その日、白瀬芙喜子は雨音で目を覚ました。
 
「……ん」
 ゆっくりと瞼だけを開く。
 そのまま身体を動かさずに、ただ耳を澄ます。
 聞こえてくるのは雨の降る音だけで、雨が窓を叩くような音までは聞こえてこない。
 どうやら、小雨のようである。
「……よりにもよって雨か」
 少しばかり憂鬱な気持ちで身体を起こす。
 だが、ベッドから抜け出す頃には、晴天よりは自分らしくて良いと開き直っていた。
 
 
 今日がその日だという事は、目を覚ました瞬間に分かった。
 
 
 体調がすこぶる良いのである。
 終末を予感させる体調不良が、嘘のように消えてなくなっているのである。
 自身の身体の作りを全て熟知しているわけではない。
 だからそれが何を意味する事なのか、彼女は知らない。
 しかし、直感はその日だと告げていた。
 
 
 
「この感じ……朝起きたら風邪をひいていた時にも似てるわね」
 頭をかきながら洗面台に向かう。
 顔を洗って、適当に癖っ毛をブラシで撫でる。
 鏡に映っている自分の顔を凝視すると、酷く目立っていたクマが消えていた。
 体調の良さは気のせいではないようである。
 
「あー、こりゃ確定ね」
 鏡に映った自分に向かって頷き、キッチンへ向かう。
 冷蔵庫から朝食代わりの野菜ジュースを取り出してコップに注ぎ、一気にあおる。
 それから、寝室に戻ってパンツスーツに着替えた。
 日頃と変わらないルーチンで朝支度が淡々と進んでいく。
 特に変わった事をしようという気は起きなかった。
 この特別な日を迎えながら、なんとも自分らしいものだと苦笑さえ零れる。
 
 
 
 
 
 結局、彼女は誰にも連絡を入れず、携帯電話も自宅に残したままで玄関を潜った。
 挨拶しておくべき者には、もうそれは済ませている。
 連絡が付かない者もいたが、どうしようもない。
 探して連絡する事も出来たかもしれないが、過剰に心配されるか、お前らしくないと笑われるか……
 いずれにしても、自身が求めているリアクションが返ってこない気がしたので、探す事はしなかった。
 
 
「さて、それじゃあ行きますか」
 一面の曇り空を眺めながらそう呟き、傘を開く。
 
 白瀬芙喜子は、最期の時を迎える為に歩き出した。
 
 
 
 
 
 
 
………
……

 
 
 
 
 
 
 
 マンションを出た彼女は、少しだけ名残を惜しんだ。
 特に目的もなく、ビル街を散策したのである。
 都会の狭苦しさと人々の雑踏の中で長く暮らすうちに、それらには安らぎさえ覚えるようになった。
 この日も案の定、会社勤め達が足早にビルの合間を縫って歩いている。
 夜にはこれに若者も加わり、ネオンの中でまた異なる雑踏を生み出すのだろう。
 
 しかし、ここで最期の時を迎えてはひと騒動起こしかねない。
 それではどうしたものかと考えた彼女は、一月前には結論を下していた。
 
 海に出るのである。
 小型ヨットで海に出て、空を眺めながら酒とつまみを口にして、最期の時を迎えるのである。
 自身の心肺停止と同時に沈没するように作られたヨットは既に用意しており、ヨットハーバーに控えていた。
 ヨットの準備と維持は相当な出費ではあったが、遺産を譲る相手はいない。残しておく事こそもったいない話である。
 
 
 
 
 散策を終えた彼女は自宅駐車場に戻り、車を出した。
 高速道路に乗り、一時間程走った所で、ヨットハーバーのある街に着く。
 少しばかり期待していたが、残念ながらこの街も天候に変わりはない。
 空を気分良く眺めながらという希望は叶いそうになかった。
 
 途中でコンビニに寄って酒とつまみを一応購入した後は、特に寄り道せずに、まっすぐヨットハーバーに向かう。
 この天候では他に客はおらず、手続きはスムーズに済んだ。
 受付で待機し、支度が済んだ連絡を受けてから外に出る。
 受付から300m程歩いた所に、用具用の倉庫が立ち並んでいた。
 その更に奥に、ヨット群が見える。
 
 
 
「さて。行きますか」
 小雨に叩かれる傘を掲げながら、ヨット群の方へと向かう。
 その中から、比較的手前にある自分のヨットを見つけた……その時であった。
 
 
 
