天本玲泉は、慰霊碑の前で目尻に涙を貯めていた。
 
「……私……最低、でしょう?」
 やっとの事でそれだけを口にする。
 両手を顔に押し当て、必死に嗚咽を堪えながら、それでも真っ直ぐに見つめてくる。
 その彼女の強い意志に対して、主人公は即答しなかった。
 
 
 
(天本さんは、いつから……)
 主人の胸がきつく締め付けられる。
 
 最低とは欠片も思わなかった。
 それよりも、彼女はいつから、自身と祖母との板挟みに苦しんでいたのだろうか。
 自分と楽しく過ごしていたはずの時も、良心の呵責に苛まれていたのだろうか。
 自然と、彼女の苦しみがトレースされる。
 だが、共感できる苦しみは僅かなものだろう。
 
 彼女をそうも苦しめたのは自分だろうか?
 それとも天本セツだろうか?
 どう答えても、彼女はまた苦しむのだろう。
 ならば……
 
 
 
「……全部、おかしな呪いのせいだよ」
 主人は穏やかな口調でそう告げる。
 強いて言えば、元凶はセツにあるのかもしれない。
 ただ、彼女の心境を考えればセツは責められないし、セツの想いにも考える所はある。
 そう判断して、彼は対象を濁した。
「さっきの話、他の人にしちゃダメだよ。本気にする人がいるかもしれないから」
 
「……すみませ……ん……」
 天本の涙腺はいよいよ崩壊した。
 涙がぽろぽろと流れ出る。
 彼女はその顔を隠すかのように、背を向けて走り去った。
 
 
 
(あ……)
 一瞬、追いかけようかとも思った。
 だが、一、二歩追いかけただけで、彼は歩みを止める。
 今は一人にした方が良いのかもしれない。
 彼女なら、時間を空ければ元に戻れるだろう。
 
 ふと、視界の隅に慰霊碑が入る。
 
 
「………」
 主人は慰霊碑に視線を落とした。
 全ては、ここから始まったのだ。
 あけぼの丸が沈まず、河島廉也が生きていれば、全てが違う世界になっていたのだ。
 
「ある意味、全部があけぼの丸の呪いだったのかもしれないな」
 そう独り言を漏らしてから、視線を前に戻す。
 もう天本の姿は見えない。
 
 
 
 
 
(天本さん……)
 もう一度、彼女の事を想う。
 背中を向けて走り去って行く彼女は、これまでに見た事がない程に号泣していた。
 その姿を思い浮かべるだけで、主人の胸は酷く締め付けられた。
 
 
 
 
 
 
 
 
………
……

 
 
 
 
 
 
 
 
 翌日。
 島に帰って来て間もない野球部の面々は、甲子園で蓄積した疲労を抜く暇もなく、学生服姿で日の出高校の体育館に集まっている。
 この日は甲子園優勝の祝勝会が開かれる事となっていた。
 
 
「いやー、こんなイベント開いてもらえるなんて、おいら人気者でやんす!」
「お前だけじゃねえよ。野球部全体への祝勝会だからな」
 嬉しげな山田に島岡が突っ込む。
 普段であれば辛辣である島岡の突っ込みも、この日はどこか歓喜の混じったものだった。
 
 彼らは、体育館の壇上に並べられたパイプ椅子に腰掛けていた。
 その眼下には、最前列にスーツを纏った中年の男達、いわゆるお偉い方が座している。
 その後方に多数の島民、そして脇には多数の報道陣。
 
 そして主人は、その後方に位置している島民達を、先程から凝視し続けていた。
 
 
 
 
(いない、か)
 二、三回程一人一人の顔を見渡して、僅かに俯く。
 彼は、天本玲泉の姿を探していた。
 昨日の告白を受ける前ではあったが、彼女は祝勝会に来ると言っていた。
 だが、祝勝会の開始まで一分を切っても、まだ彼女の姿は見受けられない。
 
 おそらくは、もう少し一人になりたいのだろう、と思う。
 深く考え込む必要はない。
 今は、それよりも祝勝会だ。
 覚えてきたスピーチはちゃんと喋れるだろうか。
 報道陣からそれなりの質問を受ける事もあるだろう。
 それから……
 
 
 
