天本玲泉は、今夜も僕のもとを訪ねてきた。
 僕の真っ暗なテリトリーの前で、自分は足を踏み込むべきなのだろうかと暫し躊躇していたが、彼女の選択は分かっていた。
 いや、僕に分からないはずがない。
 彼女の事を一番よく知っているのは、誰でもないこの僕だ。
 
 
 
「いらっしゃい。
 高校に入ってから、よく来るようになったね。
 今日は何の話があるの?」
 まだ僕と話す事に踏ん切りがつかない彼女に、優しく声をかける。
 彼女の心境を聞いてはみたが、これも答えは分かっていた。
 
「……話って程じゃないけれど」
 玲泉は頭を縦に降る。
 僕以外の、他の誰に対しても用いない口の利き方だ。
「言ってみなよ。僕に遠慮なんかいらないよ」
「……その」
 まだ口篭る玲泉。
 
 
「どうせ、また父さんの事なんだろう?」
「あ……」
 玲泉は目を丸くした。
 玲泉が僕の所に来る時は十中八九この話だ。
 ごくまれに、私生活の不満に対して愚痴を零しに来る事もあるが、殆どは父の話。
 彼女の母が焼身自殺してからは、もう全てと言っても良いかもしれない。
 
 
 
 玲泉は、顔を伏せて極力表情を見せないようにしながら、また首を縦に降る。
「……今日も、ずっと父の事を考えていたの」
「知ってる」
「高校に入って生活が変わったら、少しは気持ちが変わるのかな、と思ったけれど」
「そんな事無かったよね。それも知ってる」
「………」
 玲泉が顔を上げる。
 
 
 
 
「君はいつまで経っても父さんに縛られてるんだねえ」
「……ごめん、なさい」
「いやいや、責めてるんじゃないって」
 軽い調子でそう告げ、カラカラと笑いかける。
「むしろ、僕はそんな君の方が好きだって言ってるじゃないか。
 復讐、結構! 憎悪、結構!」
「そんな言い「いい子ぶるんじゃないよ」
 狼狽の表情を浮かべて僕の言葉を否定しかけた彼女の言葉を、無理やりかき消す。
 それから、彼女の顎を掴んで、無理矢理僕に正対させた。
 視界に入ってきた彼女の瞳は潤んでいた。
 
 
 
 間違いなく、僕の事を怖がっている。
 僕から離れられないのもまた事実だ。
 つまり、僕らの関係はまだ流動的。
 それでも、彼女の瞳が潤まなくなるのは時間の問題だと思っている。
 
 
 彼女が僕の虜にならない理由は、彼女の唯一の肉親であるセツと島民共。
 客観的に考えれば、そのうちのセツが逝くのはそう遠いものではない。
 柱であるセツさえいなくなれば、彼女は完全に僕のものになる。
 ……いや、最近の彼女の傾向を考えれば、それを待つ必要さえないかもしれない。
 
 涙目の玲泉を眼前に、僕は舌なめずりをした。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
どべさんとの合作SS
 
心の闇

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
「いいか、玲泉。君の父がやった事は許されるような事じゃない。
 人として許されざる事をしているのは誰だ?
 君を孤独にしたのは誰だ?
 君の母さんを自殺に追い込んだのは、だれなんだ?」
「い、いや……いや、ぁ……」
 玲泉は僕の手を振りほどくと、両手で耳を抑えてかがみ込み、僕の囁きを拒む。
 なんとも、無駄な行為だ。
 どう拒んでも、僕の声は彼女の耳に届くというのに。
 

 
「許せる男ではない。そうだろう?」
「あ……ああ……」
「君に纏う全ての存在を切り捨ててでも断罪すべき男だ。そうだろう?」
「あああ……うう……違う……」
 相変わらず屈んだままで呻き声を漏らす。
 
「違わない!
 社会が許されるものなら、殺したって構わない男……」
 そう言いかけて、ふと思い立つ。
 
 
「……いや、その通りだ。それは違うな」
 
 
「え……?」
 玲泉が顔を上げる。
 自分が肯定されたと勘違いしているのだろう。
 
 
「ああ、やっぱりそうだ。それは違う。
 なんで僕はこんな事に気がつかなかったんだ」
 忌々しげに頭を左右に降る。
 頬の筋肉が弛緩するのが実感できた。
 玲泉を見下ろして言葉を続ける。
「社会に許してもらう必要なんかないさ。
 単に許せないから殺せば良い。それだけの話なんだ」
 
「な、なんて……事……!!」
 玲泉が甲高い声を張り上げる。
 次の瞬間、ゴム毬のように彼女の体は跳ねた。
 一目散に僕から逃げ出す。
 
 
 
 
 
「はあ……」
 僕は深く嘆息して、軽く跳躍する。
 瞬く前に玲泉の正面に割り込み、彼女の肩を押さえつける。
 
 
「どいて! そこをどいて……!」
 玲泉が体を振って喚く。
「いいや、どかないさ。
 玲泉、もう一度良く考えてみるんだ」
「いや、あ……」
「あの男は死ぬに値する男なんだ。
 他の誰かなら、罵倒の一つでも投げかけて、終わりかもしれないさ。
 でも玲泉。君はあの男を絶対に許す事ができない」
 肩を抑えていた手を、二の腕から腰へと移す。
 流れるような手つきで腰に移った手は、そのまま彼女の背中に回る。
 包み込むように玲泉を抱きしめながら、僕はなおも言葉を続ける。
 
 
「だって、そうだろう? あの優しい母さんを捨てたんだ! ……殺したんだ!
 許せるものか! 何故母さんが死ななくてはならなかったんだ!?
 あの男は、かけがえのない愛する者と、その者から与えられる愛を奪ったんだ!」
 
