夕暮れのアパートの室内に、キーボードをタイピングする音が響く。
 その音を鳴らしている主人公は『離席する』と発言して、苦笑しながら指の動きを止めた。
 モニターには、デンノーズの仲間達のアバターが表示されている。
 
 
 
 この所のデンノーズは、来るべき大会に向けてトレーニングを重ねている。
 が、元々ハッピースタジアムは、ゲームを楽しむ事やユーザー同士の交流を目的として作られている。
 デンノーズの選手達も、殆どが、元々はゲームを楽しんでプレイしているライトユーザーであり、
 全てを捨ててただただトレーニングに打ち込むようなものではない。
 よって、この日も練習をそこそこに終えた彼らは、ロビーで、取り留めも無い雑談を楽しんでいた。
 
 
 この日は、何かの拍子で好きな歌手の話になった。
 スターが、ここは俺の独壇場だと言わんばかりに、歌手に対する薀蓄を披露している。
 だが、そのいずれもが昔の話。
 主人公が幼い頃か、もしくは生まれる前の話ばかりで、チームメイトがその点についてスターを弄っていた。
 
「平良木さんは、もう……」
 頭を掻きながら、右側の壁を一瞥する。
 スターを操っている平良木は、主人のお隣さんである。
 
 どうしたものか、所在が分かっているチームメイトは皆同じ地区に住んでいた。
 平良木がチームに加わるキッカケを作ったのは主人なので、そういう意味では彼は例外だが、
 それでも随分な偶然もあったものだ、と主人はつくづく思う。
 
 
 耳を澄ますと、タイピングの音が聞こえてくる。
 だが、その音は平良木のものではない。それほど壁は薄くは無い。
 その音は、開田の部屋から聞こえてきている。
 その偶然の一人が、更なる偶然の結果、主人と共同生活していたのである。
 
 
 
 
 
 たまにはサービスでもしてやろうと、主人は冷蔵庫からジュースを取り出した。
 コップに注いで、開田の部屋に入る。
 本とフィギュアの棚が多々並んでいる為に、狭くなってしまった床を歩き、部屋の奥へ向かう。
 そこには、趣味全開の開田の部屋には似つかわしくない、ブロンドのショートヘアの少女がパソコンに向かい合っていた。
 
 
「ほれ」
 気軽に声を掛け、ジュースを卓上に置く。
「おお、ご苦労である。余も休憩するかの」
 その少女……パカーディ・ハイネンは、尊大な口調と共に主人に視線を向けた。
 
「いえ、パカーディ様の為なら……とでも言うのかな、呉さんは」
 主人がわざと低い声を作る。
 彼女の執事である呉の声の真似だった。
 
「ははっ、声色はなかなか似ておるな。
 だが、あいつはそういう事は言わぬ。
 言わぬが、忠誠心は存分に伝わってくる。
 それだけで余は十分じゃ」
 パカはおだやかに笑いながら、ジュースを一口飲んだ。
 
 
 
 パカは金持ちだった。
 彼女は一大財閥の一族だった。
 過去形である。
 
 彼女がチームに加わった頃、まだ彼女は金持ちだった。
 金の力にものを言わせる態度と尊大な喋り方で、時折チームを乱す事もあった。
 過去形である。
 
 彼女がチームに加わってから数日後の事だった。
 財閥は破産し、彼女は瞬く間に一文無しとなってしまった。
 ただ唯一、執事の呉が忠義から付いてきただけである。
 主人は、縁あってその事情を知った。
 
 はじめは、彼女を助けるつもりはなかった。
 気にはなっていたが、主人自体が実家への強制送還と隣り合わせの貧乏人である。
 彼女を助けられるような器量は無いとの判断であったが……
 結局、一人の少女が苦しんでいる所を見過ごす事はできず、開田の部屋を貸し出す事となった。
 
 
「そういえば、呉さんは今どこに?」
「まだバッタ男を追いかけているようじゃの」
 バッタ男とやらが持っている情報が、大金に生まれ変わる可能性を持つらしい。
 どういう事なのか、主人は詳しくは知らない。
 
 
 