 
(……いや)
 主人は思考を変える。
 
『……すみませ……ん……』
 脳裏に、昨日の天本の姿が浮かんだ。
 
 なにが、それよりも祝勝会だ。
 昨日、あのような話を打ち明けた天本の方がよっぽど大切に決まっている。
 普段の凛とした彼女からは想像も出来ない、取り乱した様子。
 何故『元に戻れるだろう』と考えてしまったのだろうか。
 あの時の彼女こそが本当の天本冷泉なのに。
 だとすれば、大丈夫等という保証はどこにもないのに。
 自分は、なんという馬鹿なのだろうか。
 
 
 
 
「………」
「……先輩?」
 突然、無言で立ち上がった主人に、隣の席の大神が声をかける。
 
「大神、みんな……悪いけれど、ちょっと用事思い出しちゃった」
 まるでエラーでもした時のように、苦笑しつつ頭をかいて告げる。
 そんなのほほんとした様子とは裏腹に、彼の肩は微かに震えていた。
 
「用事?」
「どういう事でやん……ああっ!」
 チームメイト達が声をかけたその瞬間には、主人は弾き出されたように壇上から駆け出していた。
 
 
 
 
 
 
 

幸福なのです。
 
 
 
 
 
 
 
 シャアアンッ!
 
 日の出神社の麓まで辿り着いた主人が乱雑に自転車を降りると、勢い余った自転車は横倒しになった。
 それをいちいち直すのも煩わしい。
 主人は倒れた自転車に構わず、三段飛ばしで日の出神社に続く石段を駆け上がった。
 
「はあっ、はあ、はあっ…!」
 
 階段の中腹までいかないうちに息が切れる。
 ここまで、全速力で自転車を漕いでおり、無理もない事ではある。
 首を這う汗も気持ち悪い。
 だが主人は足を止めなかった。
 
 
 
『笑っていれば、幸せが来るかもしれないでしょう?』
 また、彼女の姿が脳裏を過る。
 あの言葉を聞いたのはいつ頃だっただろうか。
 細かい時期は覚えてないけれど、その言葉だけは深く心に残っていた。
 
 その言葉を否定するつもりはない。
 だが、あの時の彼女にとって、笑顔は他人から自分を守る為の盾だったのだろう。
 もしくは、他者と分かり合ってはいけないと思っていたのかもしれない。
 いずれにしても、そうしなければ押し潰れる。
 天本が背負っていた呪いの真相は、彼女にとってそれ程に重いものだったのだろう。
 
 
 
 石段を駆け続け、日の出神社の本殿前に出る。
 本殿の脇には天本冷泉の住宅が隣接しており、上がってきた早々にそちらを見やる。
 天本家の玄関の扉は、開かれていた。
 
 
「はあっ、はああ……はあっ……頼むよぉ……」
 猛烈に嫌な予感がする。
 必死に息を整えながら小走りで玄関前に辿り着くと、そこから見える土間に、彼女の学生靴が見当たらない。
 単に靴箱に入っているだけなのかもしれないが、その思考よりも、主人の嫌な予感が勝った。
 
 
「天本さんっ! は、入るよっ!?」
 怒鳴るようにそう叫び、靴を脱ぎ捨てて家内に駆け込む。
 何度か上がった事もあり、多少は勝手が分かっている。
 リビングに通じる障子を勢い良く開ける。
 畳み敷きのリビングにはゴミ一つ落ちておらず、奇麗に整頓されていた。
 主人の視線は、その部屋の一か所に留まる。
 ちゃぶ台の上に、折られていない便せんが一枚置かれていた。
 
 便せんには、中央に一行だけ文字が綴られている。
 数歩近づくだけで、書かれている文字が読めた。
 
 
 
 
 
 
 
 
『さようなら』
 
 
 
 
 主人の全身を、凍てつくような寒気が駆け巡った。
 
 
 
 
 
 
 
 
 ………
 ……
 …
 
 
 
 
 
 
 
 
 十数分後、主人は再び自転車を駆っていた。
 
 あの後、もう少し彼女の家を調べてみると、彼女の自室の勉強机に港の時刻表が置かれていた。
 主人はその事に、微かに安堵を覚えていた。
 彼女は、島を出るつもりのようだ。
 最悪の事態ではない。
 だが、好ましくない事に変わりはない。
 安らぐのも早々に、彼は港へと向かったのである。
 
