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菊池瞳がスナックを出たのは、主人公(ぬしびとこう)がひっそりと降りだした雪に気づき、日の沈み始めた空から、アスファルトまで結晶が落ちていくのを目で追っていたときだった。彼女は道路を挟んだ向こう側に彼を認めると、こちらに来ようとする彼を制し、自分は足早に横断歩道を渡った。道路を見れば、雪が薄くつもっている。彼女は少しうっかりなところがある。そんなに急いでは転んでしまうのではないかと、かえって不安になりながら待っていた。 「ハァハァ……。ごめんなさい。待ちましたか」 「いいえ」 少しの距離だが息を切らしてしまった瞳に対して、主人はそう答える。彼女は安心して息をつくと、周りにいるたくさんのすれちがう人の姿を眺めた。 「なんだか、今日は人の足もせわしないですね〜」 「師走とも言いますから。特にこの日ばかりは誰もがそわそわとしてしまうんですよね」 みんな我が家や待ち合わせの場所に急いでいるのだろう。手にはケーキの箱やフライドチキンの匂いのする袋を持っている人も少なくない。顔には喜びをにじませている。 なぜなら今日はクリスマスだからだ。
映画館は主人が予想をしていたとおり混雑していた。珍しい光景だが満席になったらしい。集まる前に早めにチケットを購入しておいてよかったと彼は思った。飲み物を買うと指定の座席に座った。まだ時間はあるがだいぶ人で埋まっている。ざわざわとたくさんの声が交わされていた。 「すごい人気だなあ」 「そうでしょう。評判の映画らしくて、友だちにもすすめられました」 「楽しみですね」 「私も楽しみにしていたんです」 だが席に座ってしばらくすると、瞳の頭は不慣れな舵とりの船のように不安定に揺れ動いた。 「瞳さん、眠いんですか」 「うう〜。すいません」 「映画始まってから寝てしまうのはもったいないですよ。本編の前に予告編もありますから、その間に寝てはどうですか?」 「それじゃあ、カメラの頭をした人が変な動きし始めたら起こしてください〜」 「分かりました」 やがて辺りは暗くなり、予告編が始まった。だが映像も音も主人の頭に入らなかった。彼は数週間前のことを思い出したからだ。
菊池瞳がクリスマスにもお店を開くと決めたことに、主人公は内心穏やかでなかった。彼女とこの大切な日を一日中過ごしたかったのだ。 「大事なお客様なんです。向こうも、昼間の時間だけでいいと言ってくださいましたし、会うのはその後にしてもらえませんか?」 了解するしかなかった。安心したような顔をすると、瞳は主人以外誰もいないこの店で、彼のためにお酒を作り始めた。待っている間に彼が目を別の方に向けると、テーブルの上に透明なサンタクロースの像が置いてあった。それはガラス細工の模型だった。彼の給料一ヶ月分を全て使っても、これは買えないと思われるほど精巧な物だった。そのお客様へ渡すプレゼントだという。 「これが……」と言って彼はそのプレゼントを手に取った。 そのとき、それは本当に故意にやったことではないのだが、主人の手からプレゼントがすべり落ちた。地面に落ちた瞬間に、ガラスの割れる音がはっきりと聞こえた。 「ごめんなさい瞳さん」 主人は慌ててそれを拾い上げようとする。 「あっ。触らないでください。ガラスですから、破片で怪我をしてしまいます」 瞳は裏から手袋とバケツを取りに行くと、破片を拾い始めた。主人はとても落ち着かない気持ちになった。 「本当にごめんなさい。俺が出来ることならなんでも……」 取り繕うような主人の声に被せるように、瞳が言った。 「謝るべきはこれを楽しみにしてたお客様なんです」 それは思いがけず鋭い声だった。息をのんだ主人公に、瞳は主人公がプレゼントを落としたときよりも取り返しのつかないような顔をして「ごめんなさい……」と呟いた。……しばらくして彼女はぎこちなく笑った。 「本当に気にしなくて大丈夫ですから……」 結局、瞳が光に当たってギラギラと輝く破片を片づける間、主人は何も言えずに立ち尽くすばかりだった。
場の変化に気づいて主人公が顔を上げると、カメラ顔の男が画面に現れた。考えごとをしている間に、時間が過ぎたらしい。彼は隣の菊池瞳の方を見る。呼吸の度にかすかに胸が上下している。彼女はすっかり熟睡していた。彼は彼女の肩を優しく揺らして起こした。寝ぼけ眼(まなこ)の中、彼に向けて微笑む彼女の顔は子どものように可愛いらしかった。彼女は彼の耳に囁いた。 「楽しみですね〜」 「……ええ」と主人も頷いた。 映画が始まった。
木沢さんとの合作SS
クリスマス・ステディ
映画は前評判通りのものであった。
開始直後から観る者を惹きつける展開。
これは期待できるね、と言わんばかりに瞳を一瞥して微笑むと、彼女も同じように笑いかけてくれた。
(俺にとっては前時代の映画になるんだけれど、
いつの時代だろうと、面白いものは面白いんだなあ)