「!!」
 ヨットから不意に閃光が漏れる。
 彼女は傘を放り出し、反射的に倉庫の影へと跳ねた。
 地響きを伴いながらヨットが爆発するのは、それとほぼ同時であった。
 
「ちょっと、どういう事よ、これ……」
 眉を顰めながら、顔だけを出して海岸を覗き込もうとした。
 しかし、それと同時に何かが接近する気配を察して後退する。
 同時に胸ポケットから拳銃を取り出して身構えた。
 何者かが芙喜子の前に飛び出した時には、彼女は既に戦闘態勢を取っていた。
 
 
 
「……あんた、確か……」
 拳銃を前方に向けながら、片眉を顰めて相手を一瞥する。
 なぜこの者が、今になって自分を狙うのかは分からない。
 仕留めずに逃がしてしまったのは失敗だった、とだけ思う。
 
「メリークリスマス……!!」
 ロボットアームを用いて四本の刀剣を構えたマゼンタは、血走った眼をしていた。
 
 
 
 
 
 
 
 
白瀬芙喜子 最期の一日
 
 
 
 
 
 
 
 白瀬はそれ以上口をきかなかった。
 
「ふっ!」
 腹部に力を込めて息を洩らしながら、横に駆けつつ発砲する。
 同時に視界がブレた。
 着弾の結果は視認できなかったが、かわされたか、大したダメージではない事は気配で察する事が出来た。
 
「くう、っ……」
 そのまま別の倉庫の物陰に駆け込む。
 駆け込むというよりは、もつれ込むという方が正しいのかもしれない。
 激しい運動を伴うと、途端に気が遠くなり、全身に強い圧力を感じた。
 もう”長くない”ようである。
 
 
「おやおや、千鳥足じゃないか!」
 甲高い声が急速に接近してきた。
 また後方に跳ねて距離を取ろうとするが、今度はマゼンタの動きの方が速い。
 瞬時に距離を詰めてきたマゼンタの刀の一本が腕を掠める。
 脂汗が全身に流れ、焼けつくような痛みを覚えるが、それでもなんとか距離を取る事には成功する。
 同時に銃を構えれば、マゼンタもうかつには追撃にシフトできず、互いに対峙する形になった。
 この距離であれば、マゼンタの攻撃から逃れる事は出来る。
 だが、サイボーグであるマゼンタとしても、拳銃の弾をかわす事は容易であろう、と芙喜子は思う。
 
 
 
 
「ふう……」
 小さく息を吐いた。
 一瞬の静寂。
 ただ、二人を叩く雨音だけが聞こえる。
 その間も、マゼンタから視線は切らない。
 
「今の私に用がある奴なんかいないはずだし、大方、リベンジマッチって所かしら?」
「御明察」
 マゼンタが不気味に笑う。
 改めて見ても気味の悪い包帯姿だった。
 
「あの屈辱的な敗戦だけは、許す事が出来ない……!
 ああ、安心して良いよ。他の奴らもお前の後でちゃんと仕留めてやろう」
(……ちっ)
 芙喜子は内心忌々しげに悪態を吐く。
 だが、表情は変えずに無関心を装った。
 
 
 
「……ビルから落下しても生きているとは、流石は新型ね」
「羨ましいかい、白瀬芙喜子」
「まさか。私は私の身体で満足よ」
 鼻で笑いながらも、なおも彼女を観察する。
 やはり、自律作動するロボットアームが厄介である。
 しかし、マゼンタにはそれ以上の武器があったはずだ、と芙喜子は考える。
 
(……もしかすると、この間の落下でセンノヤイバが使用不可なのかもしれない。
 使えるのなら、一太刀貰った時にそのまま止めを刺されている)
 
 状況を観察しながら、じりじりと後退する。
 あの反則まがいの能力が無ければ、一人でも勝機はある。
 いや、ただ単に勝つだけなら、確実に勝利する方法はあった。
 
 彼女の弱点は既に把握済み。
 トラウマとなっているクリスマスソングである。
 携帯を持っておらず、出力装置は無かったが、ならば自分で歌えば良いだけの事だ。
 
 
 
「逃がしはしないよ……お前がここに現れるのをずっと待っていたんだ!」
 マゼンタがまた跳躍した。
 
 一撃目を大きなバックステップでかわす。
 更に二本目の刀が振られる。
 今度は上半身をよじってかわした。
「ふっ!!」
 足もとに向けて発砲。
 マゼンタの動きがひるんだ隙に大きく距離を取る。
 だが、大した隙ではない。
 すぐに距離を詰められた。
 眼前で刀が閃く。
 