 
「なんで……なんで一人になるんだよぉ! もう、終った事じゃないか……!」
 張り裂けそうな声。
 泣きそうな顔をしていた。
 追いつかなければ、彼女とはもう会えないかもしれないのだ。
 
 林を抜け、市街地に入る。
 途中の幾つかの信号を無視して一直線に港を目指す。
 ぶつかりかけた車がクラクションを鳴らしたようだが、構わずに走り続ける。
 八月末とはいえ太陽の照りつけは厳しい。
 いつしか汗は全身を覆っていた。
 だが、それを拭う事なく自転車を漕ぎ続ける。
 汗や格好等、歯牙にも掛けない。
 いまはただ、彼女に追いつく事だけだ。
 主人は走り続けた。
 
 
 
 
 
 
 
 
 プァーッ……
 
 
 
 
 
 
 
 
 主人が港の駐輪場に辿り着き、蹴り出すようにして自転車から離れるのと同時に、遠くから汽笛が聞こえた。
 海を一瞥すると、ちょうど客船が走り出した所だった。
 
「嘘だろ……?」
 思わず海の方に駆け寄る。
 だが、こうなってしまってはどうしようもない。
 主人は、両手で頬を張って気持ちを切り替えた。
 
 
「い、いや、今の船に乗っていたとは限らない!」
 そう自分に言い聞かせて港に駆け出そうとした所で、知った顔を見かけた。
 港の出入口付近に藤田巡査がいる。
 今日は祝勝会の為に、港の人の出入りは激しいと聞いていた。
 おそらくはそれが理由で、今日はここにいるのだろう。
 
 
 
「はあっ、はあっ……藤田さんっ!」
 かすれた声をかけながら駆け寄る。
「やあ。そんなに息を切らしてどうかしたかね? そもそも君、今日は祝勝会では……」
「あ、天本さんを……天本さんを見ませんでしたか!?」
 藤田巡査の言葉を無視して尋ねる。
 その尋常ならざる様子に藤田巡査は首を傾げたが、それだけだった。
 特に事情を聞く事もなく、質問に答えてくれた。
 
「ああ、見たよ。ちょうどさっきの船で出て行っていたね。
 夏休みももう短いから、きっと本土へ買い物にでも行くのだろうかね」
「……!」
 
 主人の目が大きく見開かれる。
 張り詰めていた気力が抜け、膝が崩れ落ちた。
 
 
 
 
「間に合わなかった……」
 
 震えた声。
 奥歯を噛み締める。
 やはり、間に合わなかったのだ。
 彼女を一人で行かせてしまったのだ。
 もう、彼女とは会えないかもしれない。
 二度と……
 
 
 
 
 
 
 
 
「何してるんですか、先輩」
 不意に背後から声をかけられた。
 聞き覚えのある声。
 ふらふらと振り返ると、そこには大神博之の姿があった。
 
「お、大神?」
 膝をついたままで彼の名を呼ぶ。
 予想外の人物だった。
 そういえば、祝勝会を抜け出していたのだった。
 自分を追いかけてきたのだろうか。
 
 
 
「ほら、立って下さいよ」
 大神は主人に近づくと、強引に主人の腕を引き起こす。
 それから、親指を立てて背後にある車を指差した。
 
「車を出してもらって正解でしたよ。
 行きましょう先輩。大方、天本先輩を追いかけるんでしょう?」
 さも当然の如く告げる大神。
 
「え? お、お前、なんでその事……」
「さっき天本先輩の事を聞いていたのが聞こえてきました。
 それに、先輩がああも必死になるんだから、天本先輩の事以外では思い当たりません」
「お、おう……」
 図星である。
 一度気持ちが切れた事と、その突然の展開に、主人は少し落ち着きを取り戻した。
 
「ところで大神、祝勝会は?」
「山田先輩達が何とかしてくれていますよ。
 皆驚いていましたけれど、主人先輩の事だから、何か理由があるのだろうとは分かってくれてました。
 ただ、誰も追いかけないというのも何ですので、何名かは、こうして先輩を探しに来たんです」
「そうか……」
 チームメイト一人一人の姿を思い浮かべる。
 胸に暖かいものを感じた。
 
 
 
