――ある、冬の出来事である。
 
 
 
 
 その日は、冷たい風の吹き荒れる夜だった。
 刺すような冷たさを伴った強風は『凍てつく』という表現がしっくりくる。
 朝のニュースでは、夜になると雪が強く降る所もあり、この冬一番の冷え込みであると予報されていた。
 街行く人は皆、体に密着させるようにして防寒着を着込み、寒さに肩を縮めて歩いていた。
 目を凝らせば、白い息が至る所で蒸気している。
 
 
 だが、繁華街の一角は多少様子が異なっていた。
 白い吐息がネオンに隠れて目立たない。
 
 吐息だけではない。
 暖色のネオンが、始まったばかりの夜のひと時を楽しむという高揚した気持ちを一層膨らませるのだろうか、
 その一帯の人々だけは寒さを忘れて道を闊歩していた。
 所狭しと並ぶ飲食店からは、賑やかな声や音楽が流れてくる。
 
 
 そしてその中に、日の出高校野球部OBの声は混じっていた。
 
 
 
 
 
 
 
「「「「大神の最多脱三振にかんぱーい!」」」」「どーも。かんぱーい!」
 
 主に魚料理を扱う居酒屋の座敷個室から男達の声が響く。
 
 
 この年のシーズン、大神博之は最多脱三振のタイトルを獲得していた。
 普段でも球団の看板選手として活躍している彼である。
 加えてタイトルを獲得したともなれば、地元メディアや球団広報部が飛びつかない理由は無い。
 イベントやローカル番組が組まれる毎に大神は招聘された。
 球団から唯一のタイトル保持者という事もあって、
 大神も招聘を断り辛く、このオフの彼はまさしく忙殺の日々であった。
 
 だが、それでも彼は、一切の予定を入れない日を一日だけ設けた。
 それがこの日の晩。
 毎年行われている、日の出高校野球部OB本土組の忘年会であった。
 
 
 
 
 
「かぁーっ、うめえ!」
 本土組の一人であり、今年からプロチームに所属していた島岡武雄が、
 乾杯と共にジョッキ一杯のビールを胃袋に流し込む。

「先輩、相変わらず強いですねえ。どうぞ」
 島岡の対面であぐらをかいている大神が、すかさず島岡にビール瓶を差し出す。
「おっ、悪いな」
 島岡はにっと口を開いてジョッキを突き出し、酌を受けた。
 
「大神。あんまりこいつに飲ませるなよ。
 本当にいくらでも飲み続けるから、俺たちの簿給じゃ、割り勘でも酒代が馬鹿にならないんだ」
 島岡の横にいる主人公が、舐める程度に自分のジョッキに口をつけながら、島岡の酒癖をたしなめる。
 
「ああん? ……あー、そうだよなあ。
 お前のような万年二軍の選手じゃ、大した給料貰ってないよなあ」
 島岡が冗談半分で嘲り笑った。
 
 
「万年二軍だと? お前、今年の俺がお前の倍以上ヒット打ったの知らないの?」
「何が倍以上だ! 俺が二安打で、お前は五安打程度の差じゃねえか!
 高卒五年目がその体たらくじゃ、俺の敵じゃないね」
「しまおかぁ……これは来年、どちらが上か分からせる必要があるようだな」
 主人が引きつった笑いを浮かべて島岡の胸元を小突く。
「おお、受けてたとうじゃねえの!」
  同じように島岡が小突き返した。
「てめぇ!」
「この野郎!」
 
 
 
「先輩方、本当に相変わらずですね」
「全くです。相手にしていないなら、五安打なんて細かい数字、覚えてませんよ」
「やれやれでやんす……」
 その様子を対面から眺めていた大神と堤篤弘、山田平吉が肩を竦めて苦笑しあう。
 
 
 それから大神は、思い出したように言葉を付け加えた。
「あ、でも今日の代金は任せて下さい。
 毎年俺ばかりおごってもらってるじゃないですか」
 
「ああ、そんなの良いでやんすよ。
 こんな時くらい先輩づらさせて欲しいでやんす」
「今年は最多脱三振のお祝いも兼ねているから、なおさらですよ」
 山田が顔を横に振りながら答え、堤もそれに続く。
 
「……ご馳走になります」
 大神は満面の笑みで、こっくりと頷いた。
 
 
 
 
 
 
 
