その日は、少し肌寒い朝であった。
 主人家の朝の風景が普段とは若干異なっていた原因は、その冷え込みにあるのかもしれない。
 
 
 
「えっぐしっ!! ……父さん、どう?」
「三十七度三分だ。まだ上がるかもしれんな」
 
 パジャマ姿のままでリビングの椅子にもたれ掛かる主人を前に、
 彼の父は、体温計が示す値を凝視していた。
 台所では朝食の用意を中断した天本玲泉が、お湯を沸かしながら、心配そうな表情で二人を見ている。
 
 この日主人は、起床と同時に、身体に籠る熱気に気が付いた。
 医者である父に相談し、検温と診察の結果が前述の通り。
 つまりは、風邪である。
 
 
 
「然程高くはないが……今日は休んだ方が良いだろう」
 一応は体温を測ったが、普段より早く起床した息子が『熱っぽい』と言ってきた時点で、父の判断は大方定まっていた。
 主人もまた、病に関しては昔から父の判断に全てを委ねており、その言葉に素直に頷く。
「うん、分かった」
「よし。あとは部屋で寝ていなさい。
 学校には私から連絡を入れておこう」
 父に向って頷くと、立ち上がってリビングを後にする。
 しかしながら、その足取りは然程重いものではなかった。
 
 
 
 
 
 部屋に戻った主人は、言われた通りに自室のベッドに潜り込み、毛布を深く被る。
 しかしながら睡眠時間は十分で、一応目を閉じてみたものの、眠気が到来する気配はない。
「……眠れそうにないな」
 ぼそりと呟く。
 
「主人さん」
 ふと、廊下から天本の声が聞こえ、同時に扉が叩かれた。
「どうぞ」
 返事をしてからやや間が出来た後で、部屋の扉が開かれる。
 天本が朝食を載せた盆を運んできてくれた。
 
 
「一応、食事は用意しておきますね。食欲が湧きましたらどうぞ。
 あとはお薬とお白湯。こちらは必ず飲んでくださいね」
 部屋の中央にある小さなテーブルの上に、盆が置かれる。
「ん。ありがと。父さんはもう仕事に?」
「はい。『隣の診療所にいるから、きつかったら呼ぶように』との事です」
「了解」
「では私もそろそろ。お大事になさって下さいね?」
「大丈夫大丈夫。これ位ならすぐに治るよ」
 
 不安そうな声の天本に、笑顔と共に手を振ってみせる。
 事実、カラ元気ではなかった。
 現時点では発熱とくしゃみ以外の症状はなく、熱も『普段より高いかな』という程度で、気怠さを伴うものではない。
 
 
 
 
 
 
 天本が一礼をして部屋を出るのを確認すると、すぐに起床して朝食を食べた。
 食欲の低下もなくペロリと平らげ、その後で薬を飲む。
 それから、すぐにはベッドに戻らずに、彼は自分の部屋を見回した。
 
 
「どうせ眠れないし、暇だし、
 それに激しい運動するわけじゃないし……」
 
 病人らしからぬ行動というべきか、或いはらしい行動というべきか。
 暇潰しの道具探しであった。
 
 
 
 
 
 
 
パワプロクンポケット4
 
我が家へようこそ!

 
第三話/彼女の告白
 
 
 
 
 
 
「ああ、そういや……」
 主人の視線は、机の上に投げ置かれた携帯ゲーム機に向けられる。
 ゲーム機を手にして中のソフトを抜き出すと、可愛い女の子のイラストが描かれていた。
 ソフトをゲーム機に戻して、電源を入れながらベッドに潜り込む。
 
「これこれ。もう一周しておきたかったんだよな」
 
 いわゆるギャルゲーである。
 にへら、と締りのない笑顔を浮かべて、ロードゲームを選択。
 幾つかの会話を読み進めると、お目当ての女の子が登場した。
 もう既に攻略済みのヒロインであったが、それでも再度攻略している次第で、シナリオの流れは大まかに頭に入っている。
 
 
 
「フラグは立ってるんだよなあ」
 無意識のうちに独り言が漏れる。
 あまり好ましい独り言とは言い難い。
 
 
「〜♪」
 そんな事はどこ吹く風。
 病人である事を忘れ、ゲームに集中する主人。
 そうこうするうちに、時計の長針は数回転。
 時刻が十二時を過ぎた頃、ゲームはいよいよエンディングを迎えようとしていた。
 
 
 
 
 
 
『あのね……大切な話があるの』
「おお、きたよきたよ」
『私ね、貴方の事が……』
「いいなあ、何度聞いても!」
 
 モニターの中で、ヒロインがその気持ちを打ち明けようとしている。
 主人はそんな二次元の少女に身悶えながら、ゲーム機の音量を最大まで上げた。
 決定キーを押下し、テキストを読み進める。
 
 いよいよ、その時が迫る……
 
 
 
 
『貴方の事が好きです!』「主人さぁん?」
「ぅぇっ!!?」

 
 部屋中に響き渡る、甘ったるい声による告白。
 そして……それと同時に入室した天本玲泉は、想定外の光景にポカンとした表情でパチパチと目を瞬かせた。
 
 
 
「主人、さん……?」
 天本が変わらない表情のままで、もう一度主人の名を呼ぶ。
 
「あ、あの……えっと……」
 主人の額を、冷汗が伝った。
 想定外なのはこちらも同様である。
 
 
 