 
「ところで主人。今日の夕食当番はそちらであったな?」
「ああ、そうだっけか」
「余は、今日は牛丼を所望するぞ」
 パカがわざとらしく前髪を弄りながら言う。
 愛らしい動作だったが、主人はその感想を口にはしない。
 その動作に限らず、彼女の幼く整った容姿もまた愛らしく感じられたが、
 口にしてしまえば、いくら理性を持って共同生活を送ろうとしても、どこかで自分のたがが外れると思っていた。
 
「随分と偉そうだな」
 苦笑しながら言う。
 冗談だとは分かっていた。
「そう言うな、冗談じゃ。選り好みはせぬ。
 ……だがのう、お前の所に来て一日たりとも肉が出とらんのでは、たまには食べたいものじゃぞ?」
「難しいなあ……まあ、考えとくよ」
 あやすようにしてパカの肩を叩き、自分の部屋に戻る。
 夕食の準備の前に、もう一度チャットの様子を見ようと、自分のパソコンを覗いた。
 
 
「お?」
 画面内に見慣れぬアバターが表示されている。
 見知らぬ誰かが、たむろしているチームに声を掛けてきたようだ。
 なんだろうと思い、モニターに近づく。
 
「……はっ?」
 主人の声が、裏返った。
 
 
 
 
 
 
 
『こんな所にいたかクソ王子が。
 今度は野球で金ばら撒いてバランス崩壊させるつもりだろ。
 なにがパカだ、日本語もまともに使えないのか廃課金が。
 お前はパカじゃなくてバカだろ、さっさと消えろ』
 
 
 
 
 
 
 
 それが最初の一言だった。
 見知らぬアバターが次々とパカを罵倒する言葉を並べている。
 チームメイトの何名かが抗議するも、聞き入れる様子は無い。
 何も言い返さないチームメイトもいた。
 
 
「おい、パカ!」
 主人はチャットに加わらず、慌てて隣部屋に戻る。
 パカは、チームメイトのミーナから譲ってもらった、安いノートパソコンに釘付けになっていた。
 
「……なあ、パカ」
 今度は、なるべく穏やかに声を掛ける。
 声は掛けたが、どう慰めたものかが思い浮かばず、続く言葉が出てこない。
 暫く立ち竦んでいるとパカの方から振り向きかけた。
 だが、振り向いたというよりは俯いたという程度で、表情は良く見えない。
 
 
 
 
 
「はは。昔、余が潰してしまったゲームのプレイヤーのようじゃ。
 ……迷惑じゃのう」
 
 少し震えた声。
 相手が迷惑なのか、それとも自分が迷惑といいたいのか、主人には判断が付かなかった。
 
 
 
 
 
 
 
アパートで牛丼を
 
 
 
 
 
 
 
 それから二日が過ぎた。
 パカの様子や振る舞いは、日頃と変わる所が殆どなかった。
 あの日の消沈振りを考えると、逆に、その不変ぶりこそが異常である印象を主人は受けていた。
 
 唯一変わった所といえば、この所練習に来ない事だろう。
 開田の部屋に篭って、たわむれに漫画ばかりを読んでいるようだ。
 この日も、もう陽が落ち始めているのに、電気もつけずに部屋から出てこない。
 
 パカは、練習に来ない理由を語ろうとしない。
 主人も、あえて聞こうとはしなかった。
 だが、大いに心配である。
 この所の彼は、その事ばかりを考えていた。
 
 
 
「……夕食、作るか」
 ベッドに寝そべりながら開田の部屋を眺めていた主人が、ふいに立ち上がる。
 この日の夕食は、牛丼の予定だった。
 
 
 
 
 
 
 
………
……

 
 
 
 
 
 
 
「……ごちそうさまじゃ」
 パカは、牛丼を二口程食べた所で箸を置き、席を立った。
 普段の食事は残す事は無く、むしろおかわりをねだる様な少女である。
 
「どうした? まだ残ってるぞ」
「うむ。今日は食欲が無くての。許せ」
 穏やかな返事。
 平静を装っているのがはっきりと分かった。
 
 
「いや……残すのはともかく、最近ちょっと変だぞ」
 主人も箸を置いて言う。
「別にどこも変ではないぞ」
「いや、変だ」
 主人は左右に首を振る。
 理由は分かっている。
 まだ、先日のショックを引きずっているのだろう。
 
