「本能……か……」
 主人公は気怠そうにそう呟きながら、ボロのマントに身を纏って町を彷徨っていた。
 
 目的はある。だが、目的地はない徘徊。
 その足つきこそ緩慢なものであったが、目つきは鋭い。
 彼は刺すような視線で周囲を見回し、何かを探していた。
 
 
「ふっ……俺は、いつまで本能と戦えば良いのかな……」
 低い声でそう漏らしながら、主人はなおも彷徨う。
 こけた頬と無精ひげも相まって、その様子からは、修羅場を見知った男の凄みが感じられた。
 
 
 
 本能。
 辞書にその意味を求めれば『動物個体が、学習・条件反射や経験によらず、生得的にもつ行動様式』とある。
 主人は、それに抗い、そして戦っていた。
 本能との戦いは、もう三日を越えている。
 
 この三日間、彼は、自らが無意識のうちに求める強い感情と闘い続けていた。
 襲い来る本能に、必死に耐えていた。
 常人であればとっくに音を上げる所。
 
 主人は旅人である。
 旅を始めた時から、この旅は本能との闘いでもある事は目に見えていた。
 だが、彼はヘラクレスの選択をした。
 本能と闘う選択をした。
 
 
 
(おっと……)
 不意にめまいを覚え、たたらを踏むが、強く地面を踏んで堪える。
 このめまいも本能と戦った結果であった。
 それほどに彼を苦しめる本能。
 それは――
 
 
 
 
 
 
 
 ぎゅうううううう〜〜〜〜〜っ
 
 
 
 
 
 
 
「は、腹減ったあ……!!」
 何の事はない、食欲である。
 
 
 
 
 
 主人はこの三日間、食物を口にしていなかった。
 どうしたものかこの所、頼みの綱の釣りが不漁状態で、小魚一匹針にかからない。
 言うまでもなく、備蓄の食料もなし。
 背に腹は変えられぬと考え、カレーを恵んで貰おうとカシミールに足を運んだが、
『家族旅行の為、数日留守にします』
 その張り紙を見て絶望したのが、つい先ほどの事。
 そして今現在は、何でも良いので、食べ物を探して町を徘徊していた所であった。
 
 
「俺は、いつまで本能と戦えば良いのかな……」
 もう一度同じセリフを口にする。
 同じ言葉なのに、先程とは打って変わって、締りのない呟きであった。
 
 
 
「……むっ!?」
 主人の視線が地面の一点に絞られる。
 数メートル先に、かりんとうが落ちていた。
 
「かっ、かりんとうだーっ!」
 かりんとうに駆け寄る。
 地面に両膝を付き、それに手を伸ばそうとして……
 
「!! こ……これ、は……」
 かりんとうではなかった。
 
 落ちていたものが、決して食べてはいけないアレであった事に、触れる直前で気がつき、がっくりと肩を落とす。
 とうとう目尻には涙が貯まる有様であった。
 
 
 
 
「う、うう、うううっ。お腹空いたなあ……」
 ふらふらと立ち上がる。
 その時であった。
 
「……待てよ。肝心な所を一つ忘れていた。
 あそこに……あの店に行けば、高確率で、まともな食べ物にありつけるじゃないか!」
 とある店の事を思い出す。
 それだけで全身に力がみなぎった。
 すぐさま、その店に向かって歩みを進める。
 
 
 
「ブランネージュに行けば、まかないの残り物にありつける……!!」
 
 ちーとも、まともな食べ物ではなかった。
 
 
 
 
 
 
 
パワプロクンポケット9
 
拾い食いカーニバル
 
 
 
 
 
 
 主人にとって、ブランネージュは……正確にはブランネージュ裏口は、かけがえのない場所であった。
 彼曰く『まともな食べ物』にありつける他、霧生夏菜と交流する事のできる場所でもある。
 心身共に憩いをもたらしてくれる所。
 ……なのであったが……
 
 
 
「あー、主人さん、わりぃ」
 ブランネージュ裏口で主人を出迎えた霧生夏菜は、苦笑しながら後頭部を掻いた。
 
「こないだ、店長から怒られちゃったんだよ。
 誰かの食べかけを与えて腹でも壊させたらどうするんだ、
 そもそも残飯を与える事自体が非常識だ……って。
 そんなわけで、まかないの残りはもう上げられないんだ。
 もちろん、ゴミ箱漁るのも禁止だぞ」
 
「お、おおう」
 主人は天を仰ぐ。
 生命が言葉となったような、悲痛な呻き声であった。
 
 
 
「そ、そんな声出すなよ……
 なあ、たまには普通に食っていかないか?
 うち、カジュアルなお店だから格好も……」
 
 夏菜は一度言葉を切り、主人を一瞥する。
 
「格好は……め、目立たない席に座ってもらうから大丈夫!
 料金だって、六百円もあれば一番安いパスタが食えるぞ。
 さすがにそれ位は持ってるだろ?」
 
 
「六百円」
 彼女の言葉をオウム返しにする。
 そんな金があれば、三日も食事に困ってはいない。
 だが……
 
 
(数え間違いという事もあるかもしれない。もしかしたら……)
 
