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夜闇の中を歩く主人公(ぬしびと こう)の頬を撫でる風は白かった。
風に色は無い。しかし、この冬の冷たさを表すのには白という言葉が適切だ、と主人は思う。
いざ口すると詩的な言葉だが、何の事はない、単に冬と白を掛けて連想しているだけである。
いずれにしても、寒い事に変わりはない。
特にこの日の冷え込みは酷く、空には所々雲も掛かっており、雪の気配を感じさせる。
「ふええ……」
道中、彼はそんな空を見上げて、締りのない声を漏らす。
ほんの僅かな間そうしていたが、すぐに前を向く。
「急ご」
短く呟く。
それだけでも、冷たい風が口内に入ってきて、また強く寒さを感じる。
学生鞄を持つ為素肌が剥き出しになっている手も大分冷たい。
この調子で歩き続けると、日の出神社に着くにはまだ十分は掛かる。
そう判断した彼は、歩調を小走りに切り替えた。
そんな彼を急かすように、周囲を囲む木々が風に揺らされてざわめく。
冷たい、夜である。
微笑み
日の出神社の鳥居を潜った主人は、神社を一瞥した。
暗闇の中佇む神社は、当然ながら暗くてはっきりと姿形を認識する事はできない。
しかし、どこか見るものを吸い込んでしまうような恐ろしさを感じさせる。
考えてみれば、この様な時間に神社を見るのは初めてであった。
「夜の神社って何か出そうだなあ」
ありきたりな感想を漏らす。
だが、事実眼前の神社は、万人に同じ事を連想させるような恐ろしさを持っていた。
あまり長く見るものではないな、と考え、神社に隣接する天本の家の方へ足を進める。
その時であった。
シャアッ……!!
不意に、紙を切り裂くような鋭い音が聞こえた。
主人は思わず背筋を伸ばして反応してしまう。
「まさか……」
反射的に、幾つかの恐ろしいものを連想する。
それから、すぐに鳥かなにかだろうと考えて、音のした方を見ようとする。
シャアッ!!
同時に、また同じ音がした。
今度は意識していた分、はっきりと聞き取る事ができた。
水を何かに打ち付けたような音である。
改めて音のした方を凝視した。
それは、神社内に備わっている井戸の付近であった。
井戸の付近には、白装束の人間がいるようである。
(お、おいおいおい……)
恐怖に強く胸を鼓動させる。
それでも、そこから目を離せないでいると、白装束は井戸水を引き上げて自身の体にかけた。
そのうち、空を切った水は床に落ちて、またあの音を出す。
水垢離であった。
想定外の、得体の知れない光景に、主人は思わず引き返そうとする。
だが、水に濡れた白装束の髪型が天本玲泉に類似していると視認して、彼は引き返す事をやめた。
水垢離の理由に思い当たりはないが、何にしてもこんな寒さの中で水を被れば、彼女の体が危ない。
「あ、天本さん! 何を……!」
天本玲泉だと判断した彼は、そう声を張り上げて白装束に駆け寄る。
が……
「なんじゃい!!」
白装束が返事をする。
そんな彼の声よりもはるかに大きい、元気な声だ。
「うえっ……」
白装束の返事を受け、また近づいて顔を認識した主人は、唸るような声を漏らした。
白装束は、確かに天本さんであった。
正確には、天本セツである。
………
……
…
数十分後。
天本玲泉の自宅リビングで、主人はちゃぶ台を前に緑茶を飲んでいた。
茶柱立たないな、なんてくだらない事を考えていると、そのうち巫女服の天本玲泉が入ってきた。
「すみません、お待たせしました。
やっと祖母の世話が終わりまして……」
「いやいや、こっちこそごめんね。お茶貰っちゃって」
互いに頭を下げる。
それから、天本はちゃぶ台の向かい側に正座した。
それを待っていたかのように、主人は言葉を続ける。
「セツさん、さっきのあれ、水垢離?」
「その通りです。
体にも悪いですし、もう歳なのですから、止めてほしいとは言っているのですが……」
天本は部屋の外を一瞥してから、力のない声でそう答えた。
セツの性格を考える限り、何度言っても聞き入れてもらえていないのだろう、と主人は思う。
「それでも、水垢離の直後はむしろ気力が溢れているようで、強く言えないのですよ」
「あらら……天本さんも苦労しているんだ」
「ええ、まあ……」
天本が苦笑を返す。
「ところで、こんな遅くに何の御用でお見えになったのですか?」
「あ、そうそう。それなんだけど……」
主人は軽く両手を打つと、傍に置いていた鞄に手を入れた。
中から、文庫本を一冊取り出す。
「これ、忘れ物」
「あら、確か……」
天本が人差し指を顎にあてがう。
「うん。天本さんが机の上に忘れていった本。
唯さんが見つけたんだけれど、もう陽も落ちて夜道は危ないから、
代わりに俺が届けようと思って預かったんだ」
「それは……ありがとうございます」
天本は居住まいを正して深々とお辞儀をする。
だが、頭を上げると、首を捻りながら言葉を続けた。
「でも、それだけ……ですか?
