冬もいよいよ本番に差し掛かった。
 公園のベンチに背中を深く預けながら、主人公はそう思う。
 この所随分と冷え込んできた空気は、長旅で所々穴の空いたコートを貫通して、身体に突き刺さってくる。
 すっかり緑の削げ落ちた木々や、どんよりとした色の空も、季節が冬である事を教えてくれていた。
 
 公園には、他には誰もいなかった。
 平日の夕方である。暇な者はそういないという事なのだろう。
 ではその点自分はどうなのだろうか、という自問に至った彼は、思わず苦笑する。
 もっとも、今年はそれほど暇を持て余しているわけではない。
 
 
 
(遠前町では、四季全てを過ごす事になるのか。
 定職にも就いたし、大分長くいついてしまったな)
 空を見上げた。
 感傷に浸りながら、この町に来てからの事を考える。
 
 カンタを助けたのが、全ての始まりだった。
 暫く町に居つく事になった。
 野球チームの助っ人に加わる事となった。
 山下のお父さんの米屋で住み込みで働く事になった……
 
(……ん?)
 手を顎にあてがい、頭を下げる。
 
(あれ……なんで俺は米屋で働いたんだ?
 それに、なんでお父さんなんて呼び方を……)
 腕を組んで、記憶の発掘に集中する。
 だが、思い出せない。
 忘れようのない大きな変化のはずなのに、理由が思い出せない。
 記憶が抜け落ちたかのような感覚がする。
 大事な事だった気はしているのに、どうしても出てこない。
 
 
 
 
 
「……さん……びとさん……」
「ん……?」
「……主人さん!!」
「あ……」
 誰かから名前を呼ばれた事に気がついて顔を上げる。
 いつの間にか目の前には、制服姿の山下貴子がいた。
 考え込んでいたとはいえ、なぜ目前に来るまで気がつかなかったのだろうか。
 
 
「やあ、貴子。学校の帰りか?」
「うん。……それはそうと、どうしちゃったの? さっきからずっと声を掛けてたのに」
「あ、いや……」
 言葉を濁す。
 ちらと彼女の顔を覗き込んだ。
 儚い、寂しげな表情が、そこにはあった。
 
 
 
(またか……!)
 記憶の欠落の理由が分かった。
 同時に、強い喪失感が心中に吹き荒れる。
 
 主人が米屋で働くきっかけとなった山下貴子は……
 眼前で寂しげに佇んでいる、主人が愛する少女は、人間ではない。
 
 彼女は、死後も形を持って現世に留まった幽霊である。
 だが、それは生命の理から外れている。
 彼女の存在は、徐々に理の中へと収束していた。
 つまりは、その存在が消えつつある事に、貴子は最近気がついた。
 そして皮肉にも、それは、二人が愛し合っていると気づかせてくれる出来事でもあった。
 
 
 
「あのさ、貴子」
 取り繕おうと、彼女の名前を呼ぶ。
 彼女は、自分が消える事を恐れていた。
 だから、そうならないように主人が彼女の傍に居る。
 そうありたいはずなのに……彼女の記憶の欠落は、悪化の一途を辿っていた。
 
「あたし、先に帰るね」
 貴子は、主人に背中を向けて歩き出した。
 何かを諦めたような、寂しげな背中が遠ざかる。
 
「あ……」
 彼も立ち上がりはするが、追いかけるタイミングを逸してしまった。
 タイミングなど無視して追いかけ、抱きすくめるべきだ。
 そう分かってはいるのに、なぜか、体が動かなかった。
 
 
 
 
 
「………」
 貴子の姿は見えなくなった。
 取り残された主人は、またベンチに腰掛ける。
 
「……ちくしょう!!」
 唐突に怒鳴り、ベンチを強く殴りつけた。
 手には痛みが走るが、心中の痛みはそれ以上のものだった。
 
 
 
「なんでだよ……どうすればいいんだよ……」
 両手で顔を覆い、深く息をつく。
 
「居て欲しいよ……貴子に消えて欲しくなんかないよ……
 なのに、なんで貴子の記憶が無くなるんだよ……
 どうすれば、貴子は消えないんだよ……」
 恐怖心と焦りが、言葉となって零れ落ちる。
 
