大神ナマーズのオーナー室は、少々面倒な事になっている。
 部屋の作り自体は、他球団のオーナー室と大きく変わる事は無い。
 それらしい机に、それらしい装飾品。それなりの威厳がある部屋だ。
 
 問題は、この部屋の主である大神博之が、ツナミ代表でもある点。
 オーナーとしては妥当な部屋でも、一大企業のトップの部屋としてはいかがなものかと、
 時折、彼の部下達は部屋を豪勢なものに変える事を提案してきたが、大神はそれを却下した。
 
 まず、趣味ではない。
 それに加えてツナミは、一度解体した後、今もなお再建中の企業である。
 彼の多忙さは極まっており、部屋の作りを気にするような暇は無いのである。
 
 
 しかし、その様に多くの仕事を抱える彼が、自ら好んで取り組む仕事があった。
 本来は彼の部下の仕事であったが『この仕事は譲れない』と主張した仕事。
 それが、この日オーナー室で行われている人事発表であった。
 
 
 
 
 
 
「……人事通達。辞令。水木卓」
「はい」
 広いオーナー室に、二人の男がいる。
 大神博之と水木卓は、その奥に設置されたデスクを挟んで立っていた。
 
「海外提携球団での経験を考慮し、来年度より球団監督業務を命じる。球団代表、大神博之」
「はい」
 互いにキビキビとした口調。
 人事書類を読み終えた大神が、その書類を水木に手渡す。
 水木は、一礼の後にそれを受け取る。
 
「ああ」
 大神が一つ咳払いをした。
「辞令書類は用意していないが、もう一つオーナー辞令がある」
「はっ」
 水木の返事は一層研ぎ澄まされる。
 
 
 大神はそんな水木を暫く直視した後……口の端を上げて、水木の顔を覗き込むようにして告げた。
 
「……で、今夜一杯どうですか、水木さん?」
「この野郎め、いっちょ前にオーナー面しやがって」
 二人が破顔する。
 隣の秘書室にも響く程の大笑いが、オーナー室に蔓延した。
 
 
 
 
 
 
 
虹が丘2丁目様11周年おめでとうSS
 
歓迎の歌
 
 
 
 
 
 
 
「ふはぁー……」
 居酒屋のカウンター前に腰掛けた水木が、お猪口で日本酒をあおる。
 まだ痛飲には程遠い飲酒量であったが、水木の顔はそれなりに紅潮していた。
 
 彼が酒好きである事は、大神のみならず、多くの元同僚が知る事実である。
 若い頃は工業用エタノールさえも飲もうとした程の酒好きだ。
 
 
(そんな水木さんが、これだけの量でなあ。
 年を取ると酒に弱くなるというけれど……)
 横に座る大神は、そんな水木を一瞥してビールを口に含んだ。
 昔はそれほど強くなかったアルコールも、この所随分といけるようになっている。
 おそらくは『お偉いさんとのお付き合い』の効果なのだろう。
 その結論から、年を取ったのは自分も同じなのだと気が付き、大神はふと苦笑を零した。
 
 
 
「ん、さっきの話、そんなに面白かったか?」
「あ、いえいえ、そういう事でなく」
「なんだそりゃ。まあ良いか」
 水木が一人で勝手に納得する。
 顔こそ紅潮気味だが、その言葉遣いに酔いは感じられない。
 元々彼は悪酔いするタイプではなかった。
 
 
「でもさ。まさか諸星が球界を代表するスラッガーになるとは思わなかったよな。
 ただデカイだけの奴だと思っていたのに、技術も心構えも随分と成長したもんだよ」
「そうですか? 僕は諸星さんには攻守で随分と助けられましたし、そういう選手になると思ってましたよ」
「あれれ。随分って程打ち込まれてたっけか、お前?」
「ええ。ルーキーイヤーは特に」
「あー、そういやお前と諸星、入団した年が近かったっけな」
「助けられたといえば、芽舘にも……」
 
 互いに、ちびちびと酒を口にしながら雑談に興じる。
 もっとも、話の種は先程から殆どが野球に関するものであった。
 
 水木が経験してきたメジャーリーグ。
 大神が体験した甲子園。
 そして、二人の共通話題であるプロ野球チーム。
 飲み始めて一時間は経っていたが、その会話は全く途切れる様相を見せない。
 二人とも、話したい事はいくらでもあった。
 
 
 
 
 
「ははっ」
 ふと、その事に気が付いた大神が笑う。
 考えてみれば、野球チームを持っているというのに、
 純粋な雑談として野球の話を長時間するのは、随分と久しぶりだった。
 
「んっ?」
「ああ、さっきから野球の話しかしていないな、って思ったんです」
「そうかあ?」
 水木が首を傾げる。
 だが、すぐにその首は傾けられたままで縦に振られた。
 
「……うん、そうだな」
「ですよね」
「嫌か?」
 水木が尋ねる。
 しかし、その口ぶりに不安さは感じられない。
 顔も笑っていた。
 
「全然」
「だろうな」
 優しい表情で水木がもう一度頷いた。
 それから彼は、何かを思い出すように天井を眺める。
 
「俺達には、これしかないもんな」
 しみじみとした語り方。
 これしかないという孤独の言葉。
 その割に、彼は幸せそうだった。
 
 
 
