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三月、放課後の学校の廊下。
「ごめんね、天本さん。今週末は予定があって……」
申し訳ないという気持ちを体全体で表そうと、両手を合わせて謝る主人公の姿に、天本玲泉は然程失望感を覚えなかった。
今回のデートの誘いは、断られるような気がしていた。
最近の彼は多忙そうだからである。
ここ最近の彼は、毎週末のように本土に出かけている。
一体何の為に、そうも足繁く通うのか気になる所ではあったが、その理由を聞いた事はない。
彼がそうも熱を入れる事なのだから、大方野球に関する事だろうという目星はついている。
だが、直接聞いた答えではない。
彼とは交際関係には至っていないが、友人止まりだろうと、本土に行く理由を聞く事に支障はない。
支障はないのだが……もしも自分の予想が外れていたら、という気持ちが天本を躊躇させていた。
「そうですか。ごめんなさい、今日にお誘いして」
「こっちこそごめんね」
「いえいえ、こちらこそ……」
互いに頭を下げ合う。
その姿がなんとも滑稽に思えて、天本は苦笑を浮かべながら頭を上げる。
彼も似た事を考えていたのか、バツの悪そうな表情で頭を上げた。
それから、グーを平手にポンとぶつける。
『思いついた!』のポーズである。
「ああ……でも、来週末なら空いているかな?」
天本の瞼がピクリと反応する。
表情が明るくなりかけるが、冷静を装い、必死にそれを抑え込む。
「私は来週末でも大丈夫ですよ」
「良かった。じゃあ来週末、遊びに行こうか」
彼は笑顔で頷く。
「でも、宜しいのですか? 最近お忙しいみたいなのに……」
そこへ、天本はそう尋ねた。
彼は空いているとは言ってくれたが、無理をしていないとも限らない。
それに、多忙の理由にやんわりと触れてみたい気持ちもあった。
「ん。来週末なら大丈夫なんだ」
彼はそれだけ答える。
天本に、それ以上を尋ねる勇気はなかった。
「なら良かったです。では来週末に」
「うん。待ち合わせはそのまま、午後二時に校門前で良いの?」
「はい」
頷く天本。
「了解! 楽しみにしてるね」
主人は元気良く頷いて軽く手を振る。
そして、小走りで靴箱の方へと去っていった。
「女、ね」
「っ!?」
不意に背後から声をかけられ、天本はしゃっくりのような声を漏らしてしまった。
慌てて振り返ると、クラスメイトの神木唯が、半分開かれた教室の窓から顔を覗かせている。
どうやら先程までのやりとりを見られていたようだ。
天本は強く狼狽しながらも、その驚きを、声をかけられたものに対するものに見せかけようと、頬に手を当てながら言葉をかけた。
「突然声をかけられて驚きましたよ」
「あはは、ごめんごめん」
唯はカラッとした笑顔で頭を掻く。
「で、女……とは?」
「あ、そうそう。女よ、女!」
唯が女と連呼する。
質問に対する返答にはなっていなかったが、天本は嫌な予感がする。
『女』は、天本が案じていたケースに関連のある文言であった。
「実はこの間、本土の商店街でたまたま主人君を見かけたんだけれど……」
唯が具体的な話を始める。
「ええ」
「そこで声を掛けようとしたら、同い年位の女の子と一緒だったのよ」
「………」
天本は口をつぐむ。
一方の唯も、こうもはっきりとした反応は予想外だったようで、暫し沈黙した。
彼女は、言って良いものかと躊躇しているようだったが、やがて声のトーンを落としながら話を続けた。
「ええと……天本さんよりも少し長いくらいの茶髪の子なんだけれど……
ごめん、この話、もう止める?」
「いえ、お気遣いなく」
天本は首を左右に振る。
苦笑したつもりだったが、表情は強ばっていたかもしれない。
「……うん。それでね。随分と仲が良さそうには見えたわ。
言い辛いんだけれど……傍目には、男女のカップルみたいに見えた」
「……そうですか」
天本は顔を伏せる。
これ以上表情を作るのが苦しくて、目の前の友人には顔を見せない事にした。
「ごめんね、天本さん」
