|
|
|
|
その日は日没とほぼ同時に、雪が降り始めていた。
水木卓は温水で洗った野菜をまな板の上で捌き、晩御飯の準備にかかっていた。
白菜、人参、舞茸、長ネギ。
更に野菜以外で豚肉、豆腐……。
リズミカルとまではいかないが、食材を抑えなおすような事もなく、それなりに手際は良い。
色紙切りにした食材はまな板を離れ、次々と大皿に移されていった。
「はあ〜、上手いもんだなあ」
キッチンに面しているリビングから、そんな様子を眺めていた古沢小一郎が感嘆の言葉を漏らす。
「そんなに関心する事じゃありませんよ」
水木は食材を切る手を止めずに返事をする。
「いやいや、俺からすれば上手いんだよ。
なんせ、毎日コンビニ飯で自炊しないからなあ」
「毎日コンビニ飯って……身体壊しても知りませんよ?」
「それは大丈夫 健康だけが取り得だからな」
古沢がにっと笑う。
「はいはい」
にべもない。
「そんな事より、そっちは準備できたんですか?」
「いやあ、それがコンセント埋まってて。水木、どれ抜いていいんだ?」
「ああ、ちょっと待って下さい……」
包丁を置いて、リビングに足を向ける。
ちょうどその時、水木の部屋の扉がノックされた。
古沢に『ちょっと待って』と手を上げてジェスチャーしてから、玄関へ移動して扉を開ける。
寮の廊下で開錠を待っていたのは、手荷物を下げた狩村正己であった。
「う〜、さみぃ 水木さん、早く入れて!」
「寮の廊下がそんなに寒いのか?」
肩を震わせる狩村に対し、壁際に寄って室内への通路を作りながら尋ねる。
「いいや、廊下でなくて外 雪降ってきたんですよ。
家を出た時は降ってなかったから、コート着てこなくて……。
おかげで、駐車場から寮の入口まで歩くだけでも凍えちゃって。
よいしょ。お邪魔します、っと」
「雪降ってるのか」
そう言われれば、彼の上着には僅かに白いものが付着している。
狩村は靴を脱ぎながら首を二度縦に振った。
「おじゃまします。そうそう、雪雪。
雪で凍えて、幽鬼みたいな顔になってません?」
「俺まで寒くなるからオヤジギャグは止めてくれ」
淡々と。
「じゃあ、雪で逝きそうな顔に……」
「寒くなるから止めてくれ」
淡々と。
「ちぇっ、水木さんはつれねえなあ」
肩を竦める狩村であった。
「狩村、お前だけなのー?」
二人の声を耳にした古沢がリビングから顔を覗かせた。
狩村は、暖房の効いたリビングへぱたぱたと足音を立てて向かいながら返答する。
「ちぃっす。ええ、俺だけです。
木村は娘さんとの先約があったらしくて。
鬼鮫さんはアメリカです」
「アメリカ?」
鸚鵡返しにしながら首をかしげる。
「ほら、昔も行ってたじゃないですか。
『ロサンゼルスで大会があるから』って言って」
狩村に続いてリビングにやってきた水木が低いテンションで言う。
「大会 ウィンターリーグはロサンゼルスでは……
あ ああ、あっちの大会か……」
暫し考え込んだ古沢であったが、すぐにある事に思い至ると、バツの悪そうな表情を浮かべて、少し薄くなった頭を掻く。
「ま、まあ、俺達に害が無いなら良しという事で。
じゃあ、結局はオッサン三人で食うのか。
少し野菜多いかもしれんなあ」
水木が話題を変えながら、コンセントを一つ無造作に抜く。
それを見た古沢が、調理器具のコンセントをそこに差した。
「狩村。お前、長く現役続けたかったら、今日は野菜食いまくれよ。
肉は俺と水木で食ってやるからさ」
「ひっでぇなぁ。俺も肉食わせて貰いますからね。
古沢さんこそ、野菜食わないと、いつポックリいってもおかしくないんじゃないんですか?」
「こいつう!」
古沢が狩村に掴み掛り、ヘッドロックを掛ける。
「でででっ、古沢さん、痛い! 諸星じゃないんすから!」
「うるせえ、コーチを爺様扱いした罰だ!」
一方の水木は、じゃれあう二人に対して嘆息する。
「二人とも、遊んでないで早く準備。
なんせ今日は……」
虹が丘2丁目さんへの寄贈SS
鍋
「ああ〜、コタツ最高〜……」
狩村が猫背気味で至福の言葉を洩らす。
三人は、中央に鍋を置いたコタツに身体を預けていた。
水木の切った食材がふんだんに盛られた鍋は、ことことと音を立てている。
冬に聞くその音もまた、至福の音であった。
「寒い日は鍋とコタツ。やっぱりこれに限るねえ」
「まったくもって」
締りのない古沢の顔が一層緩む。
水木も笑っていた。
ふと、こういう時間を過ごすのも久しぶりだと思う水木。
甥と一緒に暮らすようになってから、彼の生活は一変した。
自分一人であればいくらでも自堕落になれるが、