そんな事を考えながら、チェアに深く腰掛け直す。
その後も、コメディーシーンの度に笑い合ったり、二人の座席の間にある肘掛の上においたポップコーンを譲り合ったりと、
周囲の邪魔にならない範疇で瞳とのコミュニケーションを楽しみながら、主人は映画を鑑賞し続けた。
だが、映画も佳境に入ると、彼は一層その世界観に引き込まれた。
緊張感の漂うシーンの連続は、観る者にもまた同じ緊張感を与えてくれる。
彼もまた同様に、隣の瞳の事を失念して、スクリーンへ釘付けになってしまった。
「いやあ、面白かった……」
エンドロールに入ると、映画の緊張感を開放するかのように息を吐きだし、そう小声で呟く。
そうして気が緩んだ所で、ようやく瞳の事を思い出す。
「……っと。良かったね、ひとみさ……」
慌てて、そう小声で声を掛けようとして、彼の言葉は途切れる。
菊池瞳はいつの間にやら、上映前と同じように、チェアに深く体を預けて寝入っていた。
もう映画は終わっているのだから慌てて起こすものでもない、と考えた主人は、
エンドロールも終わり、ホールに明かりが戻ってから、瞳の肩をそっと揺する。
「瞳さん。瞳さん、映画終わりましたよ」
「……ん、んん……あ、あら?」
瞳はすぐに目を覚ました。
暫しキョロキョロと周囲を見渡すが、すぐに現状を悟ったようで、申し訳なさそうに眉を下げる。
「ごめんなさい、私ったら、せっかくの主人さんとのデートで……」
「いやいや、いいんですよ」
主人は苦笑しながら首を左右に振る。
「瞳さん、疲れてるんですね。やっぱり師走だと忙しいんですか?」
「あ……はい。お店は確かに忙しいんですけれど、疲れているわけではないんです。
昨晩は、あまり眠れなかったもので」
気になる答えだった。
まず思い立ったのは、自分とのデートを控えているからだろうか、というものである。
が、今日は彼女にとってもう一つ特別な意味合いを持つ日である事に、すぐに気がついた。
(お昼のお客さん……)
彼女はこれまで、このように一人の客を大切に扱う事はなかった。
それは、単なる客という域を超えた特別な存在である事は、容易に感じられる。
男性なのだろうか。女性なのだろうか。
幾つくらいの人なのだろうか。
彼女とはどういう関係なのだろうか。
眠れなかった理由は、自分なのだろうか、それとも……
「いつまでも座っていたら次のお客さんが入ってきちゃいますね。行きましょうか」
不意にそう告げて瞳が立ち上がる。
「あ……はい」
確かにいつまでもここで話し込むわけにもいかない。
湧き上がった疑問を抑え、主人も彼女の後を追うようにして席を立った。
その後のデートは何事もなく進んだ。
ショッピングを堪能して、陽が落ちてからは予約していたイタリアンレストランでディナー。
最後に、街中のイルミネーションを堪能しながら帰宅の途につく。
お決まりのデートコースであったが、彼女と回るコースは、何度回っても楽しいものであった。
……心中に残っている一つの疑問を除けば、であるが。
「最近、また一段と寒くなりましたねえ」
「まったく。瞳さん、少し薄着じゃありませんか? 良かったら俺のコート……」
「うふふ、そこまで気を遣って下さらなくとも大丈夫ですよ」
そんなやりとりを交わしながら、歓楽街の外れを歩く。
眩く輝くイルミネーションや店舗の明かりの数は減ってきた。
周囲を歩く人の数も同じように減っている。
気がつけば、二人の周囲には冬の夜の静寂が訪れていた。
(……どうしたものかな)
瞳との談笑を楽しみながら、頭の中には一つの自問が生じる。
やはり、気になる。
昼の客の事を教えて欲しいというのが、彼の偽らざる本音である。
そこまで気になるのは……やはり、瞳とその客が男女の仲であるケースを想像してしまうからであった。
(でも、俺と瞳さんだって、クリスマスを一緒に過ごす仲なんだ。
それに、大切な客の存在を瞳さんは隠していない。
なのに二股を想像するってのは、ちょっと宜しくないんじゃないか、俺)
結局、主人はそう結論づけた。
理屈では分かっていても気にはなる。
だが、それを尋ねる事こそが非常識だと判断したのである。
「瞳さん、今日は楽しかったです。
大切な日を瞳さんと一緒に過ごせて良かったですよ。
やっぱりクリスマスって良いですね」
「あら、嬉しいわ」
隣を歩く瞳は、自分を見上げながらにこりと微笑んでくれる。
「……主人さん、昼のお客さんの事、気になっているのでしょ?」
意外な一言。
目を僅かに大きく見開いて、瞳を見つめる。
彼女は、微笑みを絶やさずに自分を見上げ続けていた。
(お見通し……か)
気まずそうに頭を掻きながら主人は頷く。
歩みを止めると、瞳も同じように立ち止まってくれた。
「あの……ガラス細工、弁償とか」
違う。
本当に聞きたい事はそうではない。
「……いえ……それもそうですけれど……
それよりも、昼のお客さんってどういう方なんでしょうか?