「さ、そんな事よりも早く車に乗って下さい。
 ウチからヘリを出しますけれど、本土のヘリポートから港までの移動時間を考えたらギリギリです」
「へ、ヘリ?」
 やや裏返った声を出す。
「お前、い、いいのか? ヘリを動かすのって結構かかるんじゃないのか?」
「大神家にとっては些細なものですよ」
 大神はおどけた口調でそう答える。
 口の端に笑みを浮かべていた。
 それから、彼は主人に背を向けて車に向かいながら言葉を続けた。
 
「……先輩には、色々と助けられましたからね。
 借りは返しておきたいんですよ」
 
 
 
 
 
 
 
 
………
……

 
 
 
 
 
 
 
 
 本土の港に客船が着く頃には、陽は黄金色へと変わっていた。
 雲の合間を縫って輝く太陽光は、空だけでなく海の色も変える。
 その海の中に、太陽は太く長く、そして白く映し出されていた。
 
 港を出た人の数は数える程であった。
 日の出島からの便であれば致し方ないものである。
 祝勝会の帰りの便もまだ後だ。
 
 そして……
 その疎らな人々が港を出てから数分の間を置いて、天本玲泉は姿を現した。
 学生服を纏い、肩には学校指定のセカンドバッグを掛けている。
 うつろな足取りだった。
 瞳に力は無い。
 
 
 
 
 
 
 
 
「天本さん」
「あ……」
 天本は僅かに声を漏らした後で絶句する。
 その名を呼んだ者は、港出入口の真正面にいた。
 主人公。
 それが、その者の名前だった。
 
 
 
 
「何故……」
 主人が語りかける。
「何故……一人で行くの?」
 
 天本は俯く。
 黙ったまま返事をしない。
 主人は構わずに言葉を続けた。
 
「いや、大方は分かるよ。昨日話してくれた事が原因だよね?」
「………」
「でも、もういいじゃないか」
 主人は笑いかける。
 どこか、焦りのある笑みだった。
 
 
「俺は何も気にしていないよ。
 それに、悪いのは天本さんではな「貴方は……」
 
 天本が口を挟んだ。
 顔をゆっくりと上げる。
 彼女は微笑んでいた。
 作り物の微笑みだ。
 
 
 
 
 
「優しい人です。本当に……」
 噛み締めるようにそう言う。
 それから、また彼女は顔を下げた。
 主人からは表情が良く見えなくなる。
 
 
「でも、私はそれに甘えてはいけないのです」
「甘えては……」
 主人は彼女の言葉を否定しようとする。
「甘えてはいけない理由はない、ですか?」
 また天本が主人の言葉を奪った。
 先に告げられて言葉を失った主人の代わりに、天本はなおも口を開く。
 
 
 
「貴方はそう言ってくれる方です。
 全てを知っても許してくれましたものね……」
 
 天本は、もう一度顔を上げた。
 必死に笑もうとしている。
 だが、口が震えている。
 その先が先の言葉が出てこない。
 主人は、数歩彼女に近づいた。
 
「こないで!」
 天本が強く制する。
 これまでに聞いた事のない、必死な声だった。
 
 
 
 
「……でも、私は最低だから。
 貴方と一緒に居てはいけないんです……」
 涙声。
 目は笑えていたが、涙は頬を伝っていた。
 
「いいですか、主人さん。
 貴方が許してくれても、私の罪は消えないんです……消えるわけがないんです!」
 天本は語尾を強めた。
 流れる涙を拭うが、拭っても止まらない。
「……貴方が許してくれただけでハッピーエンドだなんて、都合が良すぎますよ。
 貴方の高校野球生活を乱し、貴方を騙した事実は変わらないのだもの」
「そん、な……」
 主人は力なく呟く。
 
「全てが終わっても、許してもらえても、終わらない。罪とはそういうものです。
 人は、罪を背負い続けなくてはいけないんです。
 ふふ……困りましたね、どうしましょう……」
 
 天本は、必死に言葉を紡ぎ出した。
 言葉の最後になると、歯が鳴る音が聞こえてきた。
 単に呂律が回っていないだけではない。
 彼女は、怯えていた。
 
 
 
 
 
「じ、じゃあ、俺も背負うよ。
 俺も、いつまでも一緒に背負い続けるよ……」
 主人は、更に天本に近づきながら言葉を返す。
 だが、彼の言葉にも力は篭っていない。
 話しかけた時の焦りの理由が分かった。
 これは、説得できないかもしれない――
 
 
 
 
 