 どう足掻いても、彼女は消えつつあるのだ。
 失いたくない人が、この世から消えつつあるのだ。
 なのに、それを黙って見ている事しか、自分にはできないのだ。
 
 
 
「助けてくれ……誰か……」
 切ない声を漏らす。
 答えが帰ってこない事は分かっていた。
 それでも、求めなければ、不安で押し潰されそうだった。
 
 だが――
 
 
 
 
 
「大丈夫か、主人」
 返事が聞こえた。
 貴子がいた時のリプレイのように、はっと顔を上げる。
 彼の眼前にいた声の主は……やはり、貴子と同様に人間ではなかった。
 
 
 
「今話していた娘、人間ではないな?」
「ムシャ……」
 鎧姿の異形のチームメイト、亡霊のムシャの姿が、そこにはあった。
 
 
 
 
 
 
 
 
必要の証明
 
 
 
 
 
 
 
 翌日、雪が降った。
 天気予報では曇りであったが、午後から降り始めた雪は、すぐに吹雪といっても差支えがない程の勢いに達した。
 普段であれば、このような雪中を好んで歩くものではない。
 だが、この日に限っては良いきっかけである、と主人は思う。
 
 夕方になると、主人は腰を上げた。
 ズボンとインナーを纏い、その上に、貴子の父から借りた厚手のコートを羽織る。
 いつもの格好ではなかった。
 内ポケットに紙を一枚入れると、傘を一本余分に持って米屋を出た。
 すぐに吹きつける雪を傘で遮り、主人は軽く胸を叩いた。
 
「……不安は無いけれど、緊張するな」
 口の端を上げて、一人で笑う。
 それから彼は、比較的雪が積もっていない所を選んで、貴子の学校へと向かった。
 
 
 
 
 
………
……

 
 
 
 
 
『残念ながら、ムシャはその少女を救う方法を知らない』
 事情を話した主人に対して、ムシャは無表情で顔を横に振った。
 しかし、主人が消沈する前に、彼はその先の言葉を続けた。
 
『だが、自分の事なら分かる』
『自分の事って、どういう事だ?』
 主人はムシャの言葉をオウム返しにする。
 
『ムシャは、亡霊だ。
 だが、ビクトリーズを勝利に導きたいという希望から形を成した。
 その話、覚えているか?』
『ああ……』
『ビクトリーズが年末の試合に勝てば、ムシャの仕事は終わり、成仏できるだろう。
 逆に言えば……ムシャは、ビクトリーズの勝利の為に求められる間は、存在し続けるのだ』
『!! つまり……』
 主人の声に張りが出る。
 ムシャは、その威圧的な姿には似合わない笑みを浮かべて頷いた。
 
『あくまでもムシャの事だ。その少女もそうである保証は無い。
 だが……お前が本当に必要とすれば、少女は消えないのかもしれない。
 ……少女が消えない事を、ムシャも願おう。
 ムシャがこうしても、意味は無いのだろうが、願わせてくれ』
 
 
 
 
 
………
……

 
 
 
 
 
「主人さん、ありがとう。帰りはどうしようか悩んでいた所だったの」
「いや、間に合ってよかった」
 主人が学校の校門前に辿り着くのと、貴子が学校から出てくるのは、計らずともほぼ同時だった。
 貴子はにっこりと微笑んで、主人から傘を受け取ってくれた。
 
 
 それから、二人並んで帰宅路を歩く。
 雪はまだ止む気配がなく、傘が無ければすぐに雪にまみれそうだった。
 地面も滑りやすく、二人の足取りはゆったりとしたものになる。
 転ばないようにしながら、二人は取り留めのない雑談を交わす。
 
 その雑談の最中、主人は彼女の表情を横目で伺った。
 寒さからか、貴子の頬は少々紅潮していて、口からは白い吐息が漏れている。
 瞳は穏やかで、静かな笑みを携えていた。
 これが、消えつつある少女の様子とは思い難かった。
 
 
 
 
「……主人さん」
 河川敷を歩き出した所で、貴子が立ち止まって主人の名を呼んだ。
 周囲に人影はない。
 主人も黙って立ち止まると、貴子に向き直る。
 辺りに緊張感が張り詰めたのを、彼は察した。
 
