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「あっちい……」
この日、もう何度その言葉を零しただろうか。
早朝からの猛暑にうなだれた主人公は、補習用の勉強道具を片手に、ようやく校門へと辿りついた。
暦は八月。
濃い青色の空には、雲一つ差していない。
その為に露になっている太陽の日差したるや、全盛期と言っても差し支えはないものだ。
その日差しは直接、そしてアスファルトからの照り返しで間接的に、両面から主人を焦がしにかかっている。
半袖の夏用制服からは、既に部活で十分に日焼けした腕が覗いているが、そこを更に焼かれるような錯覚を覚える。
校舎へトボトボと歩きつつ、少しでも日差しを避けようと木陰を進んで歩いたが、大して違いは感じられなかった。
横目でグラウンドを見やると、野球部のチームメイトがランニングに勤しんでいる。
もう少し真剣に勉強していれば、自分も彼らと同様に部活に勤しんでいたのであろう。
だが、たまにはこういう日も悪くないと、主人は思っていた。
「今年はもう地区予選で負けちゃったし、夏休みが全部部活で埋まるのも寂しいしな。
代わりの予定が補習授業じゃなけりゃ、もうちょっと良いんだけど」
そう呟きながら、鞄からハンドタオルを取り出す。
身体動かしてないからだろうか、部活中よりも、今の方が暑く感じられた。
噴き出している汗を拭いながら、下足場に入る。
ジーワ……ジーワ……ジーワ……
歩いている間、常に聞こえていた蝉の鳴き声が少し遠くなった。
暴力的なまでの日差しからも開放されて、ようやく一息つける。
「いや、むしろ本番はこれからか?」
登校の目的である補習授業はこれからである。
それを思い出し、頭を下げて気落ちする主人であった。
私をプールに連れてって
「あれ? 主人先輩?」
下足箱の陰から声が聞こえた。
声に反応して顔を上げると、倉見春香がいた。
野球部キャプテンである東の中学からの後輩で、主人も親しく交流している女子生徒である。
彼女は特に部活には入っていなかったはずだが、主人同様に制服姿であった。
「やあ、春香ちゃん。春香ちゃんも補習なの?」
片手を上げて笑いながら尋ねる。
「あ、えっと……一応セーフなんです。
でも、便利だから図書室でも自習しようかなー、って。
先輩は補習なんですか?」
「うん。もうちょっと真面目に勉強しておけば良かったよ」
そう言って苦笑しながら背後を振り返る。
その先にあるのは、たった今歩いてきた猛暑地獄地帯だ。
「まあ、お陰様で今日は部活も免除だし、たまにはこういう日も悪くないかな」
「え? 今日、部活休みなんですか?」
春香の声が少し大きくなる。
「うん。補習授業受ける俺だけだけどね。どうかしたの?」
「あ、えっと、その……」
春香が口篭った。
だが、すぐに両手を胸の前に組み合わせると、ずいと主人に近づきつつ言葉を続ける。
「せ、先輩っ! 良かったら、補習の後、二人でプールにでも行きませんかっ!?」
力強い主張。
春香の頬は、微かに赤らんでいた。
異性の後輩とプール。
二人でプール。
羨ましい。
凄まじいほどの鈍感男でなければ、彼女の気持ちは察する事ができる。
「プール? そう言えば……」
彼女の提案で、主人は昨日の出来事を思い出した。
東が『たまには女の子でも誘って遊びに行くと良いよ』と言って、レジャープールのチケットを二枚くれたのである。
鞄の中を覗くと、昨日入れたばかりのチケットが確かにある。
昨日の今日。
なんとも都合が良い話である。
(……そうか。そういう事なのか。
部活があるのにどういう事かと思ってたけど、先輩が気を利かせてくれたのか。
俺だってそこまで鈍感じゃない。これがどういう事かくらい分かるぞ)
こくこくと頷きながら一人で納得する主人。
(春香ちゃんがプールに行きたがってるけれど、
東先輩は怪我して泳げないから、代わりに俺に後輩孝行しろって事だな!)