「……嬉しい」
 天本が小さな声でそう言った。
 一瞬、主人は表情を輝かせる。
 だが、彼の輝きを否定するかのように、彼女は首を左右に振った。
 
 
 
「でも……駄目、なんです」
 涙がぼろぼろと零れ落ちる。
 にこりと下がった目尻。
 満面の笑みと言っても良いだろう。
 それでも、涙には止めどがない。
 嗚咽も混じっていた。
 
「貴方といると……ひっく……貴方の笑顔を見ていると、自分の罪を忘れてしまいそうで……。
 貴方と、お婆様と……ひぐっ……野球部の方々にした事を忘れてしまいそうで……
 だから……私は、貴方とはいられないんです。一人じゃなきゃ……えぐっ……だ、だめなん、で……」
 
 
「うるさいっ!!!」
 主人は怒った。
 同時に彼女に駆け寄り、きつく抱き寄せる。
 抱き寄せた彼女の体は、大きく震えていた。
 
「!!」
「なんでだよ! なんでそんなに自分に厳しいんだよ!
 許してもいいじゃないか!!」
 彼女の耳元で叫ぶ。
 主人には、彼女を説得できる言葉が分からない。
 それが出来る程に、彼は人生経験を重ねていない。
 だが、募る想いだけは大波のように彼の心を揺らしている。
 そして、その想いは堰を切った。
 
 
「忘れて何が悪いんだよ!? もう十分だよ!
 仮に……仮に忘れちゃいけないとしても……俺はどうなるんだよ?」
「! う、あ……」
 天本の体がピクリと跳ねる。
 それを収めるかのように、主人は抱きしめる力を一層強めようとする。
 しかし、腕に力が入らない。
 彼の体もまた震えていた。
 
 
 
「頼むよ、俺、置いていかないでくれよ……
 俺、俺さ……ぐすっ……」
 主人が涙ぐむ。
 震えはまだ収まらない。
 
「俺、天本さんがいなきゃ……
 だから、だから……お願い……お願い、します!」
「主人、さん……なにを……」
「お願いします!! どうか、どうか行かないで……行かないで下さい!
 お願いだから……! う、うあ……ああああっ!!!」
 
 恥も外聞もない。
 懇願した。
 泣いた。
 拙い伝達。
 だが、彼の中心に腰を据える感情。
 
 そして……
 
 
 
 
「うあ……ああああああん!」
 天本は、主人の肩に顔を埋めた。
 同時に笑顔が失われる。
 仮初の笑顔が失われ、彼女は切なさだけを携えて泣き喚いた。
 
「私……私……あ、あああっ……
 嫌! 嫌です!! 貴方と離れるなんて……
 ずっと、ずっと離れません……ああっ、ああああん!」
「ふえっ……あ、天本、さん……
 うあっ、あっ……ああああああああん!!」
 
 二人の泣き声が響き渡った。
 強く抱き合う。
 感情の求めるままに、感情を通わせ合う。
 暮れゆく陽は、港の前に、二人だけの影を作り出していた。
 
 
 
 
 
 
 
 
………
……

 
 
 
 
 
 
 
 
 数十分後、本土側港の待合室で、二人は肩を並べて座っていた。
 港の駐車場で待ってくれていた大神に、もう問題はない事と二人で船で帰りたい事を告げると、彼は笑顔で送り出してくれた。
 
 
 この日最後の太陽光が、海側に設けられたガラスの壁を突き抜けて待合室を照らし、眩しい。
 その待合室に他の客は殆どおらず、聞こえてくる音は時折電子音と共に発着アナウンスが入るだけ。
 静かな空間だった。
 日の出島行きの次の船が出るまでには時間がある。
 彼らはその静かな空間で、時折どうでも良い言葉を交わしていた。
 
 
 
 
 
「天本さん」
「はい?」
「何か飲み物買ってこようか?」
「いいえ、大丈夫ですよ」
 
 
 
 
 
「天本さん」
「はい?」
「何かおやつでもいる?」
「いいえ。ふふっ」
「何かおかしい?」
「いえ……初めてのデートの時も、そうして気を遣ってくれましたよね」
「そだっけか」
「そですよ」
 
 
 
 
 
「天本さん」
「はい?」
「……幸せです」
「……はい」
 
 
 
 
 
 港の黄昏時は、ゆっくりと時を刻んでいった。