10月に入った。
 季節は秋めいた様子から完全な秋へと移り変わり、日の出島の自然は鮮やかに紅葉している。
 風からは涼しさというよりも冷たさを感じる。
 秋に入ったばかりだというのに、近々訪れる冬の寒さを予感させる風であった。
 
 主人達が日の出島に越してきてから早一か月強。
 そして、天本玲泉との同居生活が始まってから早一か月強。
 心の底から打ち解けるのにはどれ程の時間を要するのかもわからないが、
 新生活に対する慣れであれば、一月もあればそれなりには生じてくる。
 そしてその慣れは、彼らの生活にちょっとした事件をもたらしていた――
 
 
 
 
 
 ――某日。
 陽が落ちるまで部活に励み、大いにくたびれた主人は、自宅の扉を開けるなり漂ってきた香りに気力を取り戻した。
 用具を自室に放り込み、すぐに入浴してからリビングに向かうと、そこにはカレーが並んでいた。
「やっぱり今日はカレーかー! 天本さん、おかわりあるよね?」
「はい。もちろんありますからお好きなだけどうぞ」
 天本が台所で調理器具を洗いながら返事をする。
「やったねー、やったねー、やったやったやったねーっと……」
 主人は変な歌を口ずさみながらテーブルの周りを一周する。
 その後で、ちらと天本を一瞥してから、自分の皿に盛られたルーをスプーンですくつまみ食いした。
 ……その時であった。

「これは……」
「主人さん、どうかされましたか?」
 主人に近づきながら天本が訊ねる。
「天本さん、これバーモント甘口じゃないよね?」
「はい。ジャワカレーの中辛ですけれど……」
「そっかー。いや、うちこれまでずっとバーモント甘口だったからさ」
「あ……」
 主人の言葉に天本は小さく声を漏らす。
 それから、主人に向かって弱弱しく頭を下げた。

「ごめんなさい。私、知らなくて……」
「あっ、違う違う! 責めてるわけじゃないよ。
 ただ『そうなんだー』ってだけ。たまには違うカレーも食べてみたいしね!
 だから気にしない、気にしない!」
 慌てて取り繕う主人。
 だが、天本の落ち込んだような様子は元に戻らず、彼女はその日一日言葉少なであった――


 ――また某日。
 入浴を終え、寝巻に着替えた天本が一息つこうとリビングに入ると、ソファでは主人が身体を投げ出していた。
 その日は、ミーティングついでに部員有志で島岡の家に泊まると聞いていた天本は、首を傾ける。
「あら……今日は島岡さんの所ではなかったのですか?」
「ああ、留守電に入れておいたんだけれど、聞いて居なかったかな?
 島岡ん所に他のお客さんがきて、泊まりというわけにはいかなくなったんだよ。
 いやー、あいつんちの風呂はでかいと聞いていたから、楽しみだったんだけれどなあ」
 主人は気だるそうに身体を起こし、肩を竦めながらそう答える。
 
「ところで、お風呂上がったのなら入ってもいい?
 はやく人心地つきたくてさ」
「あの……」
 だが天本は風呂の方角と父を交互に眺めた後で、頭を下げる。
「……ごめんなさい。留守電を聞きそびれていまして、
 帰ってこないものだと思って、お湯を抜いてしまいました……」
「あ……だ、大丈夫大丈夫! シャワーで汗流せれば十分だから!」
 慌てて取り繕う主人。
 以下略。
 
 
 
 
 
 ――そして事件は、10月のある日曜に起こった。
 中間テスト前日の為、この日の部活は休みである。
 主人はろくに勉強もせずに、日頃の心身の疲れを取るにはこれ幸いと、朝からリビングでテレビを眺めていた。
 テレビではスポーツニュースの解説者が、スポーツ選手のふがいないプレーに対して叱咤している。
 
「ははは。喝まみれだなあ」
 明日から訪れる嘆かわしい現実から逃避する主人であった。
 
 
 ッシャアーンッ!!
 
