな事がないのに来るとすれば……何か裏があるかもしれないです」
「あっ……」
「ビーチで保養を体裁に、何か密談やら交わされるかもしれないです。なので、その監視。
 とりあえずここに居座って、まずは若社長が来ないか見張るですよ」
「なるほど。納得いきました」
「別に若社長が来ても、乱入だのなんだのはないです。
 あくまでも状況を確認するだけ。
 今日は安全ですから、安心して下さい」
「安全……なのは良いんですが……」
 
 スポーツカーが完全に静止した所で、主人は周囲を見回す。
 木々を隔てた所にあるビーチでは、十数名が海遊びに興じていた。
 出店の様なものも、ぽつぽつと見受けられる。
 だが、他には何も無い。
 ここに来る途中もそうだったのだが、周辺に見るべき所はないのである。
 
 
 
「安全ですけれど、暇になりそうですね」
「まあ、お仕事ですから」
 そう言われれば、反論のしようはない。
「ああ、いや、それはもちろんその通りです。
 ……でも、今日、俺が来る意味ってあったんでしょうか?」
「襲撃された時の用心棒?」
 ちっとも安全ではなかった。
「し、襲撃……!?」
 主人の声が裏返りかける。
「ふふっ、冗談ですよ、冗談。多分、そんな事はないです」
「多分って……」
「まあまあ。
 で、主人さんに来て貰った意味ですけれど、もちろんありますよ」
「……聞きましょうか」
「恋人です」
「は、はいっ?」
 今度こそ、主人の声は裏返った。
 
「ふふふっ。面白い反応ですね。正しくは、恋人のふり、ですよ」
 そんな主人の反応を予測していたのか、
 ミーナは口に手を当ててくすくすと笑いながら、言葉を続ける。
「………」
「だって、こんな所に一人で来た上に泳がないんじゃ、不自然でしょう?」
「それは、まあ……」
「でも、男女二人でしたら、ドライブに来た恋人を装えます」
「……ふむ」
 なんとなく、彼女と視線を合わせ難くて、主人は車の外を見ながら頷く。
 
 
 
 
 
「とは言っても、私もうおばちゃんですから、本当は、もっと年配の人に来て貰うべきだったかもですが……」
 ミーナがそう言葉を続けた。
 どことなく、寂しそうな声にも感じられる。
 だが、主人はまだミーナを見る事が出来なかった。
 
 
 
 
 
 
 
 ◇
 
 
 
 
 
 
 
 それから主人達は二時間程、ルーフを下ろして冷房を利かせた車内で待機していた。
 
 その間は、思っていたよりも暇ではなかった。
 車から出るわけにもいかないので、できる事といえばミーナとの雑談程度なのだが、それが楽しい。
 共通の話題であるデンノーズの事を中心に、ペナントレースの行方やら、ミーナの仕事の事やら、とりとめもない雑談を交し合う。
 ミーナと二時間も話し続けるのはこれが始めてであったが、それに居心地の悪さは感じられない。
 その理由は、実に簡単なものだ。
 主人が、ミーナに好意を抱いているからに他ならない。
 
 一方のミーナも、会話の中に嫌気が差しているような様子は感じられなかった。
 だが、彼女の本意は、主人には分からない。
 危険が付きまとう『仕事』に誘ってくれるという事は、
 それだけ、信頼されているし、遠慮もされていないのだろう、とは思う。
 だからといって、それが好意に直結するものではない。
 
 
 
 
 
 楽しくはあるのだが、同時にどこかもどかしさを感じる会話。
 その会話が一度途切れた所で、ミーナは用意していた炭酸飲料を口にして喉を潤した。
 ごくり、ごくりと美味しそうな音を立てて飲んでいる姿には、どことなく色気があった。
 
「……ふう」
 飲み終えた彼女は、小さく嘆息する。
 
「ミーナさん、お疲れですか?」
「あ……いえ、そういう事ではないです」
 彼女は眉を下げながら苦笑する。
「……不意に、主人さんが羨ましいな、と思ったですよ」
「俺が、ですか?」
「来る途中、青春を取り返すって話しましたよね?」
「ええ」
「それが羨ましいです。私も、青春を取り返したいですよ」
「………」
 
 主人は黙ってミーナを見た。
 一方のミーナは、遠い目をしながら、窓の外に広がる青空を眺めている。
 何かを懐かしむような、それでいて哀しむような、不思議な青い瞳だった。
 
 
 