唯がもう一度謝る。
自分を落ち込ませるような話をして申し訳ない、という事だろう。
つまり彼女は、自分が主人公に想いを寄せていると思っているのである。
天本は、唯に背を向けて顔を上げた。
否定の言葉が口から漏れかける。
だが、否定しない。
気を遣ってくれている友人に、照れ隠しとはいえ嘘をつくのは気が引けた。
「お気になさらないで下さい」
そう言いながら振り返る。
その時には、もう天本は笑顔を作り出す事が出来ていた。
申し訳なさそうな唯に、ペコリと頭を下げる。
胸は、とても痛かった。
あなたは誰に恋焦がれ
翌週末は、快晴だった。
適度に浮かぶ雲の間を縫うようにして、柔らかな日差しが差し込む。
それはもう、完全に春のものと言っても差支えが無い。
そよぐ風も心地良い。
それに誘われたのか、並木道に並ぶ桜には、ぽつぽつと開花を始めたつぼみも見受けられる。
遊びに出かけるには絶好の日だった。
天本玲泉は、待ち合わせの時間である午後二時の十五分前には、日の出高校の校門前に着いていた。
ワンピースの上に薄手のカーディガンを纏っただけの出で立ちだ。
家を出る前には少し寒くないかという不安要素であったが、いざ外を歩いてみるとその心配は杞憂だった。
むしろ、風をその身に受けるのには適した衣服で、彼女は気分良く校門前まで歩いてきた。
「少し早すぎたかもしれませんね」
校門前から、校舎外壁に供えられた時計を見上げた天本は、自然と零れる笑顔を抑えずにそう呟いた。
気持ちの良い春。
周囲にはひとけが無く、気持ちを抑える必要もない。
そして、久々のデート。
笑顔になるのも当然である。
そのまま校門前で待つうちに、約束の二時になった。
彼のやってくるであろう方向を向きながら待っていたが、彼の姿は視界に入ってこない。
これまでのデートでも、稀にそういう事はあった。
大方の理由が、寝坊や支度の遅れである。
五分十分遅れ、全力で駆けてくる時の彼はいつも滑稽だった。
彼女は気分を害する事もなく、そんな彼を許容し続けている。
「さて、今日はどんな理由でしょうか」
そう呟きながら、遅刻時の彼の姿を想像して、天本は苦笑した。
――二時半になった。
天本は、表情を曇らせて校門前に立ち続けていた。
「……遅いですね」
独り言が小さな声になる。
三十分の遅刻は過去に例はない。
とすれば、これまでに無い理由があるのかもしれない、と天本は思う。
もしかしたら、不慮の事故にでも巻き込まれているのかもしれない。
或いは、完全に忘れられているのかもしれない。
ど忘れと事故であれば、ど忘れの方がまだ良いだろう。
自身の感情を抜きにすれば、ではあるが。
いずれにしても不安である。
残念ながら天本は携帯を持っておらず、この場で連絡を取る事は出来ない。
直接彼の家に行ってみようとも思ったが、入れ違いになる可能性を考えると足は動かなかった。
結局、天本は、主人を待ち続けた。
――三時になった。
彼はまだ姿を現さない。
彼の姿を探す事に疲れた天本は、背中を校門に預けて顔を伏せ、まだ待ち続けていた。
時折島民が前の道を歩くが、いずれも然程親しい間柄ではなく、彼の様子を見て来てもらう事はできなかった。
「……茶髪の子、ですか」
主人の事を考え続けるうちに、先日の唯の言葉が脳裏に浮かんだ。
男女のカップルみたい……唯はそう言っていた。
直接聞いたわけではなく、自分自身が見たわけでもないのだから、その言葉の信憑性は疑問である。
だが、天本の気持ちは揺れた。
あの時、天本は確かに動揺した。
必死にその動揺は押し殺したが、こうして何もしないでいると、その動揺が再び顔をもたげた。
自分との約束を忘れ、本土で件の子とデートする主人の姿がありありと浮かんでくる。
酷い妄想だ。
彼はそのような事をする人物ではない。
理屈ではそう分かっている。
分かっているが……それでも一度浮かんだその妄想は、天本の心に張り付いて離れようとしない。
そうしているうちに、まるでその妄想が事実であるかのような気がするのだから、人の心とは不思議なものである。