 
 不意に、そんな笑い声をかき消す破砕音が鳴り響く。
 音に反応した主人が振り返ると、食器棚の近くで割れたガラスのコップの破片が転がっていた。
 その前では、天本が慌ててしゃがみ込んでコップの破片を拾おうとしている。
 
「天本さん、大丈夫!?」
 天本に駆け寄りながら声をかける。
 一瞥した限りでは、彼女の素肌から血は見えておらず、また痛がる様子もなかった。
「あ……はい。私は大丈夫です。
 でも、申し訳ありません。コップを割ってしまいました」
「ああ、いいよいいよ。コップの一つや二つ。
 それより、破片も危ないから気をつけ……」
 主人は首を横に振り、天本に先んじて破片を回収しようとする。
 だが、その途中で彼の動きが止まった。
 
「……これ、母さんがよく使ってた……」
 無意識にそう呟く。
 
 同時に、彼の呼吸が止まる。
 それでも気づくのは遅かった。
 その言葉は天本に向けるべき言葉ではなかったのである。
 痛恨の失言を内心悔いながら、天本に視線を向ける。
 
 
 そこには、呆然とした表情の彼女がいた。
 
 
 
 
 
 
 
パワプロクンポケット4
 
我が家へようこそ!

 
第四話/暮れゆく陽
 
 
 
 
 
 
 その日の昼食後。
 所用で暫し自室に籠った主人がリビングに戻ると、先程まで居たはずの天本の姿が無かった。
 代わりに、卓上には見慣れないメモが残されている。
 
 
『買い出しに出かけてきます。
 帰りは少し遅れるかもしれませんがお気遣いなく。
 玲泉』
 
 
 手にしたメモには、奇麗で小さな文字でそう書き残されていた。
 
「……買い出し、か」
 頭を掻きながら、ぼそりと呟く。
 今朝の事件のみならず、最近ちょっとしたミスマッチが続いているだけに『少し遅れる』の一言が気にかかった。
 脳裏には、今朝の彼女の表情が浮かび上がる。
 
「……まあ『少し』と書いてあるんだし」
 彼女の表情を振り払うように、主人は顔を左右に振った。
 
 
 
 
 
 
 
 だが、彼女は一向に帰ってくる気配を見せなかった。
 一時間経っても二時間経っても帰ってこず、連絡も届かなかった。
 主人がリビングでどこか落ち着かない時間を過ごすうちに、時計の短針は5を指している。
 気がつけば、窓の外はうっすらとした飴色に変わり始めていた。
 
「……行くか」
 空の色が変わり始めている事に気が付いた主人は、踏ん切りをつけるように勢い良く立ちあがり、防寒着を纏って外に出た。
 今朝の事が気になるし、なにより街灯の少ない島では、陽が落ちると色々と危ない。
 メモには『お気遣いなく』と書かれていたが、それに安心して腰を落ち着ける程彼は呑気ではなかった。
 
 
 
 
 
 手始めに商店街へ行き、通りを歩いてみる。
 小さな島ではあるが、この時間帯の商店街はそれなりの賑わいを見せている。
 そんな人々の間を掻い潜って天本の姿を探すのには、多少の苦労を要した。
 だが、それでも彼女は見つからずに苦労は徒労に終わる。
 
 
「……流石に買い物はもう終えているっぽいな。
 やっぱり、どこかで寄り道して遅れてるのかな……」
 商店街の端で、商店街入り口の看板を見上げながら呟く。
 
「寄り道って何が?」
 そこで、不意に声をかけられた。
 振り返れば、そこにはB子の姿があった。
 モブらしく一話限りじゃなかったのかよ、という言葉をなんとか飲み込む主人。
 
 
「B子、ちょうど良かった。聞きたい事があるんだが」
「んー、私牛だからなあ。家畜に分かる事かなあ」
 いつぞや牛と言われた事をネタに、わざと意地悪く言ってみせるB子。
 
「………悪い」
 だが、主人はまっすぐに頭を下げてB子に詫びた。
「……な、なによそれ。調子狂うわね……
 何を聞きたいのよ、一体」
 普段通りの日常的な口喧嘩になると思いきや、予想外の反応にB子はたじろぐ。
「天本さんを探しているんだが、見なかったか?」
「天本さん? ううん、見てないけれど……」
「そうか。時間を取らせてすまん」
 陽は徐々に水平線に向かっており、時間が惜しかった。
 B子にそれだけを告げて駆け出そうとするが、B子が慌てて主人の袖を掴んでそれを止める。
 
 
「ち、ちょっとちょっと! そんなに急いでどうしたのよ?
 天本さんと喧嘩でもしたの?」
 
 喧嘩。その言葉を反芻する。
 喧嘩ではないだろうが、それに近いすれ違いかもしれない。
 そう考えると胸が強く鼓動するのが感じられた。
 
「いや、それ程の事じゃないけれど……今朝、ちょっとな。
 それで、買い出しの帰りが遅いから心配になってさ」
「……ふうん」
 B子はそう言って主人の目を凝視する。
 2,3秒程そうしていたが、やがて手を離すと、後方を親指で指し示した。
 