困ったものだ。
「いいよ。レジャープールのチケットがあるんだ。
午後から遊びに行こうか」
ともあれ、その勘違いはさておいて……
鈍感男は春香の誘いを快諾するのであった。
………
……
…
「せ〜んぱ〜い、いっきま〜す!!」
数メートル上部、ウォータースライダーの滑り口から春香の声が聞こえてくる。
主人は、苦笑しながらスライダーの出口付近で手を掲げてみせた。
それから、さりげなく周囲を見やる。
屋外プールではあったが、水の冷たさをもってすれば、日差しも大した問題ではない。
その冷たさや、また他の何かを求めて、レジャープールには多くの客が押し寄せていた。
家族連れ、カップル、それから友人同士と思われる組み合わせ……。
そのいずれも、自分達の遊泳を満喫しており、主人らに生暖かい視線を送る者はいなかった。
春香の元気な声に少々気恥ずかしいものを感じていたが、意外と気にされないものだと思うと、少々の安堵を覚える。
「わ、わわわ! せんぱ〜い!」
「ん? お、おおおおおっ!?」
ジャッパ〜〜〜ンッ!!!
周囲を気にして突っ立っている所へ、ウォータースライダーから排出された春香が突っ込んできた。
無論、かわせない。
慌てて受け止めるような形になりながら、二人一緒に水中に沈む。
「ぷはっ! せ、先輩、ごめんなさい!」
「ふはぁ……いや、こっちこそごめん。
俺の方こそボケっとしてて、どくの忘れてた……」
互いに謝りながら立ち上がる。
「……あ」
だが、春香はすぐに顔を伏せた。
何事かと考えるが、すぐに思い当たった。
スタイルの整った春香の身体と、それを包む赤いビキニが顔のすぐ近くにある。
つまりは、二人の距離が妙に短いのである。
気がつけば、彼女を支える為に肩に回した手もそのままだった。
「先輩、あ、あれ楽しいですよ!」
先に動いたのは春香だった。
やや不自然ではあったが、主人とは反対の方向へ歩き出す。
自然と主人の腕の囲いも解けた。
(むう……)
残念だ、と思う。
だが、それも一瞬の事であった。
「わ、わっとっと!!」
解かれた主人の腕は、すぐに春香の小さな手に掴まれていた。
彼女に引っ張られて、水中でたたらを踏んでしまう。
「春香ちゃん、待って待って!」
苦笑しながら必死に彼女についていく。
腕を握られている事に、優越感にも似た嬉しさを感じる主人であった。
「ほら、これこれ!」
春香に連れられた先では、特大のビーチボールをレンタルしていた。
特大である。
本当に大きいのである。
直径はおよそ2メートル。
大きすぎるあまり、中に人が入る事が可能となっていた。
むしろそうして楽しむもののようで、専用のプールではビーチボールの中に入った人達が押し合って楽しんでいた。
レンタル場には『ハムスターボール』との看板が掲げられている。
「へえ、ハムスターボールって言うんだ」
「先輩、知らなかったんですか? 最近人気なんですよ、これ!」
「うん。中学の頃から夏は野球しかやってなかったから」
「じゃ、初体験ですね!」
全力全開の笑みを浮かべて春香が言う。
突っ込みを入れたい文言の選択であったが、突っ込めるはずもない。
「そだね。面白そうだ」
そうは言ったが、内心では野球で鍛えた運動神経で、見事なボール捌きを披露しようと考える。
その目論見が脆くも崩れ去り、ボールの中で何度もしりもちをついて春香に笑われるのは、それから十数分後の事であった。
………
……
…
それから更に多少泳いだ所で、二人は遅めの昼食を取る事にした。
施設内にある、水着で入場できる屋内食堂で、二人ともカレーを頼む。
すぐに出てきたカレーは、当然の如くレトルトのようだが、それでもうまい。
「〜♪」
春香も同様に満足しているようで、にこにこと笑いながらカレーを頬張っていた。
いや、カレーだけではない。
思えば、今日の彼女は一日中笑い通しである。
(そんなにプールに来たかったのかな)
鈍感がまた見当違いな事を考える。
(春香ちゃんが喜んでくれたんなら、後輩孝行は成功だな。
それに、楽しそうな春香ちゃん見てると、俺も気分が良いや)
「……? 先輩、ニヤけちゃってどうかしました?」
「え? あ、そ、そう? 別に……」
唐突に春香に指摘され、慌てて片手を振る。
いつの間にやら、締りのない顔つきになっていたようである。
照れ隠しに、残っているカレーをかきこむ。
空いた皿を卓上に置いて一息つくと、備え付けのテレビが視界の端に入った。