『……何か、言って下さい……』
 ゲームの中では、ヒロインが主人公に返答を求めている。
 何か言ってほしいのは、主人と天本も同様であった。
 
 
 
 
 
 ………
 ……
 …
 
 
 
 
 
 数十分後。
 一度退室した天本が、部屋に戻ってきた。
 
「……お待たせしました。早退する旨を学校に電話してきました」
「はい」
「『看病の為』と説明したら、先生も心配していましたよ?
 本当は看病ではなく、見張りですけれども。
 ……心配になって昼休みに様子を見に来て、正解でした」
「はい」
 
 声や表情には僅かではあるが、怒気が含まれているようである。
 彼女の手には、主人のゲーム機が握られていた。
 
 
 
 
「ご心配、ご迷惑をおかけします」
 主人がベッドの中から慇懃に詫びる。
 天本はそれでも主人を睨んでいたが、やがて、主人の勉強机の椅子に腰掛けて深いため息をついた。
 次に、主人から取り上げたゲーム機に視線を移す。
 
「ところで、このゲームは何なのですか?」
どことなく冷たい口調である。
(ギャルゲー、と言ったら引かれるよなあ。風邪引きながらやる位だし。
 ……いや待て主人。エロゲやコスプレと言った、更に評価を下げるジャンルがある以上、最悪の事態は回避できるか?
 いやしかしギャルゲーとコスプレではどちらが……認知度で言えば……むう……)
 色々と脱線する事数秒。
(……小細工は労せず、正直に言うか)
 結局、開き直るのに少々の時間を要してしまった。
「……ギャルゲーです」
 
「好きなんですか、こういうの?」
「……はい」
 返答を受けた天本は、ゲーム機の電源を入れる。
 タイトル画面には複数のヒロインが描かれていた。
 
「で、主人さんはどの子が一番好きなのですか?」
「ごめんなさいもうしません絶対しません勘弁して下さい」
 彼女の言葉責めに、とうとう主人は早口でギブアップした。
 
 
 
 
「本当にやめて下さいね?
 これから熱が上がるかもしれないんですから……」
 天本はもう一度、深くため息をつく。
「うん。……ええと……本当にごめん」
 改めて詫びる主人。
 最初の謝罪は天本の怒りをいなす目的が強かったが、今度の言葉は純粋な謝罪であった。
 それを察したのか、天本の表情が苦笑に変わる。
 
 
「でも意外ですね。主人さんがこういうゲームするのは」
「ああ、いや、それは……」
「いえ、別に悪いとは思いませんよ?」
 弁明しようとする主人を天本が制する。
 
「ゲームでもドラマでも小説でも同じです。
 自分を主人公に置き換えて空想する事に変わりはありませんもの。それに……」
「それに?」
「別に、現実の女の子に興味がないわけでは無いのですよね?」
 天本が居住まいを正して言葉を続ける。
 何故そう思うのかと聞いてみたかったが、返答に間を作りたくなかった為、その質問は飲み込む。
 
 
「そりゃ、もちろん。ゲームの方も、ギャルゲーに限らず何だってやるし」
「何だって、ですか。例えばどんなゲームを?」
 天本の声が、心持ち明るくなった。
 
「んー、ホント興味が湧いたものは何だってやるよ。
 RPGもシミュレーションもレースでも。スポーツゲームも音ゲーもパズルも……」
 一つ一つ指を折りながらゲームのジャンルを挙げてみせる。
 一方の天本は、そんな主人とゲーム機を交互に眺めていた。
 
 
 
 
(あ、これは……)
 そんな彼女の仕草に気が付いた主人は、すぐにその理由に思い当たる。
 
「……やってみたいゲームがあれば、貸そうか?」
「え? でも……」
 突然の提案に、天本が狼狽する。
「ソフトはそれなりに持っているから、興味が湧くゲームがあれば何でも良いよ?」
「ん……」
「別に遠慮しなくていいよ。減るもんじゃないし」
「んん……」
 口ごもる天本。
 
 
 
「で、では、後でお借りします……と言うか……」
 だが、何度か躊躇する様子を見せた後で、おずおずと切り出した。
「……本当は、ゲームってちょっと気になってたんです」
 頬を赤らめ、恥ずかしげに告白する。
 上目遣いで僅かに身を乗り出している辺り、ちょっとではなく大分興味があったようである。
 初々しい反応であった。
 
 
 
(もしかしたら、これまでゲームを持っていなかったのかもな)
 主人の表情が和らぐ。
 
「気に入ったゲームがあれば、一緒に遊ぼう。……っと、その為には風邪を治さないとね」
「はい。治されるのを楽しみにしますね」
 笑い合う二人であった。
 
 
 
 
 
「あ……ごめんなさい。熱があるのに話し込んでしまいました。
 お昼のお粥、作ってきますね」
 ふと、天本が立ち上がった。
 ゲーム機を机の上に置いて、部屋から立ち去ろうとする。
 やろうと思えば、またコッソリと遊ぶ事も可能である。
 
 
 
「置いてって良いの?」
「今度こそ信じていますので」
 彼女が、振り返りながら悪戯っ気の籠った笑みを見せる。
 主人は、酷く赤面した。