 
「実は私も、あまり青春には縁がなかったです。
 父の都合で日本に越してきたですが、日本語難しくて、子供の頃はそれを覚えるのに毎日必死でした」
「ふむ……」
「もちろんカレッジに入る頃には、会話に不自由はしなくなりましたよ。
 でも、それからは、他に必死になる事ができたですから」
「ジャーナリストを目指す事、ですね」
「あたり〜」
 ミーナが嬉しそうに軽く笑う。
 
「それからはずっと、ジャーナリストを目指して必死に勉強してました。
 ジャーナリストになってからは、もっと大変です」
「………」
「……だから、私は青春には縁がなかったです」
「ミーナさんも、今から青春を取り返せば良いんじゃありません?」
「そうですね……もちろん、主人さんみたいに、今青春を取り返す事、できるかもしれません。
 でも、この仕事、命を削るような毎日です。明日死ぬかもしれないのに、青春を楽しむような心の余裕はないです」
 
 ミーナの声は、どこか寂しそうである。
 主人には、彼女を気軽に励ます事は出来なかった。
 片鱗だけだが、彼女の仕事の過酷さは理解している。
 
 
 
「……青春を取り返す頃には、私、もう取り返しがつかない位おばちゃんだと思います」
「………」
「ああ、今でも既におばちゃんでしたね」
 ミーナが自虐気味に笑った。
「い、いやっ! そんな事はないですよ」
 主人は慌てて口を挟む。
 仕事の事には口の出しようがないが、その点は否定できた。
 
「あはは。お世辞でも嬉しいですよ」
「いやいや、お世辞じゃなく、ミーナさん本当に若く見えますって」
「そうでしょうか? 肌とか、結構カサカサなんですよ?」
「そんな事ないです! 全然ないです!」
 
 主人は力説する。
 いつだったか、彼女のうなじを間近で見る事があったが、それは実に綺麗だった。
 思わず、むしゃぶりつきたくなるような肌だったのを、主人はまだ覚えている。
 無論、本当にむしゃぶりついては、今頃こうして彼女と一緒にはいられない。
 あの時の悪魔の囁きは凄まじかった事を、彼は同時に思い出す。
 
 
 
 
 
「……そうですか。ありがとうです」
 ミーナは、それ以上自分を否定しなかった。
 納得したというよりは、諦めたようにも感じられる。
 更に食い下がろうにも、言葉でそう言われれば、それ以上肌の美しさを口にする事もできない。
 
(ふむう……)
 主人は、黙ってミーナを見る。
 彼女は、目を細めて駐車場の入り口の方を見ていた。
 口の端は、少しだけ上がっているように見えなくもない。
 綺麗な沈黙だと、主人は思う。
 彼女の高潔さと、この美しさに、主人は惹かれていた。
 
 
 
 
「はふう」
 思わず、溜息をつく。
 胸の奥が何度か強く鼓動するのが自覚できた。
 
「溜息なんか付いて、どうかしました?」
「あ……いえ、別に」
 何か勘違いさせたかもしれないと気が付き、主人は慌てて首を横に振る。
 ……彼に、唐突に天啓が降りてきたのは、その時だった。
 
 
 
 

(……そうか。余裕がないなら……)
 
 
 
 
 
 
 
 ◇
 
 
 
 
 
 
 
 夕方になるまで待ったが、結局、若社長とやらは姿を見せなかった。
 どうやら、入ってきた情報はガセだったようである。
 こんな事もある、と苦笑しながら、ミーナはスポーツカーを動かした。
 
 二人の乗ったスポーツカーは、来た道を戻る。
 行きの時には濃い青色をしていた空は、今では橙色へと変貌している。
 白く輝く雲の間を、ずっしりとした夕日が海に沈んでいくのが見えた。
 
 今日という日が、終盤に差し掛かっているのを主人は感じる。
 ミーナと話しているだけの一日だったが、だからこそ良い一日だった。
 だが、今日はまだ終わっていない。
 更に良い一日になるかもしれない。
 或いは、これから一日が台無しになるかもしれない。
 全ては、これから彼女と交わす会話に懸かっている。
 そう思うと、心臓がまた強く鼓動し始めた。
 ふと、高校野球の記憶が蘇る。
 チャンスで打席に立つ時の方が、まだ平穏でいられたな、と主人は内心苦笑する。
 だが不思議なもので、そう考えると、あの時の自分が背中を押してくれたような気がする。
 恋愛というものは、時には、高校野球みたくがむしゃらに突っ込む事も必要なのかもしれない。
 