 宴が始まって三十分程経った所で、主人はトイレに立った。
 用を足して手を洗っていると、眼前の鏡に映っている化粧室の扉が開かれ、山田が姿を現した。
 
「あれ、山田君もトイレ?」
 主人が鏡越しに声をかける。
「いや、違うでやんす。主人君と二人きりで話がしたかったでやんす」
「おいおい、トイレでそのセリフは勘弁して……」
 主人は苦笑いを浮かべるが、鏡に映っている山田の表情が冴えない事に気がつく。
 何の話か察しが付き、すぐに真剣な表情で振り返った。
 
「……住所、分かったの?」
「そうでやんす」
 山田は顔を伏せポケットに手を入れる。
 だが、すぐに手を出さずに躊躇う様子を見せ、言葉を続けた。
「主人君、本当に行くつもりでやんすか? 今の彼女は……」
 言葉は途中で途切れる。
 
『今の彼女は……』
 
 主人はすぐに山田に返答せず、その言葉を胸中で反芻する。
 それから暫しの間をおいて、冷静に口を開いた。
 
 
「……俺が『分かってあげられない』事は分かってるよ。
 どうあがいても俺は他人だ。
 だから、当人である山田君の心配は重く受け止めるよ。
 ……でも、その上で、伝えておかなきゃいけない事があるんだ。
 伝言だって預かっているしね」
 
 
 山田が顔を上げる。
 眼鏡越しに見た主人の眼は、驚く程に澄んでいた。
 
 五年前は違った。山田はそう記憶している。
 あの頃の主人は、使命感や自身の感情を眼に滾らせていた。
 それはそれで大切な事なのかもしれないが、今回の件に限っては逆効果だろう。
 だけれども、今ならば……
 
 
「……わかったでやんす」
 山田はポケットからメモ用紙を出す。
 それから、主人の手を握るようにしてそれを渡した。
「主人君……オイラからも、宜しく頼むでやんす」
 
 
 
 
 ――ある冬の出来事であった。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
天本玲泉SS
 
玲泉独り

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 深夜。
 この地区では十一時辺りから雪が降り出した。
 予報の通り、それは瞬く間に大雪となる。
 ちょうど日付をまたいだ今現在では、交通量の少ない深夜の住宅街の路地は、すぐに雪で覆われていた。
 降り出して間もないうちにこの降雪量では、翌日は停止する交通機関も生じるであろう。
 ひと気のないこの路地は、雪の降る音でも拾えそうな程の静寂に包まれている。
 静かな夜だった。
 
 
 天本玲泉はそんな荒れた天気の中、傘を差さずにそこを歩いていた。
 当然、両肩と頭部には雪が積もっている。
 のみならず、風に流された雪が彼女の纏っている白いコートにへばりつき、
 やがて冷気によって固まったそれは、もはや氷となっていた。
 
 天本はそれらを払う事もなく、ぽつぽつと、一歩ずつを噛み締めるように足を動かしている。
 
 
 
 
 今夜は、彼女にとって特別な夜であった。
 
 学生時代に『この日この時を迎えると、どのような感情を持つのだろうか』と考えた事がある。
 微かに『おそらく満足感を最も強く感じるのでは』と考えた記憶が残っていた。
 その予想は半ば当たっている、と天本は思う。
 
 
 脳裏には、全身から血を流しながら、両手を地について頭を下げる男の姿が残っていた。
 つい先ほど見たばかりの光景。
 九歳の頃から見たかった光景。
 母と自分を捨てた父への合法的な復讐を行った上で、謝罪を引き出した瞬間の光景だ。
 
 
 
 親友にだけ目的を告げ、日の出島を一人で出て、五年が経っていた。
 彼の足取りを追うだけの日々。
 この五年間、その事だけを目標として生きてきた。
 そしてようやく、この日、その光景を目の当たりにする事が出来たのだ。
 これを満足と言わずに何と言おう。
 全身を血が駆け巡っているのが実感できる。
 今、確かに満足感を感じている。
 それは良い。
 
 しかし……
 
 
 
 
 
 
 天本が、ふと空を見上げる。
 雪雲の隙間から僅かに星が見えた。
 冬の深夜に浮かぶそれは、一層輝いて見える気がする。
 
 
「……やりました。お母さん……」
 空を見上げたままで呟く。
 
「あの人『済まなかった』と言っていましたよ。
 ですが、おそらく本心では無いと思います。
 私があれ以上何をするのかが怖かったのでしょう」
 言葉と共に吐息が、降り注ぐ雪を押しのけるようにして天に登る。
 
「法の下で暮らしているのですから、これ以上の事はしませんが、
 私は生涯あの人を赦さないつもりです。
 だから、お母さんも溜飲を下げて下さいね……」
 ゆっくりと顔を下げ、目を瞑る。
 