これから成長期を迎える甥の事を考えれば、自然と襟は正された。
早寝、早起き、夜遊びの激減に正しい食生活。
更に苦労は生活習慣に限らない。
一人残された甥の父になり、兄になり、友人になる必要も生じた。
ただ、そのような苦労と引き換えに、彼は家族を手に入れたのであった。
賑やかで暖かな毎日。
恥ずかしい為に口外する事は無かったが、愛と別れた水木にとって、甥の存在はむしろ救いであった。
そして、それに区切りを付けたのが数年前。
大学に通う事となった甥は自立し、水木と離れて暮らす事を選んだ。
その成長は頼もしく、そして寂しくもあった。
(あいつと一緒に暮らしていた頃は、毎日こんな感じだったなあ……)
狩村の持ってきた日本酒が注がれているグラスを眺めながら、物思いにふける。
「おい、水木、そろそろ食っていいんじゃないか?」
古沢の嬉々とした声。
もう少しあの日々を思い返したい所であったが、彼らとこうして過ごす今の時間も、また懐かしい。
「そうみたいですね。じゃあ、食いましょうか」
こっくりと頷き、鍋の蓋を開ける水木であった。
三者は三様で鍋に箸を付けた。
ひたすら肉を食う古沢。
バランスよく肉と野菜を口に運ぶ水木。
そして狩村は、そもそも鍋を肴扱いし、ひたすら酒を飲んでいた。
「かぁーっ、うめえなあ〜!
自宅じゃ嫁がうるさくて、なかなか気持ち良く飲めないんですよ。
子供達も『お父さんお酒臭い』って言うし……。
さあ、もう一杯〜、っと……」
部屋の暖かさとアルコールの熱で、顔を赤く染めながら手酌する。
「おいおい、買ってきたのはお前だけれど、全部飲むんじゃないぞ?
俺もあとでゆっくり飲むんだからな」
水木が心配そうに声をかける。
「あれ、水木さん、酒好きなんでしたっけ?」
首を傾げる狩村。
「何言ってるんだよ狩村。
こいつは昔っから酒には目が無かったんだぞ。
ドリルモグラーズ時代なんか……」
「ふ、古沢さん、その話は!」
ぴんときた水木が慌てて口を挟むが、古沢の口は止まらない。
「こいつ、工業用エタノール飲んでたんだぞ。どれだけ酒飲みたかったんだよ、って話だよなあ、まったく!」
「工業用エタノール! あれ酒代わりになるんですか? というか、飲んで大丈夫なんですか?」
「いやいや、普通は飲まねえって!
あとから調べたら、当然有害だったんだぞ。
よく身体を壊さなかったもんだよ。がはははは!」
大声で笑う古沢。
狩村も遠慮なく、歯を見せながら笑う。
当の水木だけが、顔を背けながら悪態をついていた。
「ったく……大体、しょうがないっての!
あの頃はクソ貧乏で、酒どころかマトモな飯を食うのにも苦労したってんだから」
「ああ、それは確かにそうだったなあ」
古沢が次の肉を器に移しながら頷く。
「きんぴらごぼうとか、毎日のように出てきたよなあ。
愛ちゃんの飯自体は美味かったけれど、腹はいつも減っていたわ」
「オレも『プロ用の身体を作ろう』って時期にあれだから、しんどかったなあ。
給料もやっすいし、あの時は本当に辛かったですよねえ」
狩村も同調する。
「ほふ、ほふほふ……。
日本一になったってのに給料上がらないのは辛かったなあ。
俺、あの年は全試合ベンチ入りしてたんだぜ?」
よく火の通った肉を頬張りながら古沢が喋る。
そんな様子が美味そうに見えたのか、狩村も鍋に箸を伸ばしながら喋る。
「あれ 腰痛で下に落ちなかったんですか?」
「あの年だけは全試合上で出たんだよ。
腰痛が急に治ったわけじゃないから、しんどい日もあったけれどな。
でもあの年は試合が……いや、毎日が楽しくて仕方なかったからなあ」
「熱い試合が多かったですし、楽しい奴らも揃ってましたもんね。
みんな、今頃、どこで何してるのかねえ」
水木が両手を後方に付き、天井を眺めながら呟く。
「どこかでのたれ死んだりせず、元気にやってるといいな。
……おい、しんみりするのも結構だが、もっと食おうぜ。
でなきゃ肉は全部俺が……ありゃ?」
薄まったポン酢を補充しようとした古沢が、不意に首を傾げる。
彼の手にしたポン酢のビンには、もう中身が残っていなかった。
「水木、ポン酢もう無いの?」
「あー……すみません、多分買い置きしてないですね。
食堂にならあると思いますよ」
「ふんふん。そっか、食堂か」
鼻を鳴らす古沢。
「よし、狩村、ちょっと食堂行ってこい!」
「ええー、俺が?」
口をへの字にする狩村。
「おう。転ばないように行けよ。
ほらGO! ムーブムーブムーブ!」
更にはやし立てる。
「いや、そりゃないでしょ!?