 
 
 
 
「ねえ、ミーナさん」
 声が震えないように努めながら、主人は口を開く。
「はい、なんでしょうか?」
 ミーナはちらと主人を見て、それからまた前を見る。
「……待っている間、ミーナさんの青春の話、したじゃないですか」
「ええ、しましたです」
「あれ、思うんですが……心が平穏なら、青春も送れるんじゃないんでしょうか」
「……? ごめんなさい、よく分かりませんです」
「ああ、なんと言ったものかな……
 ほら、ミーナさんの仕事って、命の危険がありますよね」
「ええ。ありますです」
 ミーナはあっさりと言ってのける。
「でも、その危険がなければ、心にゆとりもできると思うんですよ。
 そうすれば、ミーナさんも青春を送れるんじゃないかな、って」
「そうですねえ。でも、それがなかなか……」
「なかなか難しい事は分かります。なので……」
 
 
 
 主人は、一度言葉を切った。
 ミーナを見る事が出来なくて、視線を夕焼けの海に向ける。
 心臓が破裂しそうな程鼓動している。
 
 
 
「……俺に出来る事があったら、手伝います」
「………」
 ミーナは、何も言わなかった。
 主人の言葉の続きを待っているのだろうか。
 
「俺はしょせんただのフリーターですから、大してミーナさんの力にはなれないかもしれません」
「ん……」
「でも、少しでも出来る事があれば……ミーナさんの力になれるのなら……
 その結果、ミーナさんが青春を送れるのなら、力になりたいんです」
「……そんな事したら、主人さんが青春を送れませんよ?」
 ミーナが諭すような口調で言う。
 どの様な表情をしているのか、そっぽを向いている主人には分からない。
 
「……それも、良いでしょう」
 主人はぶっきらぼうに言う。
「………」
「ミーナさんと一緒にいる事も、青春の一部だと思いますし」
「………」
 
 
 
 ミーナが、また沈黙する。
 気のせいだろうか、車の速度が上がったような気がする。
 フロントミラーの左右から触れる風が、強くなった。
 
 
 
「……ね。主人さん」
 ミーナが口を開いた。
「……なんでしょう」
「もしかして……私、口説かれてます?」
「!!」
 
 何気ない口調だった。
 だが、真意を付く問いだった。
 思わず、主人の背がこわばる。
 
 
 
 
 
「……ええ、まあ」
 相変わらずの小さい声。
 だが、主人は、ミーナの言葉を否定しなかった。
 ここまで来て、それは出来なかった。
 
「そですか」
 ミーナは、ぼそりとそれだけ呟く。
 
 
 
 
 それ以上、彼女は何も言わなかった。
 主人も、この上なんと言って良いのか分からずに、口を開かない。
 二人の間に、静寂が訪れる。
 
 今日はこれまでにも、何度か互いに沈黙する事はあった。
 だが、それとは性質の違う沈黙である。
 非常に居心地が悪い沈黙だ。
 ミーナが何を思っているのか。
 ミーナがどの様な表情をしているのか。
 それが気になって仕方がない。
 だが、考えれば考えるほど、主人の心中には悪い答えばかりが浮かんでしまった。
 
 
(……ミーナさん、気を悪くしたかな)
 消沈しながら、そんな事を考える。
 
 ……その時だった。
 
 
 
 
 
「わ、わっ」
 背中が座席に張り付いた。
 思わず主人は声を漏らす。
 スポーツカーが、一気に加速したのである。
 どうしたのだろうかとミーナを見ようとしたが、横を向いたのと同時に、ミーナのベレー帽が風で飛ばされるのが見えた。
 
「あっ」
 反射的に手を伸ばすが、届かない。
 風に舞うベレー帽を後ろに、スポーツカーはなおも速度を上げる。
 
 
 
「……急にどうしました?」
 主人は今度こそ、隣のミーナを見る。
 彼女の頬は、真っ赤に染め上がっていた。
 夕日による赤色ではない。
 明らかに、彼女の狼狽を示している赤色である。
 
 
「……主人さん」
 ミーナが主人の名を呼ぶ。
 彼女にしては珍しい、消えてしまいそうな声だった。
 
 
 
 
 
 
 
「嬉しいです。凄く。
 ……ええ、本当に嬉しい」
 
 武内ミーナは、目じりに涙を溜めながら微笑んだ。