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空は灰色の厚い雲に覆われ、森に寒風が吹き付ける中、防寒着に身を包んだ一人の男が体を縮こまらせながら歩いていた。彼は空を恨めしそうに見上げるとぽつりと呟く。 「降らないでほしいなあ、降るならせめて雪……」 そう言ってから彼は立ち止まると、肩にかけた大きなスポーツバッグに目線を落とし、ファスナーを開ける。その鞄の中からは、大きめの折り畳み傘が姿を現した。彼はその傘を掴むと、バッグの外側にある大きなポケットに無造作に突っ込み、ファスナーを閉じて再び歩き出した。
暫くの間森の中を歩き続けた彼は、森の中に現れた一社の神社の石段を駆け上がり、境内を抜けた奥にある「天本」と表札のかかった一軒家の前へと進んでいく。そして、駆け上がって乱れた息を一呼吸置いて整えると、その家の呼び鈴を押す。 彼が呼び鈴を鳴らしてから少しの間を置いて、家の中から一人の女性が姿を現した。 「はい」 「こんにちは、天本さん」 「あ、こんにちは河島さん。ごめんなさい、今コートを取ってくるので少し待っててください」 そう言って彼女は家の中に引っ込むと、すぐに茶色のダッフルコートを手に玄関へと戻ってくる。そのコートに袖を通しながら、彼女は微笑んで彼に話しかけた。 「今日は寒いですねえ、予報だと夕方から雨か雪が降るかもしれないとか」 「そうらしいね。まったく、折角のデートの時なんだし降らないでほしいよ」 不満そうに呟く彼の後ろで、玄関の扉の鍵をかけながら彼女は呟く。 「あら。雨景色も雪景色も悪くないじゃないですか」 「景色はいいけど余計寒いのがね」 「私は河島さんといれば暖かいから平気です」 「えっ、それって」 「言葉通り、ですよ」 そう言って彼女は、手袋もしていない片手を、振り返った彼の前に差し出す。 「……なるほどね」 彼は納得した表情を浮かべると、片方の手袋を外してから彼女の手を取り、しっかりと握りこむ。 「じゃあ行こうか」 「ええ、そうですね」
二人はそう言うと、手を繋いだまま連れ立って歩き始めた。
tareさんとの合作SS
雪中でもなお暖かく
家を出た二人は、そのまま徒歩で島の商店街へ向かった。
その前のデートは、海を眺めに行ったと彼は記憶している。
更にその前は、裏山の散策。
この冬に入ってからは、二人のデート先は殆どがその三箇所。
要するに、本土には出かけていないのである。
それには致し方ない事情があった。
去る事数ヶ月前、彼は夏の甲子園で華々しい活躍を見せ、無名の日の出高校を優勝へと導いていた。
野球の実力は申し分なく、話題性も抜群。
このような逸材をプロ球団が放っておくはずはなく、秋のドラフトで彼は晴れて一位指名を受けた。
しかし、その事が彼の生活を一変させていた。
そんな経歴に加えて、同地区に優勝旗をもたらしたキャプテンという事もあって、本土を少し歩けば見知らぬ人々から声をかけられ、サインをねだられ、記念撮影を求められるようにな
った。
そのような状態で、女の子とデートというのはなかなかに難しい。
そんなわけで本土デートはご無沙汰となっていたが、無論、遊ぶ場所は本土の方が圧倒的に多い。
その事を申し訳なく思っていた彼は、道中の雑談の中でタイミングを見計らって、彼女の表情を伺いながらその事を切り出した。
「本土、遊びに行けなくてごめんね?」
「私はその方が気楽で良いです」
笑顔でそう言う。
さりげない物言いが嬉しかった。
二人はまず昼食を取る為、町の片隅に佇むうらぶれた寿司屋に入った。
店内には二人の他に客はおらず、カウンターの中にいる初老の男性店員が笑顔で迎えてくれた。
寿司屋とは言っても、田舎町の飲食店にありがちな、看板に関わりのない多彩なメニューが並ぶ店である。
二人ともこの店には何度も来た事はあったが、野球部の練習後にチームメイトと訪れる事のある彼は、特にお得意様状態だった。
「かつ丼大盛りで」
「私は塩ラーメンでお願いします」
座敷に座り、寿司とは全く関係のないものを注文する。
メニューが幅広い分、料理が出てくるまでには少し時間がかかる店だったが、二人は間を持て余す事なく雑談に興じた。
とはいえ、近況の話題は道中に出尽くしており、この場で話題になったのは卒業後の生活に関するものであった。
「では、もう来月の引越しの準備は万全なのですね」
「うん。荷物といっても野球道具以外は全部寮に揃ってるしね」
「寮、ですか?」
「そうそう。話してなかったっけ?