球界を代表するベテランピッチャーが、四十過ぎてパシリなんて……」
「四十になろうと五十になろうと、お前は俺達の後輩なの!
後輩がパシリになるのは当然だろ?」
「そういうこったな」
水木も古沢に同調する。
「ちぇーっ、体育会系は辛いなあ、おい」
観念した狩村は愚痴を零しながら、よれよれと立ち上がる。
眉を顰めてはいたものの、心から嫌がっているようでもないようであった。
「おっとと」
だが、三歩程歩いた所で、すぐにたたらを踏んでしまう。
「まだそんなに飲んでないんだけれど……弱くなったかな。
すみません、やさしぃーい先輩のお言葉に甘えて、ゆっくり行きますわ」
『優しい』の所には随分と力が篭っていた。
「おう、気を付けて……ん?」
狩村を見送る水木の胸ポケットが振動した。
中に入れている携帯を取り出す。
着信。甥からであった。
「すみません、俺も少し……」
古沢に断りを入れながら、水木も立ち上がる。
普段であれば後回しにする所であったが、長く声を聞いていない甥からの着信に、水木の気持ちは少々昂っていた。
「ああ、気にすんな」
古沢が頷く。
「鍋、見といて下さいね」
携帯を握っていない手で、未だ煮立っている鍋を指差すと、
狩村の横をすり抜けて、水木は足早に外の廊下に向かった。
二十分後。
甥からの電話は、何の事はない、ただの雑談であった。
それでも話に花は咲き、そのまま一時間でも二時間でも話す事は出来たのだが、古沢を長く待たせるわけにもいかず、
後日食事でもしながらゆっくりと、という事で会話を切り上げた。
自室の前まで戻ると、ちょうどポン酢を手にした狩村と出くわした。
「あれ、狩村、お前今戻ってきたの 随分時間かかったな」
「ちょっとトイレにも行ってたもんで」
部屋の扉を開け、狩村と共に中に入る。
「うわっはっはっはっ!」
それと同時に響いたのは、古沢の大笑いする声だった。
思わず二人は顔を見合わせる。
「うは、うは、うはははは!
dropて、dropて あっはっはっ!
発音良すぎだろ うっひっひっひっひっ!」
なおも聞こえてくる古沢の笑い声。
水木が怪訝な顔で奥のリビングを覗くと、どうもテレビが点いているようであった。
「お笑い番組でも見てるんですかね?」
「そんなとこだろうな」
狩村の言葉に頷きながらリビングに戻る。
想像通り、古沢は身体をくの字に曲げて爆笑しながらお笑い番組を見ていた。
戻ってきた二人を一瞥すると、彼は軽く手を上げて出迎えてくれた。
「あっ、おかえり。テレビ見せてもらってるぞ。いやあ、面白いなあこいつら」
「ああ、それ位全然……」
そう言い掛けた水木は、部屋に違和感を感じて口を止める。
なんだか、視界がぼやけている。
雲がかかっているというか、煙たいというか……。
考え込む事三秒。
水木は、はっと顔を上げた。
鍋から煙が出ているのである。
「ああっ! 古沢さん、鍋!」
声を張り上げながら鍋の蓋を開ける。
「あちっ、あちちちち……
狩村、台所の換気扇回してこい!」
そう言いながら、強く熱が伝わっている蓋を、コタツの上に滑らせるように置く。
それから電気鍋の電源をすぐにOFFにした。
鍋を覗き込むと……二十分間最大火力で熱せられたそこに水気は一切無く、食材は黒くなっているものさえある始末であった。
「あ……そうだった、電源入ったままだった……」
水木の後ろから古沢が覗き込む。
流石にその顔は引きつっていた。
「ちょっとちょっと……古沢さん、しっかりして下さいよ。
あー、こりゃちょっと食えそうにないな」
水木が菜箸で食材を突いて様子を見ながら言う。
「ありゃあ、真っ黒じゃないですか。俺、まだ殆ど食ってないのに」
換気扇を回してきた狩村が肩を落とした。
「お前は酒がありゃあ良いだろうが」
水木がジト目で突っ込む。
「……すまん、二人とも」
二人に対して、古沢が頭を下げた。
普段からおっちょこちょいの彼ではあるが、声のトーンは普段何かやらかした時よりも低い。
