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彼は、旅館の窓際で夜空を眺めていた。
雲は一つも見えない。
明日は炎天下となるだろうという天気予報は、どうやら当たりそうである。
夜空に浮かんでいる月は、なにか特別な輝きを持っているように見えた。
それは、月ではなく、今の自分の環境が特別だからそう感じるのだろう。
あれは、何十年前になるだろうか。
同じように月を見上げた夏があった。
あの時とは、泊まる旅館も立場も違うが、あの夏の月に似ているのかもしれない。
(……ガラじゃねえなあ)
苦笑して、ハーフパンツのポケットに手を突っ込んだ。
固い物の感覚を確かめると、窓に背中を向けて外に出ようとする。
同室の少年達は、彼を気に留めようともせず、雑談にふけっていた。
だが、直前まで行われていたミーティングに参加する為に部屋を訪れていた少女だけが、彼の動きに気がつき、声を掛けてきた。
「どこに行かれるんですか?」
「どこって……決まってるだろ?」
指で円を作り、それを口元であおる仕草をしてみせる。
「お前らの前じゃ、落ち着いて飲めそうにねーからなあ」
「……明日は大事な日なんですから、深酒はしないで下さいね」
少女が、元々切れ長の目を一層細め、軽く睨みながら言う。
「おう、分かってる、分かってる。じゃあなー」
からからと笑い飛ばし、部屋を出る。
廊下には誰もいなかった。
歩きながら、ポケットの中にある携帯電話を取り出し、ストラップを指で回す。
階段を下りると、フロントの傍にはロビーがある。
幾つかのソファとテレビが備えられていた。
そこに誰もいない事を確認すると、ソファに深く背中を預けて座り、電話をかけた。
五回目のコールで、相手は電話に出た。
「はい、もしもし?」
「よー、俺だよ、俺俺!」
「ウチには俺なんて名前の知り合い、おりませんなあ。ほな……」
関西独特のイントネーションで返された。
「お、おいおい! 待てよ真賀津! 携帯に俺の名前出てるだろ!?」
慌てて電話の相手の名前を呼ぶ。
携帯電話の向こうで大きな溜息が聞こえてきた。
だが、電話は切られなかった。
「ええ、分かってます。
どうしたんですか、村田さん。開拓さんは明日が試合でしょうに?」
「おう。それだよ。それとも関係がある質問があってだな」
そう言いながら、村田克哉は背筋を伸ばす。
「質問? 申し訳ありませんけど、どこで誰が聞いているかも分かりません。
お互い甲子園の試合を控えているんですから、変な話は……」
「まあ、そう言うなよ。答えたくないならそれで構わないからさ」
「……聞きましょうか」
真賀津が一呼吸おいて言う。
同じく、村田も少し間を置いてから、本題を切り出した。
「……俺達が球児の頃の、日の出と大安の決勝でさ……」
腐れ縁の始まり
翌朝、朝食を終えた開拓高校野球部の面々は、出発前の最終ミーティングを行った。
その席で発表されたスタメンオーダーは、地方大会決勝のものと同様であった。
だが、投手である詰井理人の名が告げられた瞬間、部屋には、不自然な沈黙が一瞬生じた。
地方大会決勝は、まさに死闘であった。
終盤までの投手戦が一転し、終盤に長打を浴びた詰井が、突如崩れたのである。
長打の後で短打を連続で浴びて二失点。
焦りでコントロールを乱してランナーを出す。
次の打者には、ストライクを入れにいった所を狙われて更に二失点。
それでまた制球を乱してデッドボール。
最悪の展開で、彼は四失点を喫して降板した。
だが、そこをリリーフした澄原が試合の流れを変える。
無死走者一塁二塁のピンチを、三者連続三振に抑えて完全に流れを絶つと、野手陣がそれに応えた。
狙い球を絞って雨崎を打ち崩して逆転。
最終回も澄原が三者凡退に抑える試合だった。
それ以来、チームの中には、甲子園緒戦を澄原先発で迎える空気が自然と生まれていた。
詰井もバランスの良い好投手ではあったが、澄原の能力はそれを上回っている。
スタミナ面では詰井に劣るものの、彼女とて海底分校では先発を勤めた実績がある。
何よりも、勝負根性が彼女にはある。
甲子園という未知の大舞台でもアガらないのではという貫禄がある。
皆、詰井の能力は認めていた。信頼もしていた。
だが、それは澄原に対しても同様であった。
「あー、従来のオーダーはキャプテンの主人に考えてもらっていたが、
今日のオーダーだけは、俺の意向を反映させてもらったぞ。以上!」
スタメン発表を終えた村田がそう告げる。
それを待っていたかのように、詰井が挙手した。
「あの……」
「なんだ、詰井?」
「ムラッチ、なんで俺が先発なんだ?