それだけの為に、夜道を神社まで来て下さったのですか?」
「いやー、それだけって事はないと思うよ」
主人は笑いながらそう答えた。
「だってさ、天本さん、今日この本がむちゃくちゃ読みたかったかもしれないでしょ?」
「あ………はい。事実、そうです」
「でしょでしょ? なんか落ち着かないよね、そういうのさ。
いやー、良かった良かった!」
勝手にうんうんと頷いて納得する主人。
「………」
天本は、そんなクラスメートを、少しばかり呆気にとられた様子で眺めていた。
だが、やがて口の端を緩めて、仕方ない人だと言わんばかりに頭を左右に振った。
我が子を見守るような、温和な表情であった。
「ありがとうございますね。
お茶、召し上がられたら、神社の少し先までお送りします」
天本が優しい声でそう言った。
………
……
…
天本の家でくつろいでいる間に、外では雪が降りだしていた。
雪そのものは然程大粒ではないが、風が強い分、雪は容赦なく体にぶつかってくる。
主人は天本に先導されて井戸の近くを歩いた所で、ふと、セツの事を思い出した。
「天本さん」
天本に後ろから声をかける。
彼女が顔だけ振り返るのを待ってから、主人は言葉を続けた。
「叶うと良いね」
無邪気な声でそう告げる。
「なにが……ですか?」
「セツさんの事だよ。セツさん、水垢離やってたって事は、何か祈願でもしてたんでしょ?
何を祈願していたのかは知らないけれど、そこまでするんだから、よっぽどの事だと思うんだ。
だから、それ、叶うと良いね」
主人は目尻を下げながらそう答えた。
明るい顔だった。
見るものを和ませる笑顔だった。
「………」
だが、天本玲泉は笑わない。
一瞬だけ、口を開けて驚いたような様子を見せたが、それを隠すようにすぐに前を向いた。
僅かに、その目は揺れている。
寒さのせいではなかった。
「……そう、ですね」
やがて、天本は呟くように返事をした。
消えてしまいそうな、小さな声。
そこで、主人はやっと何か彼女の様子がおかしい事を察した。
「主人さん」
だが、主人がどうかしたのかと尋ねる前に、天本が彼の名を呼ぶ。
「主人さんは、お優しい方ですね」
「え……俺が?」
予想外の切り口に、主人は首をかしげる。
「はい。……祖母の事、気遣って下さってありがとうございます。
でも、そうもお優しいから、呪いに付け入られるのではありませんか?」
彼女は相変わらず表情を見せない。
だが、背中越しに掛けられたその言葉は、どこか苦笑混じりの軽いものだった。
どうやら自分の思いすごしのようだ、と主人は胸をなでおろす。
「ははは、そんなものなのかな。そりゃ困ったね」
「ふふ……ええ、ご油断なきよう」
主人が笑う。
天本も明確な笑い声を立てた。
暫しの間そうして笑い合っていたが、やがてどちらからともなく笑いのをやめる。
天本が、振り返った。
雲の間から僅かにのぞく月が、彼女の顔を照らす。
雪の舞う風の中、天本玲泉は微笑んでいた。
目は鋭く、そしてはっきりと開かれている。
口は真横に結ばれているようにも、若干緩んでいるようにも見える。
髪が風ではためく。
綺麗な微笑みだった。
それでいて、どこか人工的なものを感じる微笑みだった。
笑みではあるが、無表情であるようにも感じられた。
主人は、何も言えない。
吸い込まれるような彼女の笑みに、一時的に見入っていた。
口は放心したように開かれ、視線は彼女に吸い込まれる。
心を、奪われていた。
「………天本、さん……」
やがて気を取り直すと、それだけを言葉にした。
名を呼ばれた天本は、身を翻して前を向く。
また、彼女の表情は見えなくなった。
「行きましょうか、主人さん」
天本がそう告げて、歩き出す。
主人はそんな彼女の背中を眺めていたが、すぐに後を追って歩き出した。
月明かりは、二人の行先を照らしていた。
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