「ふぅ……」
天本は深く息をつく。
「寂しい……」
天本の口調は、心と同じように沈んでいた。
――四時。
約束から二時間が経過したが、彼は姿を見せない。
暖かかったはずの春風は、すこしだけ冷気を帯びてきた気がする。
天本はいつしか校門前にしゃがみこんでいた。
地べたに腰を落とし、自身の両膝を抱いた体育座り。
当然ワンピースは汚れるが、それも厭わないくらい疲れている。
そうして、体を縮こまらせて待ち続けた。
「………」
もう数十分は独り言さえも発していない。
両膝の間に顔を埋め、じっと待ち続けるだけである。
ただ待つだけの行為が、こうも疲れるものだとは思わなかった。
おそらくは、精神的な疲労も作用しているのだろう。
(……なんで)
顔を埋めたままで、天本は考える。
先程から、同じ事ばかりを考えている。
思慮深くなりすぎるのが情けない気がして、口の端をキツく結んでみたけれども、思考は止まらない。
(……私、なんで主人さんを待ち続けているんでしょうか)
二時間の待ちぼうけである。
どのような理由があるにせよ、彼が遅れてくる可能性は低いと思う。
そうであれば、時間の無駄としか言いようがない。
それに、仮に彼が現われてもだ。
釈明を受けるなり、遅れてデートするなりしたとしても、それは良い事なのだろうか。
自分は、彼に大切な事を隠している。
きっと許してもらえない。
許してもらえるはずがない。
それを分かった上で彼との関係を深めるというのは、刹那的で、彼に対する二重の裏切りでもある。
待ち続ける事には害しかないと天本は思っていた。
ならば、何故……
「だって」
膝の中に声を漏らす。
無意識のうちに漏れた声だった。
頬が熱くなってくる。
目頭に涙が浮かんでくるのも感じられた。
何故泣いているのだろうか。
その理由も分からない。
天本は、一層強く膝を抱き寄せた。
「だって、好きなんだもん……」
「天本さんっ!」
男性の声が聞こえてきたのは、その瞬間だった。
「!!」
天本は背筋をびくつかせて、反射的に顔を上げる。
突然名前を呼ばれた事に対する反応だった。
その声の主を意識したのは、その次の事である。
「……主人、さん?」
彼の名を口にする。
いつの間にか、眼前に主人公がいた。
顔を伏せていた上、物思いにふけっていたからだろうか、全く気が付かなかった。
眼前の彼は両膝の上に手を乗せ、頭を下げて、荒い息を懸命に整えている。
野球部の彼でも息が切れる位の勢いで走ってきたのだろうか。
「はあっ……はあ……天本さん、ごめ……」
その姿勢のまま、主人は顔だけ上げて、真っ先にそう口にする。
だが、謝罪の言葉を全て口にしないうちに、彼の苦しげな表情が憂いを帯びたものに変わった。
彼にしては珍しく、泣きそうな顔をしている。
(泣きそう……ああ、私のせいですね)
感情が高ぶっている彼女の中の、冷静な天本玲泉がそう分析する。
いつも通り、笑顔を浮かべないと。
感情を悟られないようにしないと。
可能かどうかは別として、そんな指示が届く。
天本は主人公を見上げながら口を開いた。
「遅刻ですよ、主人さん」
笑みの成分が強い、泣き笑いの表情だった。
………
……
…
「……それで、うめさんはもう大丈夫なのですか?」
「うん。暫くは父さんが様子を見に行くけれど、当面は問題ないんだって」
「良かった……」
天本は胸に手を当てて、安堵の表情を浮かべる。
――彼が遅刻した理由はこうであった。
彼は予定通り、待ち合わせの場所に向かおうとしていたらしい。
ところがその道中、駄菓子屋の店主である池沢うめの飼っている犬とはちあわせた。
犬が妙に騒ぐもので、嫌な予感がして駄菓子屋に向かってみると、うめが倒れている所に出くわしたそうだ。
そこからが慌ただしかった。
急いで診療所を営む彼の父に電話をして来てもらったは良いが、
救急治療を手伝ったり、診療所へ道具を取りに戻ったりと、彼もまた、うめの為に時間を費やする事となった。
そうなれば、天本へ連絡できるはずもない。