「っぅ……!」
 左肩に鈍痛が走る。
 食い込んだ刀をはねのけて後退。
 自分よりも運動性が高いのは明らかだ。
 とは言っても、あの脚は止める事が出来る。
 ここで、彼女の弱点であるクリスマスソングを口ずさめば、おそらくは動きを完全に止める事が出来る。
 だが……
 
 
「そんな間抜けな勝ち方するくらいなら、死んだ方がマシよ!!」
 マゼンタの頭部に向けて三発発砲。
 全てかわされたが、決まるとは思っていない。
 その隙にもう一度別の倉庫の影に隠れる。
 隠れてばかりだが、そうせざるを得なかった。
 
 
 
「はあ、っ……はあ……ぐうっ……!」
 傷口は見ない。見る余裕もなかった。
 朦朧とし始める意識の中、弾を補充する。
 身体が自由に動けば、クリーンヒットとはいかなくとも、ダメージは与えられたはずだ。
 もう本当に時間は残されてないようである。
 
 
(なんで私、戦うのかしらね)
 意識は重かったが、そんな疑問がふと浮かんできた。
 
 もう余命幾ばくもない身である。
 勝とうが負けようが、大差無いのである。
 ならば、こうも苦しい思いをする必要はないのである。
 では、なぜ戦うのだろうか。
 瞬くような時間ではあるが、自問する。
 
 
 
「……思い出した」
 壁に背中を預けながら、呟いた。
 雨が伝う頬が弛緩する。
 あれは何年前だっただろうか。いや、細かい事はどうでも良い。
 あの男と、水族館へ行った事があった。
 泳ぎ続けないと呼吸ができなくなって死ぬサメを見ながら、口にしたのだ。
 
 戦い続けて、狩り続けて、それで疲れきって、戦えなくなって。
 つい休もうとしたら……おしまい。
 まるで、自分らの生きざまだと、それが格好良いと、あの男に言ったのだ。
 
 
 
 
 
「まだ、身体は動くんだから戦う。それだけの事よ。
 ……ね、そうでしょっ!」
 身を躍らせて飛び出す。
 
 余力を振り絞り、マゼンタに向けて再度発砲。
 この距離、この視界では当たらない事は分かっている。
 マゼンタがそれらをかわした所へ、一気に距離を詰めた。
 
 
 
「この距離ならあっ!!」
「ぬああああああっ!!」
 互いの叫び声が交錯する。
 僅かにマゼンタの方が速く動いた。
 脇腹に重たい感覚を感じる。
 ただでさえ朦朧としていた意識が、殆ど途切れてしまう。
 だが、この距離なら見える。
 狙うべき場所が見える。
 
 白瀬芙喜子の指は、まだ動いた。
 
 
 
「ふぐ! ぐうっ……!!」
 呻き声を漏らしたのはマゼンタだった。
 至近距離で複数の銃弾を浴び、たたらを踏む。
 銃弾で絶命するような身体ではなかったが、至近距離で撃たれればそれなりのダメージになった。
 芙喜子を貫いた刀を抜き、苦しみながら距離を取る。
 撃たれはしたが、マゼンタの身体はまだ自由がきいていた。
 
 
「貴様……む、うっ……?」
 マゼンタが怒声を放とうとする。
 だが、すぐに言葉を詰まらせた。
 両手とロボットアームを交互に眺め、次に着弾箇所に触れる。
 マゼンタが帯びていた怒りの表情は、自身の身体の異変を知り、徐々に狼狽へと変わっていった。
 
 
 
「まさか……いや、それしか考えられない……
 センノヤイバ発生装置とロボットアームを狙い撃ったのか?」
 マゼンタが声を震わせる。
 
 もとより故障していたセンノヤイバ発生装置は完全に破壊されていた。
 のみならず、ロボットアームも動かない。
 そこもまた動力部が撃ち抜かれていたのである。
 マゼンタの復讐の対象は、まだ他にも残っている。
 なのに、ここで二つの特性を失っては、それもままならなかった。
 
 
 
「答えろ、白瀬芙喜子! こた……」
 マゼンタがなおも問い詰めようとする。
 だが、マゼンタの言葉は途切れた。
 
 
 言葉を投げかけた相手は、安らかな表情で立ち尽くしていた。
 白瀬芙喜子は、もう動かなかった。