相当へこんでいるようであった。
「………」
そんな彼を直視し辛く、水木は視界の隅に彼を入れながら、暫し考える。
やがて、水木は努めて明るい声を出した。
「まあ、こうなっちまったもんは仕方ないや。
それじゃ、珍眠軒に食いなおしに行きましょう。
思い出話をするなら、ああいう所の方が盛り上がるでしょうし。
まだやっていると思いますよ」
「水木……」
古沢が顔を上げる。
ほっとした表情を浮かべていた。
「珍眠軒かあ。
水木さん、まだ飲んでませんでしたよね。
歩いて行くには寒すぎるから、車出して下さいよ」
「車を出すのは構わんけれど、
お前、あそこに行くと愚痴っぽくなるから気をつけろよ?」
グーで狩村を小突く。
「そんな事無いと思うけれどなあ、ははは!」
「ははっ、調子のいいやつめ」
狩村が、やや作ったような声で笑う。
彼も、古沢が落ち込んでいる事を察したのだろう。
それに続いて水木も笑い声を上げる。
「は……はははははっ よーし、それじゃあ珍眠軒は俺がおごるぞー!
……と言っても、ああ安い店じゃ、おごられても得した気にゃならないか」
それにつられて古沢も笑い声をあげ、いつもの調子で軽口を叩いた。
オッサン達の笑い声は、暫く止まなかった。
車の中で待てるように、古沢に車の鍵を渡すと、水木は電気鍋を抱えて食堂に向かった。
一人暮らしの仮住まいに鍋を常備しているはずもなく、それは食堂からの借り物であった。
食堂に近づくと、照明が点いてるのが見えた。
大方、愛が明日の朝食の下ごしらえをしているのであろう。
少し焦げた鍋を抱え、言い訳を考えながら食堂に入る。
「お……」
食堂に入った水木の目に映ったのは、テーブルの上に絵本を放り出し、突っ伏して眠る壮太の姿であった。
「おい。……おい壮太。こんな所で寝たら風邪引くぞ」
何度か肩を揺するが、壮太が目をさます様子はない。
少年は、柔らかな頬を広げるようにしてテーブルに押し付け、完全に眠りの世界に誘われていた。
口の端は緩やかな曲線を描き、父親似のつり目は緩んでいる。
実に癒される寝顔であった。
「……何か良い夢でも見ているのかねえ」
息子の頭に、ぽんと手を置く。
そんな水木の表情もまた、寝顔が伝染したかのように緩んでいた。
「あら、壮太、寝ちゃったの?」
炊事場の方から、聞き慣れた声が足音と共に聞こえた。
水木が顔を上げる。
エプロン姿の槌田愛が近づいてきていた。
「ああ。お前の仕事が終わるのを待ってたみたいだな。
暇だったら俺の部屋に遊びにくりゃあ良かったのになあ」
嘆息する水木。
「あら、何言っているの。
こんな小さな子がオジサン達の宴会場に行っても、面白い事なんか何も無いわよ」
「ごもっともだ」
二人は声を立てて笑った。
「でも、もう終わったの 随分早かったじゃないの」
水木が鍋を抱えているのを見た愛が尋ねる。
「いや……まあ、ちょっとな。あ、十分盛り上がったんだぞ?
だけれど、鍋はそこそこにして、珍眠軒で二次会って事になったんだよ。はは……」
愛に怒られるのが嫌で、鍋を後ろに隠す。
見られる前に出ていくつもりであった。
「そう。それなら良かったわ。
昔話、楽しかった?」
そんな水木の思惑など考えもしていない愛は、にっこりと微笑んでみせる。
「………」
水木は、ふと、口をつぐんだ。
確かに今日という日は昔話で盛り上がった。
珍眠軒でも同じように、楽しい時間を過ごせるのだろう。
だけれども。
古沢も狩村も、きっと同じように『だけれども』と考えている事だろう。
「ああ、楽しかったさ。
年をとると、しがらみや将来の心労は絶えないからな。
今日はそういう事を忘れて笑えたよ。
……だけれども……」
眼前で笑む最愛の女性と、傍で眠っている最愛の息子を一瞥した。
水木卓は、それからもう一度、壮太の頭にゆっくりと触れる。
「だけれども今だって悪くはないさ。
……なあ、壮太」
寝息を立てている二人の息子は、笑みながら寝返りをうった。
|
|
|