熱帯夜のような気候も大分落ち着いてきた、初秋の午後十時頃だった。
 雑居ビルの立ち並ぶ繁華街は、この日も雑踏にまみれている。
 数ヶ月前は、このような世界が仕事場になたばかりで浮ついていたが、最近では大分慣れてきた。
 街を覆い尽くしているのは、人よりもむしろ地上に散らばるゴミの方かもしれないと、
 仕事とは関わりのない事を考える余裕も出てくるようになった。
 
 
 
「……そろそろか」
 目的地に近づくと、そうして気持ちを遊ばせる事もなく、仕事に集中する。
 この日、主人公が受けている任務は、とある男性サイボーグの調査だった。
 CCRが違法サイボーグとして摘発を試みている相手で、相応の武装も伴っている。
 その為、ルーキーである主人に課せられた任務は、摘発ではなく調査であった。
 情報の一端を掴めば十分であり、深追いは禁物の仕事である。
 
 
「この辺りと聞いているんだが……」
 だが、主人の足は止まらない。
 潜伏先と見られる場所に近づいた後は、近くに潜んでサイボーグの行動パターンなりなんなりを調べれば良い。
 だが、彼はアジトに忍び込み、あわよくば摘発までこぎつけるつもりだった。
 功名心。
 彼を駆り立てているのはその言葉であった。
 念願のCCRに配属されたばかりの彼の心中には、強い熱意と野心が篭っていた。
 
 
 
 
 その感情の赴くがまま、細い路地に歩みを進める。
 入り組んだ道を何度か曲がれば、もう繁華街の艶やかな明かりは遠いものとなる。
 夜闇の暗さと静けさ、コンクリート製の建造物の冷たさだけが彼を覆う。
 事前の情報では、次の角を曲がった先がサイボーグのアジトだった。
 さすがに、緊張を覚える。
 スーツの上から胸に手を当てれば、固い感触がある。
 その存在に僅かな安心感を覚え、主人は角を曲がった。
 
 
 
「……!!」
 何者かと出くわしたのは、曲がったのと同時だった。
 反射的に、胸ポケットの中に手を差し込もうとする。
 だが、接近戦でその行為は禁物だった。
 突然出くわした人物の繰り出す掌底の方が圧倒的に早い。
 鳩尾に一撃を叩き込まれた彼は吹き飛ばされ、もんどりをうちながら壁に叩きつけられた。
 
 
「ぐ、ぇ……」
 しかし、ルーキーとはいえ彼もプロである。
 押しつぶされたような声を漏らしながらも、体勢を立て直す前に両目を開いて相手を視認しようとする。
 身体が反転した為に、さかさまの視界に映し出されたのは、事前に聞いていた情報とは異なる存在だった。
 
 対象のサイボーグは非常に体格が良かったはずだが、彼の前にいる人物はどちらかといえば華奢である。
 写真では黒髪短髪だったが、全く異なる一本縛りのブロンドヘアー。
 そしてなにより……性別が違う。
 ブロンドヘアーの下にある整った顔立ちは、明らかに女性のそれであった。
 
 
 
 
「CCRの人間ね。仕事のジャマしないでくれる?」
 女性が言い放つ。
 大の男を吹き飛ばす怪力の持ち主のものとは思えない、澄んだ声。
 それが、主人とリンの初めての出会いだった。
 
 
 
 
 
 
 
BLUEさんからイラスト頂きました!
 
 
 
 
 
 
 
 バーを選んだのはリンだった。
 メインストリートから一本外れた通りには、まだ飲食店が立ち並んでいる。
 その中にある木造の大きな扉をリンが潜り、主人もそれに続く。
 扉のすぐ先には地下に進む階段だけがあった。
 階段を降りて、更に扉を潜ると、その先がバーだった。
 
 木製の壁に覆われた店内には、ステンドグラスの照明が多く吊り下げられている。
 主に黄色の強い光を発するそれらのお陰で、店内は極めて明るい。
 やはり木製のカウンターベンチには数名の先客がいたが、いずれも静かに談笑を楽しんでいる。
 良い店、であった。
 
 
 