 
 主人は一縷の望みを託し、財布を取り出して中を見る。
 貧弱な金属音を立てながら主人の視線に入ってきたのは、四円だった。
 もしかするわけがない。一体、何に期待したのか。
 パスタどころか、うまいぼう、ごえんがあるよさえも買えない始末である。
 
 
 
「む、むぐぐ……」
 顔を伏せ、唸り声を漏らす。
 最後の希望が潰えた今、彼に残された選択肢は一つしかなかった。
 これまでにそれを選ばなかったのは、彼に人間としての矜持があったからに他ならない。
 
「ぬ、主人さん?」
 主人の様子がおかしい事に気がついた夏菜が、不安そうに声をかける。
 
「もう、あの手しかない!!」
 だが主人は、そんな夏菜に構う事なく独り言を漏らす。
 それから、彼はすぐに身を翻し、残っている体力を振り絞って来た道を駆け戻る。
 
 
「な、なんだったんだ?」
 瞬く間の行動に、夏菜は呆然と彼の背を見送る事しかできなかった。
 だが、何かしら様子がおかしかった事だけは分かる。
 思い返してみれば、頬のこけ様は普段以上だったかもしれない。
 
 
「心配だなあ……
 ……なあ、安藤ー」
 顎に手をあてがい、僅かに考え込む。
 それから彼女は、ブランネージュで働く後輩の名を呼びながら店の中へと消えていった。
 
 
 
 故に、走り去る主人が両手を広げて天に突き上げた様子までは、目にしていなかった。
 その様子は形容するのであれば、大半の日本人がこの言葉を用いるであろう。
 
 バンザイ、である。
 
 
 
 
 
 
 
「いやあ〜、今日は実に良い日だ!」
 
 この日、寺門男は気分良く河川敷を闊歩していた。
 にこやかな笑顔を携えて背伸びをしながら、空を見上げる。
 適度に雲のかかった空からは暖かな日光が差しており、こうして外にいるだけで気持ちが良い。
 
 
 
「柔らかく降る陽気!」
 両腕を左右に広げてその陽気に当たる。
 次に、傍を流れる川に視線を移す。
 
 
「青く輝く美しい川!」
 陽の光に反射して眩しく光る川に目を細める。
 次に、川の傍に視線を移す。
 
 
「たくましく生い茂るくさば……あ、あら?」
 寺門が首を傾げる。
 昨日までは、川の傍には綺麗な草花が大量に生えていた。
 それが殆ど見当たらず、八割方が土で覆われているのである。
 
 
 
「どういう事だ? 昨日までは自然に溢れていたはず……
 あ、あれっ? 兄貴……?」
 一帯を眺めていると、見知った姿がある事に気がついた。
 彼が兄貴と呼称する、この河川敷にテントを張って住む主人公の姿である。
 主人は、僅かに残った草花の近くで中腰になっていた。
 
 
「兄貴、一体何を……あ、ああっ! もしかして!」
 寺門は前屈みになって主人を凝視していたが、不意に、弾き出されたかのように主人に向かって駆け出す。
 近づく程に主人の姿は大きくなり、そして、彼が何をしているのかもはっきりと見えるようになる。
 
 主人は、草花を食べていた。
 
 
 
 
「おい兄貴、なんて事してるんだっ!」
 傍まで来た寺門が、主人の肩を乱暴に揺すった。
 それに反応して主人が顔を寺門に向ける。
 彼の目は赤く血走っていた。
 
「なあに、心配しなくても大丈夫だ!
 通常の二倍の速度で食えるから、いつまでもこんな姿は晒さないさ!」
 主人は元気良く親指を突き立ててみせる。
 えらくハツラツとした様子である。
 
 
「いや、それもあるけれど……それよりも腹壊すぞ、おいっ!」
 寺門が再度肩を揺する。
 だが、主人はそれに構わず、なおも草花を貪りながら返事をした。
「もが、もがもが……そっひも問題なひぞ!
  今はバンザイ中らから、腹を壊してもツケが来るのはバンザイ終了後ら!」
 
 
「バンザイ……?」
 聞きなれない言葉に、寺門が首を傾げる。
 だが、主人はそれに構わず言葉を続けた。
「ごくんっ……ぷはあ。……ああ。バンザイ中に食い溜めしておくってわけだ!
 食ってみると、そう悪いもんじゃないぞ?
 草花だけじゃなく、落ちている木の実やキノコも拾い食いしているから飽きもこない。
 ……そうだな。そろそろ別のものを食いたいな」
 主人が機敏に立ち上がった。
 周囲を見回し、4m程の大きさの木を視界に捉えると、すかさずそこへと駆けた。
 
「あ、兄貴! ちょっと待てって!」
 寺門が追いかける。
 
 木の傍にたどり着いた主人は、木の根元の土を掻き分けていた。
 追いついた寺門が背後から覗き込むと、掻き分けられた土の中に何かがある。
 アルファベットのCのような形状をした白い物体であった。
 
 
 