ドラフト指名された選手は、まず選手寮に入るのが慣例で……」
彼と付き合いだしてから野球に興味を持ち始めたとはいえ、彼女はまだプロ野球界がどういうものか良く分かっていない。
そこへ順を追って、合同自主トレ、キャンプ、オープン戦、シーズン、オールスター、秋季キャンプ、そしてオフ……
彼はプロ野球界の一年の流れを一つ一つ丁寧に説明してみせた。
「なるほど。良く分かりました。ありがとうございます」
「いやいや、これくらいは」
「……ふぅ」
彼女が小さく溜息をつく。
その意味を尋ねる前に、言葉は続けられた。
「では、確実にこうやって二人で遊びに行けるのは、次のオフになるのですね」
ああそういう事か、と思う。
居住まいを正して彼女の顔を見やる。
「んー……そうだね。
シーズン中も休みがないわけじゃないけれど、
流石に一年目は野球に没頭したいから……」
ごめんね、とは続けない。
そうする事が二人の将来の為だと思っているし、彼女もまたその事を承知してくれているはずだ。
それなのに謝るという事は、彼女の意思に失礼な気がする。
ただし彼は、別の言葉を付け加えた。
「……天本さん、寂しい?」
「寂しくないといえば嘘になりますね。でも……」
彼女が首を横に振る。
その直後、カウンター越しに注文していた料理が出てきた。
「さ、頂きましょう」
彼女のその言葉で、話題は途切れた。
彼女が言いかけた言葉の続きは気になったが、
それ以上に、食欲をそそる眼前のかつ丼に気持ちを奪われた彼は、箸を手に取るのであった。
………
……
…
食事を終えて外に出ると、雪がほのかに降り始めていた。
予報よりも早いが、まだ傘を差して防ぐ程のものではない。
「もう降ってきたか。雨じゃないだけ良かったかな」
「雪ですか……。デート、どうします? 私は大丈夫ですけれど、河島さんは万が一にも風邪をひくわけには……」
「大丈夫、ナントカは風邪引かないって言うでしょ」
「あら」
そんなやり取りの後、家を出た時と同様に、どちらからともなく手を繋いで町を歩く。
小さな町ではあるが、歩いて回ればそれなりに時間はかかるもので、
幾つかの店でウィンドウショッピングを終えた頃には、夕方前になっていた。
帰宅までの時間と日没の早さ、それに神社周辺の人気のなさを考えれば、そろそろ帰路につこうか、という話になる。
「では河島さん、最後にここで買い物しても良いでしょうか?」
その道中、彼女が衣服店の前で止まり、そう訪ねた。
断る理由のない彼は顔を縦に振り、店の方に歩みを進める。
「あ……で、できれば私一人で、見ても……良いでしょうか。
その……」
彼女が慌てて言葉でそれを制する。
顔が紅潮しているようだが、寒さのせいだろうか。
「一人で? 別に構わないけれど、なんで……あ……」
その理由を問おうとして、大方の理由に思い当たりができた。
彼女の紅潮が伝染して、同じく顔を赤らめながらその手を離す。
自由になった彼女は、申し訳無そうにぺこりと頭を下げると、小走りで店へ入った。
「………衣服店と言っても、色々売ってるもんねえ」
ボソリと呟いて邪推する。
それから、周囲を見回して、然程風が吹かない店の軒先に移動する。
後は、何をするでもなくぼぉっとしているだけである。
「寒いな」
寒気が強まっていることに気がついた。
彼女の手を繋いで町を歩いている時は、弾む雑談と手の暖かさに、あまり寒さを意識していなかったが、
こうして寒空の下一人で立っていると、寒さを強く感じる。
空から降り注ぐ雪は、いつの間にか大粒のものへと変わっていた。
今は軒先にいるから良いものの、外を歩く時にはもう傘が必要だ。
(合同自主トレやる所はここよりも暖かいと良いなあ。
もう少し暖かかったら、天本さんとデートする時も……)
そこまで考えて、ふっと顔を上げる。
(……そうか。遊びに行けるのは次のオフ、だったな)
昼食時の会話を思い出した。
今日のように、彼女と過ごす時間を満喫できるのは、もうあと僅かなのである。
来月に寮入りした後は、野球漬けの日々が待っている。
これまでは、ドラフト指名を受けた興奮もあって、あまり深く考えた事はなかった。
だが、こうして改めて考えてみると、これはなかなかに辛いものがある。
(天本さんと付き合い始めてからは、もう一年以上が経っている。
……でも、この夏に彼女と心から分かり合えてから、まだ四ヶ月だぞ。
たった四ヶ月で、俺たち、もう離れ離れになるのか……?)