 
 
 でも……
 
 
 
「でも、この気持ちが去ったら、私の心には何が残るのでしょうかね……」
 全身に充実感を感じているはずの彼女の表情には、何も灯っていなかった。
 
 
 
 
 
 
 ――遠くから懐かしい声が聞こえた気がする。
 
 でも、それは断末魔の悲鳴。
 
 やがて獄炎が、声の主から空気を奪う。
 
 声は形にならなくなる。
 
 それでも口を開く母は、まるで呪いを吐いているようだった。
 
 消し炭となった母の前で泣き崩れた。
 
 九歳で母を亡くしたあの日、誓ったのだ。
 
 必ず報いると。
 
 祖母がは、母を失った自分を強く抱きしめてくれた。
 
 あのぬくもりの感触は、もう記憶の彼方だ。
 
 普段はそっけない人であったが、愛していた。
 
 祖母も亡くなったのは高校三年の夏。
 
 天本玲泉に、孤独が訪れた。
 
 いや――
 
 
 
 
 
 
「……違いましたね」
 記憶の波から戻った天本は、そっと目を開く。
 
「訪れたのではなく、望んで独りになったのですから……」
 緩慢な動きで首を左右に振る。
 両肩に積っていた雪が落ちた。
 その時になって初めて、今夜は雪が強いと認識する。
 だが、それだけ。
 
 意識して雪を払う事は無く、天本は自宅アパートへと歩き続けた。
 自分一人だけが暮らすアパートだ。
 一人なのは住まいだけでは無い。
 本土に越してきて、日の出島の知り合いと会う事は一度も無かった。
 
 
 
 
 歩きながら、両親はおらずとも日の出島にいた頃は一人では無かった、と思う。
 
 島の人々は皆優しかった。
 家庭の事情を知りつつも、適切な距離で暖かく接してくれた。
 
 親友だと言ってくれた人もいた。
 彼女は『帰ってこい』と言ってくれた。
 
 想いを寄せていた人もいた。
 彼が何か言おうとした時に、祖母が割って入った事があったのは、今でも覚えている。
 あの時、彼は何と言ってくれるつもりだったのだろうか。
 
 だけれども、それを制されたのなら、それが運命なのだろう。
 自分は、運命を変えて良いような人間ではない。
 
 
 
 
「皆、良い人でしたね……」
 呟きながら歩く。
 良い人だった。それは間違いない。
 
 
 
 ならば友は、あの時の母の如く己の感情を呪いのように吐露した自分を見ても、
 もう一度『帰ってこい』と言ってくれるだろうか。
 
 ならばあの人は、自分が隠してきた真実を……
 祖母の為に妨害工作に加担していた本当の自分を知っても、
 あの日の言葉の続きを口にしてくれるだろうか。
 
 
 否。
 期待する事さえおこがましい。
 だから独りになる事を選んだのではないか。
 
 
 天本の表情が微かに変わった。
 口の端が震え、眉は顰められる。
 自分は、彼らと共にいてはいけない人間なのだ。
 あの暖かい島に帰る資格など、持っていない人間なのだ。
 
 自分には、何も残っていないのだ。
 
 
 
 無意識のうちに、足元に積っている雪を蹴っていた。
 手ごたえは無く、雪は消えるように散開する。
 その光景に、自分は怒っているのだな、と感じる。
 尤も、それは自身のおこがましさに対する気持ちであって、満足感の次に訪れた気持ちではない。
 
 
 自宅アパートが視界に入った。
 だが、天本は歩みを止める。
 雪が降り注ぐのも厭わず、もう一度考える。
  満足感の次に来る、自分に残された感情は何なのだろう。
 
 
 あの男の哀れな姿が、再度脳裏に浮かんだ。
 実に気持ちの良い光景である。
 それを観て満足感を感じる自分には、何の嘘偽りも無い。
 それは確かだ。
 
 
 では……
 
 
 胸元に手を当てる。
 
 この、胸の痛みは何なのだろう。
 非人道的な行為自体からくるものでは無い、と思う。
 暫しその理由を考えて……つい先ほど、答えの近くを通過していた事に気が付いた。
 
 実に簡単な事ではないか。
 分かっていた事ではないか。
 苦笑さえ零れた。
 満足感の次に訪れたこの気持ちは、そう……
 
 
 
 寂しさだ。
 
 
 
「……これまでは、引き返す事もできましたね。
 しかし……」
 天本は強く嘆息する。
 
「この夜から、もうそれも叶わなくなったのですね。
 ……独りになったのですね。私は……」
 
 消えてしまいそうな声だった。
 涙が頬を伝っていた。
 
 
 