「なあ」
 主人が背中越しに声を掛ける。
「お前、おやつのカールって知ってるか?」
 
「……ああ、一度だけ食った事あるぞ。
 スナック菓子の事だよな。あれが何か?」
 
 
「寺門、じゃあ、これは何か分かるか?」
 主人が、自分が投げかけた質問を無視して、白い物体を指差す。
 そう言われて凝視すると、土の中から掘り出された物体が何なのかが分かる。
 カブトムシの幼虫であった。
 ふと、寺門に猛烈な嫌な予感が走る。
 
「あ、兄貴、まさか……」
 
 
「俺、思うんだよ。人間思い込みって大事だよな。
 ……これがカールだと思い込めば、もしかして……」
 主人の手が震える。
 だが、それは止まる事なく幼虫へと伸びる。
 
「も、もしかしねぇーっ!!
 やめろ、やめるんだぁーーーっ!!」

 寺門が掴みかかろうとする。
 だが主人は、空いている方の手で寺門を振り払う。
 それから、幼虫を手のひらへと載せた。
 
 
「南無三っ!!」
「あ、兄貴ーっ!」

 それを口に運ぼうとしたその時……
 
 
 
 バコッ!!
 
 
 
「馬鹿野郎ーっ!!!」
 唐突に、主人の頭部が何者かによって殴りつけられ、彼は幼虫を手放してしまった。
 
 寺門が顔を見上げる。
 いつの間にそこにいたのか、主人の傍には鮮やかな黒髪の女性がいた。
 
 女性は、片手を膝の上に乗せて呼吸を整えながら、もう片手は前に突き出している
 主人がまた幼虫を手にしようものなら、再び殴りつけようと身構えているようだ。
 川という風景には似合わない、白黒のウェイトレス服。
 女性は、霧生夏菜であった。
 
 
 
 
「はあっ、はあっ……よ、様子が変だったから、仕事抜け出して後を追いかけてみれば……
 何やってんだよ、主人さんっ!!」
 夏菜が怒鳴りつける。
 主人は何か言いたげに、血走った目で彼女を見上げていたが、結局何も言い返さなかった。
 だがその沈黙の間に、その瞳はゆっくりと元の人間らしい黒色へと戻っていった。
 
 
 
「うちで食べ物出さないのも、店だけの問題じゃないんだぞ!
 主人さんが腹を壊す事自体が好ましくないからだ。
 なのに、拾い食いなんかしちゃ本末転倒じゃないか!」
「申し訳ない」
 
「それに、拾い食いだなんて……
 もう完全に浮浪……い、いや、貧乏臭いおっさんにしか見えないからやめろよ!」
「申し訳ない」
 
「それに、その西部劇みたいな格好!
 現代日本に生きる人として恥ずかしくないのかよ!!
 馬鹿! 馬鹿馬鹿!!」
「(格好良いと思っているんだが……)申し訳ない」
 
 夏菜の説教は、拾い食いから普段の様子に飛び火した。
 主人はそれを、ただただ面目なさそうに正座して聞いていた。
 実際、面目ない事この上ない行為である。
 
 
 
「……な、なんとかなった……みたいだな」
 一方の取り残された寺門は、唖然とその様子を眺めていた。

「聞こえてないだろうけれど、それじゃあ、俺はこれで……」
 説教はいつ終わるとも知れない状態である。
 聞く者によっては、もはや言葉責めレベルのそれである。
 一応は兄貴と慕う男がそんな説教を受ける光景は、あまり長々と見たいものではなかった。
 加えて、居心地悪そうに肩を縮める主人の姿を見て再発はないと判断し、寺門は河川敷から去っていった。
 
 
 
 
 
 説教は、それから更に十分ほど続いた。
 
「……! ……! はあっ、はあっ……!
 こ、これくらいにしとくか……」
 ブランネージュから河川敷まで駆けてきた上、延々と説教を続けて息の切れかかった夏菜は、改めて呼吸を整えながら肩の力を抜いた。
 主人はそんな彼女を上目遣いで眺めながら、バツが悪そうに立ち上がる。
 
「こ、ここまで酷い状況だとは自覚できていなかった……
 霧生さん、本当にすまん」
 主人が、改めて頭を下げる。
 
 
「はあっ……まったく。ちゃんと反省してくれよ?」
 夏菜はなおも眉をひそめる。
 だが、その下の目は笑っていた。
 それから彼女は、視線を主人から外し、僅かに頬を染めて消えてしまいそうな声で呟く。
「……カッコいい主人さんの方が好きだしさ、私……」
 
 
「えっ?」
「なんでもないっ!」
 お約束のやり取り。
 
 
「そんな事より、それほどに腹が減ってるんなら、ちゃんとそう言えよな!
 ……その、私の家でまともな物食べさせたげるから!」
 そう言い放ち、夏菜は体を反転させて河川敷を後にしようとする。
 
「本当に!? 霧生さん、待って、ちょっと待って!」
 主人は慌てて、そんな彼女の後を追った。
 
 
 
 
「まともな物って、どんな残り物……」
「残りじゃなくて、ちゃんと作るに決まってんだろ、馬鹿ーっ!」
 
  夏菜の怒鳴り声が、再び河川敷にこだました。