「お……」
思わず声を漏らす。
テレビでは、高校野球の甲子園大会を放送していた。
試合をしているのは、どちらも大して思い入れのない学校である。
それでも、主人の視線はテレビから離れなかった。
(もうちょっと勝ち進めば、俺達も今頃は……甲子園、行きたかったな)
そんな事を考えながら、選手達の一挙一動に注目する。
ちょうどカメラがアップで捉えている投手は、滝のような汗を流していた。
鳴り物の応援も途切れなく聞こえてくる。
羨ましい。
主人の感情はそれに収束された。
主人がこの場に辿り着く機会は、春夏一回ずつしか残されていない。
正直な所、今年の夏が終わってから、主人は少々の焦りを覚えるようになっていた。
(……甲子園行けなかったら、俺、どうなるのかな)
ふと、そんな事を考える。
現状ではベンチ入りすら危うい身だ。
プロは厳しいだろう。
大学野球に進むとしても、一流大学からの推薦を得られるとは思い難かった。
では、野球を諦めて学問の道に進んでみるのはどうだろうか。
ない。
それだけはない。
残るは就職だけ。
しかし、大企業の内定を得られるとも思えない。
(要するに、レギュラーを勝ち取って甲子園に行かないと、俺の人生、お先真っ暗なんだよなあ……)
そう考えると、自然と深い嘆息が零れた。
それだけではない。
これまで野球に打ち込んできた日々の価値にも疑問が生じる。
例えば、今日のプールだってそうだ。
春香とプール遊びに興じるのは、無論楽しい。
いかにも青春真っ盛り。
おそらくは、先々思い返しても眩しい日になるのだろう。
だが、これは今日限りなのだ。
明日になれば、また泥にまみれる練習の日々が始まる。
甲子園に出られる確約は無いのに、野球に打ち込むのだ。
果たして、自分はそれで良いのだろうか……
「……かっこいいですねえ」
不意に春香の声が聞こえた。
視線をテレビから春香に移すと、彼女も主人と同様にテレビを見ていた。
主人の視線に気がつくと、彼女は頭を掻きながら眉を下げる。
「私、何かにここまで打ち込んだ事ありませんから、こういう人って憧れちゃいます」
「ええ、そうかなあ? 泥臭いだけだよ」
そう言って肩を竦める。
少々投げやりな口調になった。
「いーえ、そんな事ありませんよ!」
だが、春香はぐっと握りこぶしを作り、中腰になって主張してみせる。
「一番かっこいいのは先輩ですけれど、そうじゃなくても皆輝いて見えます!
すごーくかっこいいんです! はい!」
「………」
「……なにか?」
春香が尋ねる。
「俺が一番かっこいいの?」
「……ぅぁ!」
ようやく、勢いに任せた自身の発言に気がついたのだろう。
彼女は勢い良く着席すると、両手を自分の頬に宛がって俯いた。
(むむむ)
主人は主人で、内心唸る。
さすがにそうも言われれば、少しは意識をする。
かっこいいと言われただけで、そんな自分が好きだと言われたわけではない。
だが、好感の表れである事に変わりはない。
つまりは……どういう事なのだろうか?
そうして春香の思惑について考えるが、二転三転として答えは出ない。
ただ、自身の感情については、新しいものが沸く。
それは、なんとも心地良いものであった。
(悪い気はしないし……もうちょっと、仲良くなりたいな。
かっこいいって言ってくれるなら、部活も頑張るか)
「うわぁ、どうしよう……急すぎるよね。突然すぎるよね……
もうちょっと、じわーって考えてたのに……うわわ……」
一方、春香はなにやらぶつぶつと呟いていた。
その声は、主人には聞き取れないくらい小さなものである。
「あー、春香ちゃん?」
「ふ、ふぁいっ!?」
また春香が大きな声を出す。
何から何まで元気な子だ、と思う。
「昼を食べた後でなんだけどさ。
帰りは、甘味屋にでも寄ろうか?」
そう言いながら、何度か行った事のある町外れの甘味屋を想像する。
考えてみれば、食べる事を第二の目的として、女の子と飲食店に行くのは初めてかもしれない。
「………?」
春香はすぐに返事をしなかった。
微かに首を傾け、口に手を当てている。
難しい事を言ったつもりはなかったが、どうやら自分の言葉の理解に時間を要しているようである。
だが、それも僅かな間の事だった。
「は……はいっ! 喜んで!」
春香は、甲子園を照らす太陽にも負けない笑みで頷いてくれた。
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