 
 
 だが、大神は違う。
 
(これしかない、か……)
 
 口の中で小さく嘆息する。
 僅かに顔を伏せたが、すぐにその顔は上げられた。
 
 
 
「……どうかしたか?」
「えっ?」
 いつの間にか、水木の視線は大神に戻っていた。
「いや、浮かない顔をしていたからな」
「……水木さんは、良く見ていますね」
 そう言って肩を竦める。
 だが、何か懐かしい気持ちが湧き上がる。
 思い返せば、彼はこうして時折気遣いを見せてくれた。
 ぶっきらぼうな先輩だが、面倒見が良い先輩でもあった。
 それは、今も変わらないらしい。
 
「……いや、羨ましいな、って」
「俺がか?」
「ええ」
 こっくりと頷く。
 ビールをもう一口流し込んだ。
 すこし温くなった液体が、喉を刺激してくれる。
 
 
「なんだかんだで、現場に居続ける水木さんは羨ましいですよ。
 僕も、もう少し長く野球をやりたかったんですが……ね」
「ああ、なあ」
 水木が頷く。
 大神を取り巻く事情は、彼も十分に知っていた。
 
 球団オーナーの息子である為に、全盛期でグラブを置かなければならなかった事。
 本来は球団経営からフェードアウトしたかったのに、ツナミ、そしてジャジメントの状況がそれを許さなかった事。
 そして全てが終わった今も、ツナミは彼を必要としている。
 もう、マウンドは遠い所へと行ってしまった。
 
 
 
 
「お前もお前で、色々と大変なんだな」
「ええ、それは本当にもう。
 あ……すみません。水木さんだって苦労されてるのに」
 
 ふと、彼に対して愚痴を零している事に気が付いた。
 慌てて頭を下げる。
 だが水木は、頭と一緒に下がった肩を軽く叩いた。
 
「おいおい、やめろよ。お前程じゃないさ」
「しかし……」
「あっ、そうだ!」
 水木が明るい声を出した。
 その声につられて顔を上げる。
 水木は子供のような笑顔を携えていた。
 
 
「じゃ、野球やろうぜ。少しは気も晴れるぞ」
 彼が軽く握りこぶしを作ってみせる。
「はい……?」
「だから、野球やろうぜ、っての。
 昔の仲間を呼べるだけ呼んでさ。
 できればマスコミは呼びたくないかなあ。
 お前の先発は確定な」
「え、ええ?」
 次々に語りだす水木に対して、大神は目を丸くさせた。
 
「いやさ、さすがにお前が現役復帰するのは無理な話だよ。
 でも、最前線でなくとも、野球をやるだけで楽しいに決まってるじゃないか。
 ……なんだお前。もしかして、引退後に草野球やった事無いの?」
「あ……はい。なんでだろう。考えた事無かったな」
 丸くした目をしぱしぱと瞬かせる。
 
 
(ホントだ。なんでこんな簡単な事に気が付かなかったんだろう。
 ……プロじゃなくても、やれるんだよな。野球。
 バットと、ボールと、グローブ。
 後は皆がいれば……)
 
 
 
 
 ふと。
 
 彼の脳裏に幾多の顔が浮かび上がった。
 
 一度野球をやめた自分を、再び野球に引きずりこんでくれた高校の先輩。
 
 殴り合った末に自分の事を分かってくれた先輩。
 
 その他多くのチームメイト。
 
 水木をはじめとした、プロ入りした自分を助けてくれた仲間達。
 
 球界のエースと呼ばれるようになってからも、熱く接してくれた仲間達。
 
 
 
 
 
「俺たちゃ、いつでも相手になるからな」
 水木の言葉が聞こえた。
 彼を見る。
 いつの間にか、彼の顔には随分としわが増えている。
 しかし、そこにいるのは、幾つになろうと水木卓に他ならない。
 
「お前は大事なものを背負っている。
 でも、たまにはそれを置いて、ちょっとくらい遊んでも全然構わないんだ。
 歓迎してやるから、いつでも遊びに来いよ」
 
「……はい」
 大神は返事をすると、残ったビールを飲み干した。
 胸が熱い。
 目を閉じる。
 端から涙が滲み出たが、拭わない。
 水木は、何も言わずにただ隣で酒を飲んでくれた。
 
 
 
 
 
 
 
 
………
……

 
 
 
 
 
 
 
 
 居酒屋を出た。
 大神は何気なく背伸びをする。
 
「あ……」
「どうした、大神?」
「いや……今日は星が綺麗だな、と」
 
 背伸びをしたままで、星空を仰ぐ。
 隣の水木も、同じように空を見上げた。
 幾多の星の中に、一つ、大きく輝く星が見える。
 
 思い返せば、練習に明け暮れた夜に、こうして星を見上げた事があった。
 満天の星空は、情熱と夢を持っていたあの時と、何も変わらない輝きを放っている。
 
 確かに、プロ野球選手に復帰する事は出来ない。
 でも、野球を楽しむ心は、この星のようにいつも自分の心中にあった。
 その気持ちこそが、あの大きく輝く星なのかもしれない。
 多くの仲間達と一緒に見上げ続けた、あの星こそが……
 
 
 
 
「……なぁんだ」
 口の中で小さく呟く。
 
 星は、消えない。