 言葉に力が篭る。
 強い熱気を覚える。
 いつの間にか、僕の頬にも涙が伝っていた。
 玲泉は、もう僕の腕の中で震えるだけだ。
 
 
「そうだろう、玲泉!
 ……なあ……そうだろう……?」
 片手で玲泉の頭を起こす。
 顕になった顔は、光を失いかけていた。
 
 
 
 堕ちる。
 
 
 
 そう直感する。
 間違いなく彼女は堕ちる。
 僕のものになる。
 頭を起こした手を後頭部に宛てがい、ゆっくりと僕の顔に近づける。
 そのまま、唇を、彼女の唇に重ねようと……
 
 
 
 
 
 
 
 
 
「破ぁぁぁぁーッ!!!」
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 しゃがれた、突き刺すような鋭い声がした。
 
 反射的に玲泉から離れようと判断する。
 だが、実際に反応を起こす前に、周囲が一転して明るくなる。
 光に上書きされるようにして、僕の体は下部から消えゆく。
 瞬く間の出来事。
 
 もう、少し、だった……のに……
 
 
 
 
 
 ………
 ……
 … 
 
 
 
 
 
「玲泉。玲泉や」
 天本セツは、神社の本殿内で倒れていた玲泉の身体を何度か揺すった。
 玲泉はその行為に、ゆっくりと瞼を開ける。
 
 時刻は、午後十二時。
 日付が変わったばかりで明かりもない本殿は、暗闇に包まれている。
 それでも、玲泉は強い眩さを感じていた。
 
「お婆、様……」
「よぅし、帰ってきたか。
 意識はハッキリしているようだね」
 目を覚ました玲泉に、セツは安堵の表情で胸を撫で下ろす。
 だが、すぐに目を釣り上げて言葉を続けた。
 
「一人で考え事したいとか言って外出するから、心配になって後を追いかけたら、このザマだよ。
 お前、自分がさっきまで誰と話していたのか、分かっているかい?」
「さっき……」
 
 セツの言葉を繰り返しながら、玲泉は先ほど前の情景を振り返る。
 悪魔のような誘惑をもたらす存在。
 自分の事を誰よりも良く知っている存在。
 自分が、セツ以上に自身をさらけ出せる存在。
 
 そう、それは……
 
 
 
 

「そうだ。心の闇だ。
 自分自身と、自分の心の闇と対話しているうちに、それに飲み込まれかけてたんだよ、お前は。
 全く、未熟、未熟……」
 セツは玲泉の頭頂を軽く叩く。
「あの男が島を出て……そして、あの子が死んでから、闇と対話する時間が日増しに長くなっているね。
 だが、今日は危なかった。今のお前は少しばかり深いから、気をつける事だ」
「……ごめんなさい。お婆様……」
 力なく謝罪する玲泉。
 
 
「気をつければ何の問題もないんだよ。ほどほどなら、むしろ不可欠な事だ」
 セツは諭すようにそう告げると、本殿下駄箱に向かう。
 そのまま、玲泉に背中を向けた状態で会話を続ける。
 
「いいかい? お前がさっき対話していた闇は、必ずしも悪しきものではないのだ」
「……あれが、ですか?」
 予想外の言葉。
 玲泉は上半身だけを起こした状態で、先程まで対話していた相手の事を思い出す。
 すかさず、おぞましい寒気が全身を駆け巡った。
 思わず、身体を屈めるようにして自分の両肩を抱きしめる。
 
 
 
「ああ、そうだ。良く思い出してごらん。
 闇の言動は、一見おぞましいものだ。
 ……だが、その根本にあるのは、人間としての欲求……
 すなわち、お前自身なのだよ。玲泉」
 
「あ……」
 玲泉の瞳が大きく見開かれた。
 闇の言葉が脳裏に蘇る。
 闇は、最後に叫んでいた。
 自分を取り繕わず、何かをさらけ出していた。
 あれが、根本なのだろうか。
 自分自身なのだろうか。
 
 
 
 
「その根本的欲求は、時に欲望ではなく良心として……すなわち光の姿になる事もある。
 闇の根本は光でもあるのだ。だから、必ずしも悪しきものではない、という事だ」
 セツがちらと振り返った。
 強い視線を玲泉に向け、また前を向いて歩みを進める。
 
 
 
「……すなわち、闇を持たない人間は光も持たぬ。己を持たないただの抜け殻だ。
 そのようになってはいかんし、無論、闇に引きずられすぎてもいかん。ワシのようにな。
 ……お前はそうなるなよ。玲泉」
 
 
 その言葉に、祖母が常々口にしている思い人の話を思い出す。
 祖母の口調は穏やかだった。
 背後からでは表情は伺えないが、苦笑しているような気がする。
 
 
「お婆様……!」
 玲泉は慌てて立ち上がる。
 だが、同時にセツは雪駄を履いて本殿から出た。
 追いかけるタイミングを逸してしまった。
 
 
 
 
 
「………」
 本殿に立ち尽くす。
 暫しそうしてから、玲泉は歩き出した。
 その瞳には、光が戻っている。
 
 
 
 
 
 
 祖母がいる限り……自分にとっての柱がある限り、瞳から光が消える事はない。
 だが、祖母はいつまでもいてくれるものではない。
 もしかすると闇は、祖母がこの世を去る日を待ち構えているのかもしれない。 
 玲泉はそう思う。
 
 
 
 
「その時、私は……」
 小さな声で呟いた。
 
 その時の事は、誰にも分からない。