 
 
「誰かと会っている可能性を除けば、神社にいるんじゃないの?」
「神社? 天本さんが住んでいた神社?」
「そ。……あの場所には色々と思う所があるだろうからさ。
 天本さんがどこかで時間を潰すとしたら、ああいう所だと思うよ」
 B子の声のトーンが少し落ちる。
 彼女の『色々と』が具体的に何を示す言葉なのかが聞きたかったが、
 ゆっくりと聞く余裕はないし、何となく教えてもらえそうにない気もする。
 
 
「そうか。行ってみる。サンキューB子!」
 指先を伸ばした片手を頭の前まで伸ばし、敬礼のような挨拶を送って、身を翻す。
「しっかりしなさいよ。しゅじんこう!」
「ぬしびとこう、だ! 間違えるな牛女!」
 背後から届いたB子の明るい声に、ようやく普段通りの調子で返事をして、主人は天本が住んでいた神社へと駆けた。
 
 
 
 
 
 ………
 ……
 …
 
 
 
 
 
 天本玲泉の神社は、低い山の林の中にひっそりとたたずんでいる。
 アスファルトが敷かれていない、車のわだちによって作られた山道を少し走れば、すぐに神社に通じる石段前に辿り着けた。
 
 
「はあっ……はあ……はあ……
 慌てて家を出ずに自転車乗ってくりゃ良かったな……」
 
 駆け足とはいえ、長時間続ければ相当に疲労は溜まる。
 やっと石段前に着いた主人は、両手を膝の上に乗せて暫し息を整えてから、空を見上げる。
 空は、まだ飴色の輝きで満ちている。
 その前面には雲が浮かんでおり、陽光によって輝いているように見える。
 木々に隠れて良く見えないが、太陽はまだ完全には沈んでいないようであった。
 
 
 
「……うっし!」
 ある程度息が整った所で、神社に通じる石段に足をかける。
 いざ登ろうと、視線を空から石段の上段に向けた所で、主人の目は大きく見開かれた。
 視界の先には、目的の人、天本玲泉がいた。
 彼女は石段数段の上で体を投げ出し、片足を手で押さえている。
 
「あ、天本さんっ!」
 弾き出されたように石段を登り、天本の傍に駆け寄る。
 傍に寄ってみると、天本が抑えている、ロングスカートから覗く足には僅かな擦り傷が生じていた。
 
 
 
「主人さん……」
 天本は口を開けて、主人を見上げ続けた。
 何やら考えているようであったが、やがて、その表情を苦笑に変えてみせる。
 
「……石段で転んじゃいました」
 言葉遣いは普段通りで、主人は少し気持ちが落ち着く。
 様子を見た限りでは、転んで怪我をした為に帰れなかったようである。
 
 
「擦り傷は大した事がないのですが、足首を軽く捻ってしまったようです」
「足首のねんざか……。心配して探しに来て良かったよ」
 自身を心配する言葉に、天本は僅かに目を見開いた。
 だが、彼女の心中を察する余裕のない主人は、視線を天本の顔ではなく脚に向けていた為に、それには気がつかない。
 
 
「ごめん、少しだけ触るね。ここは痛む?」
 スカート越しに天本の膝に触れる。
「いえ。大丈夫です」
「ん。ならおぶってもダメージはないか。
 よし。はやく帰って父さんに診てもらおう」
 主人は素早く判断を下すと、彼女の近くに転がっていた買い物袋を腕に通し、それから天本に向かって中腰で背中を向けた。
 つまりは『背中にどうぞ』の姿勢である。
 
 
「あ……それは流石に主人さんに申し訳ありません」
「いや、俺は構わないよ。それよりも早く診てもらわないと。
 おぶわれるのが気が進まなかったら、父さんを呼んで車で迎えに来てもらうけれど……」
「………」
 天本は暫し躊躇するような間を作る。
 だが、やがておずおずと主人の腋に脚を通した。
 主人が両手でそれをすくい上げるようにして担ぐと、支えを失った天本の胴体が背中に預けられる。
 それを確認して、主人は一歩前へ足を踏み出した。
 