「こっちにしましょうか」
 リンが奥のテーブル席に進む。
 カウンターベンチが見えなくなるその位置ならば、会話が漏れる事はなさそうだった。
 注文を尋ねにきた店員に、二人とも軽めのカクテルを注文する。
 暫し間を置いて運ばれたカクテルを一口飲んでから、主人は口を開いた。
 
 
 
「……情報屋のリン、とか言ったな?」
「ええ。名前、聞いた事がない?」
「初耳だ」
「ふうん」
 リンに気分を害した様子はない。
 
「まあ、大風呂敷広げて仕事しているわけじゃないのよ。
 CCRへは無駄に情報が流れていないって事かしらね。
 もしくは、駆け出しの貴方が知らないだけかもしれないけれど」
 
 その言葉に、主人は眉を顰める。
 だが、彼女の言う通りであった。
 落ち着いて考えれば、あの場で拳銃を抜こうとする等、駆け出しと呼ばれても仕方のない自殺行為。
 また駆け出しは事実でもある。
 つまらなそうな表情をするものの、反論はせずにカクテルをもう一口煽った。
 
 
 
「で、あそこで何をしていたんだ?」
 その代わりに、聞きたい事を切り出す。
 サイボーグアジトの近辺にいた女である。
 先刻の遭遇時、すぐに身体を起こした彼は、サイボーグに関わりがある可能性を考えてリンを詰問しようとした。
 何らかの抵抗を予想していた彼であったが……意外にもリンは素直に応じて自己紹介をした。
 
 
 
『ところで、こんな所で立ち話ってのも無粋だと思わない?』
 そして、そんな彼女の一言で、二人はこうして落ち着ける場所に来ていた。
 
 
 
「何って、仕事に決まってるじゃない。
 サイボーグの情報を集めて、貴方達のような人に売るのが私の仕事よ」
「初対面の俺に、その言葉をそのまま信じろと?」
「ええ。信じてもらえなかったらどうなるのかしら」
 リンが余裕を漂わせて肩を竦める。
 
 彼女が嘘をついていてサイボーグに通じていれば、まず間違いなくサイボーグには逃げられるだろう。
 それは避けたい。
 避けるには、彼女を拘束すれば良いだけだ。
 先刻は後れを取ったが、心構えを持って対峙すれば、難しくはあるが無理ではないと思う。
 
 だが……
 
 
 
 
「……まあ、いいさ」
 嘆息する。
 事実がどうあれ、安全策の為には取り押さえるべきかもしれない。
 しかし、それこそ無粋ではなかろうか。
 それは正しくないという理屈の声に圧迫されながらも、主人はそれに反してみせた。
 
 
 
「あら、意外と物分りがいいのね。血気盛んな印象だったけれど」
 リンがどこか嬉しそうな声を出す。
 実際、功名心に駆られて深入りをしていた彼には耳が痛い言葉だった。
 
(あの深入りが、リンという危険性を踏んでしまったわけか。情けない話だ)
 顔を背けて、自身を戒める。
 だが、その貪欲さはすぐに彼の中で形を変えた。
 残っているカクテルを飲み干し、僅かな酔いを感じながらリンに向き直る。
 
 
 
「ところで、リン」
「何かしら?」
「あの先に潜伏している男の情報、何か持っていないか?」
「あら」
 リンが目を細めた。
 ソファから僅かに身を乗り出し、主人を見つめ返す。
 
 
 
「あるわよ。情報をご希望かしら?」
「ああ。何でも良い。知っている事を教えてくれ」
「もちろん、ただじゃないのよ?」
「分かっている」
「そうね。それじゃあ……」
 リンが顎に手をあて、視線を天井に向けて考え込む。
 そのままのポーズで、彼女は視線だけを主人に戻し、悪戯っ気の篭った笑みを浮かべた。
 
 
「初回サービスって事で、今日はここの支払いをお願いしようかしら」
「へ……?」
 どれだけの金額を吹っかけられるのかと構えていた主人は、肩を透かされた。
 そんな彼の表情を見て、リンはくすくすと笑う。
 ばつが悪くなった主人は頭を掻いたが、すぐその手を店員に向かって振った。
 
 
 
「チェイサーを」
 仕事の話が始まる。
 後から酔いがこない為の注文をする。
 
 
 
 
 
 
 