彼は思わず背中を震わせた。
冬の寒さだけではない。
心中に、黒くて大きな穴が突然開いて、そこから流れ出た強い寒気が全身を駆け巡っているような気がする。
この感覚は、前にも一度感じたことがある。
そう、あれは、高校一年の夏だ。
まだ大安高校にいる時。
そして、母が……
「お待たせしました、河島さん」
不意に声をかけられる。
振り向けば、小さな紙袋を抱えた彼女がいた。
彼女はその場で、紙袋の中に手を突っ込んで中身を取り出してみせた。
出てきたのは、お揃いの手袋が二組である。
「手袋、二つ?」
「はい。河島さんの分と私の分です。
来年になったら……」
彼女は手袋を紙袋に戻しながらそう答え、河島の手を握る。
「暫くこうして手を握る事はできませんから、その代わりにお揃いの手袋を……と」
彼女はそう告げると、恋人を見上げながら微笑んだ。
「あ……」
柔らかな物腰に似合わず、こうしてストレートに好意をぶつけてくる所があった。
そんな好意に彼は、普段は赤面して言葉を失う所である。
この日も同様に言葉を失っていた。
だが、その表情には照れではなく哀しみが漂っていた。
「河島さん、どうかしましたか?」
そんな様子を察した彼女が、吐息を蒸気させながら尋ねる。
言葉にはし難い不安。
それに、大なり小なり心配させるかもしれない。
……だけれども。
「んと……来年が怖いな、って」
「………」
彼女は何も言わずに、言葉の続きを待っている。
「俺さ、今凄く幸せだよ。
天本さんと付き合い始めた頃もそうだったけど、今年の夏に、天本さんと心から分かりあえて、その気持ちは一層強くなった。
来年の事を気遣ってそんな買い物もしてくれて……。こんな優しい子と一緒で良かったと、心から思っている。
でも……」
「はい」
「来年になったら、天本さんとこうして過ごす時間はぐっと減ってしまう。
……仕方ないよね。俺たちは、まだ子供なんだ。
問題なのは年齢だけじゃない。
経済的にも安定するまでは、一緒に生活するのは難しいだろうしさ。
……いつかまた、こうしてずっと幸せな時間を過ごせると信じてるよ?
でも、その日が来るまでの間が、怖いな……って」
「河島さん……」
彼女が小さな声でその名を呼んだ。
だが、その声は暖かい。
何の不安も感じさせない声だった。
「大丈夫ですよ、河島さん」
そう言いながら、手を強く握り込んでくる。
視界を妨げる降雪の奥で、彼女は微笑んでいた。
「確かに二人の時間は減ってしまいます。
もちろん私だって、その事は寂しいですよ?
でも……そう、今日のお昼にも言いかけた事ですけれど……」
そう言われれば、そんな間があったような気がする、と彼は思う。
「……そんな時間の合間を縫って心を通わせられたら、
それって今以上に幸せな瞬間だと思うんです」
「今以上に……?」
彼女の言葉を繰り返す。
「はい。試合を応援するだけでも、夜中に電話でお話しするだけでも。
そうですね……お手紙を書くのも良いかもしれませんね。
……辛い時だからこそ、これまでは大した事なかった交流でも、暖かい時間になると思うんです。
そう考えたら、むしろ楽しみが勝る部分も出てきますよ」
暖かい言葉だった。
言葉だけではない。
握りこまれた手からは、体温以上のぬくもりを感じる。
雪中でも、なお暖かい。
彼女の言う『辛い時の中の暖かい時間』というのも、そういう暖かさなのかもしれない。
彼は、握り込まれた手を見てから、その視線を彼女に向ける。
暫し見つめ合ってから、ゆっくりと口を開く。
顔には、彼女と同じ笑顔が浮かんでいた。
「……そだね。そういうものかもしれないな」
「はい。きっと、そういうものです」
二人して、頷き合う。
どちらからともなく笑い声が漏れた。
こうして、二人の暖かな時間は緩やかに過ぎてゆくのであった。
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