それに、昨日寝付けなかったのって……」
彼は、取り繕う事をやめた。
真っ直ぐに、抱いている疑問を瞳に投げかける。
「ん……まずはガラス細工の事からお話しましょう。弁償して頂く必要はないんです。
だって……もうその方は、亡くなっているのですから」
瞳がぽつぽつと語る。
ゆったりとした喋り方というだけで、決して沈んだ口調ではなかった。
(亡くなった、って……)
主人は彼女の喋り方をそのままには受け取らない。
『亡くなった』という言葉が、その喋り方は辛さを隠すためのものだと示している。
「その方は、私にとって大事な方だったんです。
あ……ごめんなさい。もう大事な方だとは説明していましたね。
……そうですね。愛していた方だったんです」
愛していた。
痛烈な言葉が主人の胸に突き刺さる。
「今日のお昼は、一人で、その方を偲びたかっただけなんです。
でも、それだけですよ。亡くなった方とデートなんかしようがありませんし。
昨日だって、主人さんとのデートが楽しみだから眠れなかったんです」
「……そうですか」
それ以外の言葉が見つからない。
それ位に重い告白であった。
気がつけば、目前の彼女は顔を伏せていて、どのような表情をしているのかも分からない。
だが、笑っていない事だけは分かる。
愛する人を亡くした日に、良い思い出があろうはずはない。
そんな日にデートに誘い、あまつさえ『クリスマスは良い』だなんて、自分はなんという……
「……ごめんなさい」
瞳の謝罪が、彼の思考を断ち切る。
「本当にごめんなさい。この話、今日はこれだけにさせて下さい。
……もう少しだけ、時間が欲しいんです。
その人の事を忘れる事は出来ません。
でも、気持ちに区切りを付ける事なら……区切りさえつけられれば……」
瞳が顔を上げた。
主人の予想に反して、彼女は笑顔を浮かべていた。
涙をポロポロと流しながら、必死に笑おうとしてくれていた。
「貴方と、幸せなクリスマスを過ごせるようになりますから」
主人の理性は弾けた。
それ以上彼女の言葉を待たずに、強く自身の胸元に引き寄せる。
突然の事に瞳は身体をピクリと震わせて狼狽した。
それをなだめるように、彼女の後頭部に手を宛てがい、強く、そして優しく自身に密着させる。
「主人……さん……ひっく……主人さぁん……!!」
彼女は身体を震わせる事を止め、慟哭を漏らした。
更にその慟哭をなだめるように、一層強く彼女を抱きしめ続ける。
そうして、眼下に彼女の小さな頭を迎えながら、彼は思う。
(瞳さんが、クリスマスの日にその人を忘れる事は、きっと出来ない。
どうしたって、遠い思い出になって瞳さんの中に残り続けるんだろう。
それが、人間だもの。
……でも……)
「瞳さん」
後頭部に宛てがっていた手を降ろして、片手だけで彼女の腰を抱き寄せながら、彼女の名前を呼ぶ。
暫し間を置いて、彼女は顔を上げてくれた。
密着した事で体温が篭った頬には、涙が伝っている。
主人は空いた片手でその涙を拭う。
つとめて明るい声を出しながら、彼は笑いかけた。
「俺は、どこにも行きません。気長に待ちますよ。
瞳さんとステディな仲になって、クリスマスが送れる日を……」
「主人……さん……」
僅かな間。
そして……
「……はい」
彼女は、泣きながら微笑んでくれた。
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