 数日後、彼がリンから得た情報に基づき、サイボーグは摘発された。
 綿密かつ膨大、正確な情報に、CCR上層部の主人への評価は大いに高まる事となった。
 
 
 
 
 
 
 
………
……

 
 
 
 
 
 
 
 数週間後。
 主人とリンは、先日のバーの同じ席で対面していた。
 この日は、先日よりも多少客の入りは良く、近くの席も埋まっている。
 その為、どちらから切り出す事もなく、二人は小声で同じカクテルを注文した。
 
 
 
「よく私を探し出したわね」
「まあ、多少は苦労したけどな」
 主人が片手をポケットに入れ、もう片手で頭を掻く。
 
「良いかしら?」
 リンが煙草を取り出した。
 主人がもう一度頷いて返事をすると、彼女は備え付けのマッチを擦って煙草に火をつけた。
 火の灯ったそれは、両切りだった。
 相当吸うようである、と主人は思う。
 
 
「ふう……」
 リンが煙草の煙を吐き出す。
 濁った煙が主人の鼻腔に入り、僅かに息苦しさを覚えた。
 だが、主人は身じろがずにリンに正対する。
 
 
 
 
「……これが、最後の一服なのかしら?」
 リンがおもむろに呟いた。
 
 
 
 
「どうしてそう思う?」
 動じる事無く主人は聞き返す。
「思う所は三つ」
 リンの口調は冷静だった。
 
「この間の情報、ちょっと大盤振る舞いしすぎたわ。
 正体や情報源を訝しんで、私を拘束する可能性は十分に考えられるもの」
「………」
「次に客の入り。たまたま繁盛している可能性もあるけれど、
 今日は相当なものよ。CCRの捜査員じゃないのかしら」
「………」
「最後に、貴方の片手。さっきからずっとポケットの中ね。
 何が入ってるのかしら?」
「……なるほどな」
 主人は身体をソファに深く預けた。
 露になっている方の腕で、頬杖を突く。
 
 
「それにしちゃ、随分と落ち着いているな」
「CCRに万全の状態で構えられたら、抵抗するだけ無駄だもの」
「なるほどな。……なら」
 主人がおもむろにポケットから手を出す。
 リンの身体が一瞬強張るが……一瞬である。
 彼が取り出したのは、映画のチケットだった。
 
 
 
 
「……なにこれ?」
 リンがどこか抜けた声を出す。
「映画のチケット」
「そんなの分かるわよ。どういうつもりなの?」
「ああ……」
 主人が途方に暮れたような声を漏らす。
 
 
「情報料、この間の支払いだけじゃ足りないんじゃないかと思ってな。
 来週から公開される映画なんだけれど、どうかと思って」
「貴方と一緒に?」
「そうだよ」
「CCRの潜伏は?」
「いないよ、そんなの」
「つまり、私の勘違い?」
「ああ」
 格好良く決めようと思っていた所に、これである。
 主人の言葉遣いがだんだん投げやりになった。
 
 
 
「……ぷっ」
 リンが吹き出した。
 大笑いする事はなかったが、その表情には笑みが溢れている。
 落ち着いた雰囲気とは打って変わって、開放的な笑い方をする女だった。
 
 
 
「何がおかしいんだよ……」
 主人が困惑した口調で言う。
「ふふ……いや、ごめん、こっちの事よ。
 まさかのデートの誘いだもの。今日は私の負けね。ふふっ……」
 リンはまだ笑いながら言った。
 
「いや、これはそんなんじゃなく、この間の……」
 言い訳をしようとするが、無駄な事だと感じる。
 そこへ、カクテルが届けられた。
 それを半分ほど煽ってから、彼は言葉を続ける。
 
 
 
「……まあ、遊びも否定はしないけれど、主な目的は投資だ。
 有力な情報屋さんには、今後も世話になる事があるかもしれないからな」
「まあ、そういう事にしておきましょうか。ふふふ」
 そう言って、リンもカクテルを口にする。
 それから、片方の眉を上げて、カクテルを掲げて見せた。
 
 
 
 
 
「ただね。この間の情報、本当に大盤振る舞い過ぎたのよ。
 映画だけじゃあ、ね。今日の支払いもお願いしようかしら」
 
 そう言って彼女が首を回す。
 彼女のブロンドヘアーは、照明の下で輝いて見えた。