 
「昨日は、一人で帰ってごめんなさい」
 ぺこりと頭を下げられる。
「いや、俺こそ……」
「ううん。主人さんは悪くないわ」
 そう言って、彼女は首を傾げる。
 
 
 
 
 
 
「……あたし、もう長くないと思う。
 きっと、どうしようもないのよ」
 
 微笑んだままで、彼女はそう言った。
 寂しい言葉だ。
 それなのに、彼女の声はどこまでも澄んでいた。
 これが悟るという事なのだろうか。
 
 
 
 
 
 
「いや……」
 だが、主人は首を横に振る。
 
 真っ直ぐに貴子を見つめながら、片手でコートをはだけさせて、もう片手を胸ポケットに入れる。
 首で抑えていた傘がバランスを失って落ちたが、気にも留めず、胸ポケットから紙を取り出した。
 
「貴子」
「……はい」
「頼みがあるんだ」
「……なに?」
 
「その……」
 ゆっくりと、手にした紙を彼女に差し出した。
 貴子の小さな手がそれを受け取る。
 同時に、主人は言葉を続けた。
 
 
 
 
 
「俺と、結婚してくれないか?」
 
 
 
 
 
「え……」
 貴子は、目を見開いた。
 主人を見つめ返したまま、微動だにしない。
 やや間があってから、視線だけを受け取った紙に移す。
 それは、彼の名が書かれた婚姻届だった。
 
 
「え? え、ええっ……?」
 ようやく主人の行動が飲み込めてきたようで、貴子の声が狼狽交じりになる。
 主人と婚姻届を交互に見るが、漏れる言葉は形にならないものばかりだった。
 
「俺じゃ、駄目か?」
「あ、え、ううん、そうじゃなくて……
 私、高校生だし、死んでるし、長くないし、えっと……」
「関係ないさ」
 主人は優しく言った。
 
「いや、だからこそ……と言うべきかもしれない」
「………」
 貴子が沈黙する。
 主人に何か思う所があると察したようだった。
 
 
 
 
「俺さ。今、すごく幸福なんだよ。
 毎日働いて、貴子とお父さんと三人で同じご飯を食べて、笑いあって。
 なんでもない事が、とても幸せなんだ。
 ……その幸せの為には、必要なんだよ。貴子が」
「……ん」
 
「でも、それだけじゃ、今の幸福に過ぎないんだ。
 言葉や気持ちでは、貴子を必要としても、先々まで必要だと証明するものはない。
 だから……」
 一度言葉を切る。
 貴子に歩み寄った。
 彼女はいつの間にか顔を伏せていて、その表情を伺う事ができない。
 それでも、主人は構わずに言葉を続けた。
 
 
 
「……だから、結婚しよう?」
 
 貴子の肩が僅かにはねた。
 
 
 
「ずっと、ずっと必要なんだ。貴子が。
 そうである間、貴子は消えない。
 俺は、そう思うんだ」
「………」
 貴子は沈黙したままだ。
 主人も、それ以上は何も言わなかった。
 黙って孝子を見つめ続ける。
 
 
 
 
 
「……主人、さん」
 顔を伏せたままで、貴子が呟いた。
「……でも……でもね?
 そうありたいと思っていたけれど……改めて考えたら……
 それは、生命のルールから、外れるんじゃ、ないのかな……」
 
 声が震えている。
 貴子が顔を上げた。
 彼女の頬では、涙が静かに流れていた。
 
 
 
「……あたし、この世に居てもいいのかな?
 人間じゃないのに……駄目なことじゃないのかな……それって……」
「いいんじゃないかな。
 そんな奴の一人や二人、他にもいるだろうさ」
 主人が笑い飛ばす。
 
「……あたし……あたし……
 主人さんと結婚しても、いいのかな?
 ほんとうに、いい、のかな……」
 声が更に震えている。
 どこか怯えの篭った声。
 歯が、少しだけ打ち鳴らされていた。
 
 
 
 
「貴子」
 もう一度、愛している少女の名前を呼ぶ。
 
 
 
 
「結婚しよう?」
「……うんっ!」
 貴子は、主人の胸へ飛び込む。
 しっかりと実体を持ったそれは、主人の両腕に抱きとめられた。