だが、懸命な治療の甲斐あって、うめの症状は落ち着きを見せた。
その後、あとは自分に任せて良い、との言葉を父から受けてから、彼はすぐにこの場に駆けつけてくれたのだった――
「天本さん、ごめん! ほんっとうに……」
主人が頭を下げる。
一通りの説明の後で、彼はこうして何度も謝り直している。
「主人さん、もうよして下さい」
「いや、でも二時間も……」
「やむない理由ですので……」
「でも」
「それとも私が、うめさんの治療よりもデートを優先して欲しいと思うような人間に見えます?」
「あ、いや……」
少し意地の悪い返答をする。
案の定、主人は言葉に詰まった。
だが、この先の言葉を口にしなければ、本当に自分は意地が悪い人間だ。
「それに……」
天本が言葉を続ける。
もう泣いていないが、声のトーンは高いものではなかった。
「ごめんなさい、主人さん。謝るのは私の方です。
主人さんをお待ちする間、私、主人さんの事を疑ったんです」
身長差のある彼を見上げる。
真っ直ぐに彼の目を見ながら、天本は語り続ける。
「主人さん、今日の待ち合わせの事を忘れているんじゃないかって……」
「いや、二時間も待たせたら、それは……」
「それだけではありません」
天本の言葉が主人を遮る。
「……その……」
一度言葉に詰まった。
緊張する。
胸が高鳴る。
目を逸らしたくなる。
だが、言わなければいけない。
天本は僅かに肩をいからせて、懸命に口を開いた。
「……本土でご一緒だったという、茶髪の子と一緒じゃないのか、とも……」
「茶髪の子?」
主人が首を傾げる。
すぐに思い当たる人物ではないのだろうか。
「はい。この間、私よりも少し長い茶髪の子と、商店街を仲良く歩いていたと小耳に挟んで……」
「んん……」
頭を掻きながら考え込む主人。
だが、その手の動きはすぐに止まった。
「あ……秋生か!」
どうやら思い当たりがあったようで、主人は一人で何度も頷く。
秋生。
それが茶髪の子の名前のようである。
一体、彼とは……
「秋生は大安高校時代からの友人なんだ。
俺と秋生と、もう一人大安の赤坂って捕手の三人とで、よくつるんでたんだよ。
ただ、最近はそうもいかなくてさ」
天本の案じていた事を、主人が語り始める。
不安げな天本をよそに、その喋り方には躊躇が感じられない。
「赤坂が部活忙しくて時間が取れなくなったんだ。あー、そこの所は俺も同じだけれどね。
甲子園に行くには大安高校は避けられない相手だし、ここの所よく偵察に行ってるんだよ」
「あ……」
天本が声を漏らす。
一つ、疑問が解消された。
彼がこの所忙しそうにしていたのは、それが理由である。
やはり、野球だったのである。
「でも、偵察だけじゃ限界もあるからさ。
この間秋生に、赤坂から野球部の話を聞いていないか、聞き出そうとしてたんだ。
目論見はあっさり見破られて、飯を奢らされただけだったけどね。はは。
いやー、しかし、誰に見られてたんだろ……」
「聞き出す、ですか……?」
天本が主人の言葉を繰り返す。
同時に、胸の鼓動が落ち着くのが自覚できた。
だが、彼の言葉の意味は再確認しておきたかった。
「うん。デートでもなんでもないよ。単に友達に探りを入れただけ。
……ええと」
主人がそう告げながら、顔を赤らめる。
何故そこで顔を赤らめるのだろうか。
(……あ)
天本の心中に、一つの可能性が浮かび上がった。
一度落ち着いたはずの天本の胸が再び高鳴る。
「……天本さん、嫉妬してくれてたの?」
主人が問う。
瞬時に、目眩にも似た緊張が天本の全身を走った。
何とも言えない甘い雰囲気が漂う。
背中がむず痒かった。
でも、普段冷静を装いながら、こんな所で狼狽えるわけにはいかない。
言って良いのだろうか? と良心が咎める。
でも、これ以上気持ちは抑えられない。
だから、天本玲泉は勇気を振り絞った。
「……はい。それはとても」
彼女は、最高の笑みを浮かべて答えた。
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