 
(天本さん、結構軽いな……)
 一歩踏み出してみて、これならなんとか帰宅するまでおぶえそうな手応えを感じる。
 更には、別の手応えも感じていた。
 
 
(……それに、身体、柔らかいな。女の子って皆こうなのかな……)
 邪な意味合いではなかったが、胸の高鳴りを覚える。
 考えてみれば、衣服越しとはいえ、天本の身体に触れるのはこの日が初めてである。
 
 
 
「本当に申し訳ありません。宜しくお願いします」
「あ……うん」
 不意にかけられた天本の言葉に、間の抜けた返事を返す主人であった。
 
 
 
 
 
 ………
 ……
 …
 
 
 
 
 
 山の麓を抜けると、もう陽が半分ほど水平線に沈んでいるのが見えた。
 水平線は、陽の最後の輝きによって強く輝いて見える。
 その光によって、大きく縦に伸びた二人の影が地面に映っていた。
 
 二人は、初めこそ怪我の具合について背中越しに話し合っていたが、こうして山から下りきった頃には、自然と会話が途切れている。
 もう五分程、二人の間には会話が生じていなかった。
 
 
 
「……天本さん」
 その沈黙を破ったのは、主人であった。
 
 
 
「ごめんね」
 ぽつりと、ただそれだけの言葉。
 
 
 
 天本は主人の言葉に何も返事をしなかった。
 だが、彼女の身体と、主人の首に掛かった細い腕が僅かに震えたのを主人は感じる。
「あ、天本さん……?」
 焦りのある声で背中にいる少女の名を呼ぶ。
 表情を見る事はできないが、泣いているのだろうか、と主人は思う。
 
 
「……こちらこそ……」
 やがて、天本が主人の顔の傍で呟く。
 
「こちらこそ、ごめんなさい……本当に……」
 小さな声。
 思い込みかもしれないが、主人には、どこか涙声であるように聞こえた。
 
 
 
「……気にしてたんだね」
「はい」
「そっか」
 主人は一度瞼を閉じる。
 背中で震えている彼女をそうせたのは自分だと思うと、強い苛立ちを覚えた。
 だが、自身を責めるような言葉を口にすれば、彼女にさらに気を使わせてしまうのは想像に難しくない。
 そこまで考えるのに数分を要した。
 
 
 
「……天本さん。俺さ、もう少し考えてみるよ」
「………」
「いや、具体的にどういう方向で考えるべきかはまだ分からないけれど。
 それでも、少しずつ考えるよ。
 ……天本さんが安らげるような家になるには、どうすれば良いのかさ……よっと」
 
 
 そう告白して、後ろに回した両腕を整え、天本を担ぎなおす。 
 その言葉通り、主人には、彼女が安らげるにはどうすれば良いのかが分からない。
 そんな不明さを表すように、それは小さな声だった。
 だが……
 それは、優しい声でもあった。
 
 
 
 
 
「……主人さん」
 天本が背中から主人の名を呼ぶ。
 いつしか震えは完全に収まっていた。
 
「……今日は、家族の事について考えたくて、神社で一人になっていたんです。
 祖母と母と……父。もういない家族について……。
 でも、その帰りに転んで怪我をするなんて、心配をかけたバチが当たりましたね」
 
 苦笑混じりの声だった。
 想定外の切り口。
 だが、主人は口を挟まずに天本の言葉に耳を傾ける。
 
 
 
「でも、一人で考えて、そしてこうして帰宅して、分かった事があります。
 厚かましい事ですから、否定されても仕方ありませんけれど……」
 
 天本の声がくぐもる。
 その先は口にしづらいようであった。
 背中越しに、天本が身を強ばらせるのが伝わってくる。
 
 
 
「……主人さんの家は、私の家です。私はそう思っています」
「……うん」
 
 
 
 
 それだけの言葉をかわして、二人はまた沈黙した。
 だが、主人の胸は激しく、そして暖かく鼓動している。
 天本を背負い、暮れゆく陽の中をてくてくと歩く。
 歩く道は、二人の家への帰路であった。
 
 
 
 
 
 
「……いつか、話しますね」
 ふと、背中からそんな声が聞こえたような気がした。
 消えてしまいそうな小さな声。
 もしかしたら空耳だったのかもしれない。
 
「……今日は、俺が夕食作るよ。
 これでも何も作れないわけじゃないからね」
 主人は、あえて日常会話を持ちかける。
 
 
 
「はい。楽しみにさせて頂きますね」
 彼女は、明るく笑ってくれた。