 そっとしておこうとは思っていた。
 だが、食事を残すようでは、彼女の心だけでなく体も心配である。
 主人は、意を決して言葉を続けた。
 
 
 
「……この間の事なんか、気にするなよ」
「!!」
 パカの肩がびくついた。
 視線を明らかに外される。
 
「別に、気にしてなどおらん」
「おいおい……」
「気にしてなどおらん!!」
 パカが突然叫んだ。
 初めて聞く彼女の怒鳴り声だった。
 
 
 
「あんなの、全然気になんかしとらん!!
 それなのに貴様は、こんなものを用意しおって……」
「こんなもの?」
「牛丼じゃ!! 難しい等と言いながら、突然作りおって!」
 パカがなおも叫ぶ。
「お、俺はただ……」
「その気遣い、腹が立つのじゃ!
 落ち込んでいるから励まそう、とでも言いたいのだろう!?
 なんでもないのに、人を腫れ物扱いしおってからに!!」
 
「そ、そんな言い方は無いだろう!!」
 さすがに主人も腹が立った。
 彼女の言う通りだとしても、そこまで言われては怒りがこみ上げる。
 パカを睨みつけ、怒鳴り返す。
 
 
「う、うるさいっ!」
 主人の声に怯んだようだが、パカも態度は改めない。
「うるさいとはなんだ!
 お前の言う通りだとしても、心配している相手に対して、言い方ってもんがあるだろ!」
「うるさいうるさい、うるさーい!
 庶民は大人しく余の言う事を聞けばいいのだ!!」
 
「その言い草!!」
 段々とヒートアップする自分を抑えられない。
 主人は強くテーブルを叩いた。
 パカが、ひっ、と声を立てて慄いた。
 
 
「元はといえば、お前のそういう態度が人を傷つけてるんだぞ!!」
「ぁ……」
 パカが両手を口に当てて、一歩下がる。
 目は大きく見開かれていた。
 だから、潤んでいるのがはっきりと分かった。
 
 言い過ぎた、と思ったその瞬間である。
 
 
 
 
 
「う、う……うわ……うわぁーーん!!」
 パカは泣き出しながら玄関へと駆けていった。
 
「あ……おい!」
 声を掛けるが、当然立ち止まるはずも無い。
 慌てて席を立ち、後を追おうと食卓を回った時には、もう彼女は玄関を出て外に飛び出していた。
 
 
 
 
「……しまったな」
 主人は、深く嘆息した。
 
 
 
 
 
 
 
………
……

 
 
 
 
 
 
 
 パカを見つけ出すのに、一時間掛かった。
 あてはなかったが、強いて言えば腰を落ち着けられる所だろうと検討を付けたのが正解だったようだ。
 彼女は、公園のベンチに腰掛けていた。
 偶然なのだろうか。彼女から破産の相談を受けた時の公園だった。
 いつの間にか、夜は随分と深まっている。
 
 
 
「パカ」
 声を掛けながら近づく。
 彼女は主人を一瞥したが、もう逃げ出さなかった。
 だが、顔を明らかに背けた為に、表情は伺えない。
 
 
「何か用事があるのか?」
 ぶっきらぼうな口調。
「探して回ったんだぞ」
「誰も頼んでおらん」
「……そうだな」
 そう言いながら、パカの傍まで歩く。
 嫌がっているのが分かったので、彼女の正面に立とうとはしなかった。
 
 
 
「……分かっておる」
 パカが言う。
 
「全て余の態度が悪いのじゃ」
「………」
「他のゲームが潰れたのも、チームの空気が悪くなったのも、
 せっかくの牛丼が残ったのも、お前を嫌な気持ちにさせたのも、全部、余が悪いのじゃ」
「すねるなよ……」
「すねてなどおらん」
 そうは言うが、その声には明らかに生気が感じられない。
 
 
 
「そもそも、俺はお前を責めに来たんじゃない。
 ……俺こそ言い過ぎた。ごめんな」
 そう言って頭を下げる。
 パカが、ちらとこちらを見たような気がした。
 確認しようとすぐに頭を上げたが、顔は背けられたままだった。
 
 
「そんな事はない。お前は当然の事を言ったのだ。
 あの言葉は、随分と身に染みたぞ」
 パカが主人の方を向いた。
 だが、下を向いていて、まだ表情が見えない。
 
 
 