澄原の方が適任だと思うんだけれど……」
ずばり、聞く。
室内の雰囲気が分かっていないのか、或いはそういう雰囲気だからこそ自分から聞きにきたのか、村田には分からない。
だが、はっきりさせておいた方が良い、と思う。
「まあ……はっきりと言えば、思い出采配だな」
「お、おも……」
詰井が目を見開いた。
怒っているのか、驚いているのか。
両方かもしれない。
他の部員にも、似た表情の者が何名かいた。
僅かなどよめきや、はっきりとは聞こえない呟きが生まれる。
隣の木村冴花も鋭く村田を見つめていた。
だが、彼女の口は開かれてはいない。
「まあ、待て、待て」
軽く手を上げて制する。
「まず、言っておく。俺は甲子園でお前ら全員を起用するつもりだ」
「なら、まずは澄原でいっても……」
詰井がなおも食い下がる。
「そこだ。他のポジションならまだしも、投手ってのがポイントだ」
村田がひょうひょうと言う。
その日頃と変わらない調子に、だんだんと室内には落ち着きが生まれ始めた。
「全員起用するつもりでも、投手は起用順を考えにゃあならんのだ。
仮にお前が打ち込まれても、澄原に代えればまだ試合にはなる。
だが、澄原の後にお前を出したら、その先取り返しがつかない事もあるだろう?」
「なるほど」
「そりゃ確かにそうだな」
何名かの部員が頷きあう。
詰井は、まだ渋い顔をしていた。
「ああ、勘違いするなよ? 仮の話だし、それにお前を起用する理由は他にもある。
お前の方がスタミナはあるし、澄原よりも先発慣れしている事情もある。
澄原は澄原で、終盤のピンチでギアを上げる事ができる根性がある。
適正って奴だよ。適正。……主人の受け売りだけどな」
「……そっか」
詰井が小さく呟く。
「そうだ。私もお前の方が適任だと思う。頼むぞ、エース」
詰井の隣でそう言ったのは澄原だった。
口の端を僅かに上げながら檄を飛ばす。
それを受けて、詰井の表情も引き締まった。
「監督」
今度は、村田の隣に座る木村が手を上げた。
村田が彼女を見やると、木村は居住まいを正して口を開く。
「先発起用の意図は理解できました。
……ですが、いきなり思い出采配、というのは……
何か意図があっての事だとは分かっていますが……」
「ああ……」
村田がぽりぽりと頭をかく。
正直な所、そのやり方には100%の自信を持てないでいた。
この試合の結果で、人生が変わる子がいるのかもしれない。
良い思い出を与えたいという気持ちは、エゴなのかもしれない。
だが、その迷いも昨日までの事である。
『決勝で負けて良かったか……ですか。
村田さん、何言ってるか分かってます?』
電話越しに真賀津が呆れているのは、村田にも理解できた。
『おお。分かってるぞ』
『それじゃ、答えも分かってますやろ』
『………』
『結局翌年も甲子園にはいけず、プロにもなれなかったわけですさかい。
極端な話、あそこで負けたから、プロでぎょうさん金稼げなかったようなもんですわ』
『……そうか』
ぼそりと言う。
『とまあ、二十代の頃なら、それで終わりですわな』
『………』
『そら、負けて人生大きく変わりましたわ。
……そやけど』
『……おう』
『今の人生には満足してまっせ。子供達の成長を見守って、野球にも携われる。幸福ですわ。
金かてあるには越した事ありまへん。プロになった上で豊かな人生を送れれば、最高だったかもしれまへん。
そやけど……それは仮の話や。今の人生が幸せである事を揺るがすものやない』
真賀津が言う。
落ち着いた口ぶりだった。
その満足の裏で、それなりの苦労をしたのだろう、と村田は思う。
『そっか。言い難かっただろうに、すまんな』
『いえいえ。
監督としてはこっちの方が先輩やさかい、先輩らしい助言もしまへんとな』
『お見通しって事か』
村田が苦笑する。
『まあ、試合前の夜に聞くような事ですから』
『すまんな。それじゃあ、甲子園でお礼をしないとな』
『はは。まあ、お互い頑張りましょうや』
「申し訳ないが、俺は大した監督じゃないからなあ。
でも、試合を全部投げたわけじゃない。勝ちにいく為の采配は全部主人に任せるさ。
その上で、監督としての権利を履行して、ちょっとワガママさせてもらいたいのよ」
「………」
「分かってるよ。その目、止めろって」
ジト目で睨みつけてくる木村を笑い飛ばす。
「木村。お前、練習ではじめて甲子園球場に入った時、どうだった?」
「え……」
意表をついた質問。
一瞬、彼女は口篭った。
何かを言おうとしたようだが、それは言葉にならない。
村田から視線を少し外した所で、ようやく形になる言葉が出る。
「その……それはまあ……」
「うん?」
「……それなりには興奮しましたが」
「だろ? 凄い所だろ? いい所だろ?」
うんうんと村田が頷く。
「……俺は、監督としてはお前達になにもしてやれねえよ。
だけど、お前達よりも少し長く生きている分、楽しい事ってのはそれなりに知ってるんだ。
特にこの甲子園って所には、少々縁があるみたいだな」
「………」
木村は何も言わない。
だが、その表情には怒りや疑問は感じられなかった。
………
……
…
その日の第一試合は、予報通り炎天下で迎える事となった。
村田はバスを降りてから、ちょくちょくと選手達の横顔を一瞥していた。
入れ込んでいる者、緊張している者、興奮している者……その様子は様々である。
ベンチに入って、試合前の練習を終える。
あとは整列のサイレンを待つだけとなった所で、村田は彼らに声を掛けた。
「ちょっと待て、お前ら」
もうグラウンドしか見ていなかった選手達が振り向く。
村田は、いつも通りの軽い笑顔を浮かべて言葉を続けた。
「野球をやっているやつにとって甲子園は特別な場所だ。
これは一生の思い出になる。
どんなプレイでもよーく覚えておけ。
よし、じっくり楽しんで来いよ!」
間が生じる。
彼の言葉に驚いている選手が多いようだった。
だが、すぐに彼らの表情は引き締まる。
「はいっ!!!」
気持ちの良い返事が、ベンチ内に響き渡った。
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