 母が焼死自殺してから、怒ったり、泣いたりした事は無かった。
 感情を笑顔で押し殺していた。
 でも、もうそうして堪える必要はないのだ。
 延々と続く苦しみから自分は解放されたのだ。
 
 無論、日の出島の皆と、親友と、想いを寄せる人と共に時間を過ごせないのは辛い。
 だけれども、時が経てば忘れる事ができる。
 こちらは一時の辛抱で済む。
 
 
 
「だから、こちらの方が良いですよねえ」
 自分に言い聞かせるように、そう言葉を続ける。
 その言葉には嗚咽が混じっていた。
 頬を伝うだけの細い涙は、いつしか大粒に変わっていた。
 慟哭を漏らしながら、コートの袖で涙を拭う。
 拭っても拭ってもそれは止まらない。
 立ち止まっている間に、吹く風が一層強くなった。
 風に乗った雪が彼女に叩きつけられる。
 吹雪と言っても良いだろう。
 冷気は、いつしか彼女の満足感を奪い、心身に強い寒気をもたらしていた。
 
 天本はやがて拭うのを止め、代わりに両手で顔を抑える。
 そのまま、ろくに前も見ずに再び歩き出す。
 
 
 
 
 
 
 
「独りが、良いなあ……」
 掠れた声で、そう呟いた。
 
 
 
 
 
 
 
「ァーォ」
 不意に猫の鳴き声が聞こえる。
 
 顔を上げれば、自宅アパートの塀の上をハチワレの猫が歩いていた。
 天本の反応に呼応するかのように、猫は塀から飛び降り、足元にすり寄ってきた。
 中腰になってその猫を撫でようとしたが、途中でその動きを止める。
 
 忘れると決めた記憶の彼方から、在る日の光景が蘇る。
 あれは、五年前か。六年前だったか……
 息を引き取ろうとしている野良猫を、想いを寄せる人と看取った事があった。
 
「……主人さん……」
 その人の名前を呟く。
 咽び泣きながら猫に手を伸ばす。
「あの時の猫は……幸せに逝けたのでしょうかね……?」
 
 猫は天本に触れられる直前で身を翻した。
 そのまま、天本が進もうとしていた方向へと逃げる。
 
 
「ァォー」
 だが、途中でその動きを止め、再び鳴き声を上げる。
 逃げた猫の傍に人影が見えた。
 黒いコートを纏った男性だ。
 同じように、雪の中を傘を差さずに佇んでいたのか、コートの上半身には白い部分が目立つ。
 
 見知った顔だった。
 
 
 
 
「あ………」
 
 天本は言葉を失う。
 彼だけには言わなければいけない事がある。
 しかし、突然の来訪に驚くあまり、それを形にできなかった。
 言おう。
 気持ちを落ち着けて、ちゃんと言おう。
 言えば、自分を見限ってくれる。
 独りにしてくれる。
 胸の中でそう何度も呟くが、今の彼女は立ち尽くす事しかできなかった。
 ただ、涙だけは途絶える事無く、ぽろぽろと零れ落ちていた。
 
 
 
「久しぶり、だね」
 主人公が声をかけてくる。
 遠くて表情は良く見えない。
 一歩、一歩、彼が近づいてくる。
 その足取りは眼前で止まった。
 見上げるようにして表情を伺う。
 小さく息を吐いて呼吸を整えているようだ。
 それから、品のある微笑みを浮かべている。
 五年ぶりに目にする彼の笑顔は、あの暖かな日々に見たそれと比較しても、何ら変わった所は無かった。
 
 
「……五年前に、言いそびれた事があるんだ。
 希美さんや山田君から預かっている言葉もある」
 
 
「あ……うああ……」
 天本が大きく首を左右に振る。
 彼の言葉の先に察しが付く。
 嘘だ。
 きっと夢なのだろう。
 出来過ぎている。
 そんな言葉を、掛けて貰えるわけがないのだ……
 
 
「天本さん」
 主人が名前を呼んでくれる。
 優しい声だ。
 ずっと、この声で呼んでほしかった。
 強い葛藤を感じる。
 彼を陥れようとしたのだ。
 人として軽蔑される行為を行ったばかりなのだ。
 自分は、赦されない人間なのだ。
 決心して島を出た……
 
 
 
 
 
 ――それでも。
 
 
 
 
 
 
 
「君は、独りじゃないんだよ」
 
 玲泉は、彼の胸元に抱きついた。
 涙で、もう彼の姿は良く見えない。