「……なあ、主人」
「うん?」
「余は、破産した事で……そして、今回の事で良く分かった」
「………」
「余は、これまで酷い事をしてきたのじゃな」
「そんな事……」
 否定してやりたい。
 だが、ある程度は彼女の言う通りなのだろう。
 続く言葉を口に出来ない。
 
 
 
「尊大な態度と金にものを言わせるやり方で、様々なものを壊し、傷つけたのだな。
 ハッピースタジアムで言われた時は、必死に耳を塞ごうとした」
「パカ……」
「でも、お前から言われたのは、効いたのう……」
 パカが顔を上げた。
 肩が震えている。
 頬は涙でぐしゃぐしゃに濡れていた。
 膝の上に乗せている手の上に、ぽたぽたと滴り落ちている。
 
 
 
「今回の事で……後ろ盾が無くなった事で……ひっく……良く分かったのじゃ。
 傷つけると言うのは、怖いのじゃ……ぐすっ……いやのじゃ……」
「……そうだな」
 主人は肩膝をついて、視線をパカと同じ高さに合わせた。
 彼女の手の上に自らの手を重ねる。
 冷たい手をしていた。
 
 
「も……悪い事、しないの……傷つけたりしない……
 ぜんぶ、ぜんぶ、私が悪かったと認めるの……ひっく……」
 私、と言った。
 確か、破産の報告を電話で受けた時もそうだった。
 感情が高ぶると、一人称が変わる事があるのかもしれない。
 少し意外に感じられたが、彼女にそういう一面があってもおかしな事ではない。
 彼女も、一人の少女なのだ。
 
「だから……ごめん……ごめんなさい……ごめんなさい……」
「……大丈夫だ。もう、大丈夫だから」
 パカの背に空いた手を伸ばす。
 考えるより先に体が動いた。
 優しく、彼女の体を引き寄せる。
 
 
「う、うあ……あああああん!」
 パカもまた主人に顔を寄せて、わんわんと泣きじゃくった。
 主人は、赤子をあやすかのように、そんな彼女の背中をぽんぽんと優しく叩く。
 
 とはいえ、彼の胸は激しく鼓動していた。
 パカを安心させなくてはという気持ちで、穏やかに振舞ってはいた。
 だが、内心では強い切なさが、全身を駆けていた。
 
 
「パカ……」
 小声で、優しく彼女の名前を呼ぶ。
 腕の中の小柄な彼女は、なおも泣き続けた。
 
 
 
 
 
 
 
………
……

 
 
 
 
 
 
 
 帰り道。
 
「……なあ、主人」
 隣を歩くパカが、名前を呼んだ。
 泣き腫らして、目は真っ赤である。
 それが恥ずかしいのだろうか、彼女は帰り道でもずっと俯いていた。
 
 
 
「うん?」
「……一つ、聞きたいのじゃがな?」
「うん」
 間の抜けた返事をする。
 パカの喋り方は、もういつも通りに戻っていた。
 
「……牛丼」
「え?」
「牛丼、まだ、あるのか?」
 小声で言う。
 こちらを向かずとも、顔が真っ赤に染め上がっている事は容易に分かった。
 
「ははっ」
「な、何がおかしい!」
 パカがこちらを向いた。
 きっと睨みつけてくるが、可愛らしい怒りだった。
 おかしいから笑ったのではない。
 彼女との日常がようやく戻ってきた気がして、嬉しくて笑ったのだった。
 
 
「いや、ごめんごめん。
 食べ残した分はあるし、おかわりも用意してるよ」
「よおし、さすがは主人じゃ!」
 彼女の怒り顔が、みるみるうちに満面の笑みに変わる。
 
 
 
「そうと分かれば、主人よ、早く帰るのじゃ。
 でなくては、牛丼が逃げてしまうぞ!
 食べたら、今日から練習も再開するぞ!」
 パカが主人の腕を掴んだ。
 小走りになり、強引に主人を引っ張ってみせる。
 
「おとと……はいはい、帰ろう、帰ろう」
 それに引かれて、たたらを踏みながら、主人も笑顔で駆け出す。
 
 
 
 冷めた牛丼は、逃げずに二人の帰りを待ちわびている。