小杉優作の指先には、まだボールの肌で滑った時の感触が残っていた。
 つまりは、失投の感覚である。決して気持ちの良いものではない。
 加えて、結果としてその一投で決勝打を浴びたのだから、
 この日の晩、彼が大いに荒れるのは当然の成り行きであった。
 
 
 
「あああ、くっそおっ!」
 小奇麗だが狭いバーに、小杉の怒声が響いた。
 
 店内には他にも数名の客がいる。
 客たちの歓談の声を裂くように小杉が怒鳴るのは、もう一度や二度ではない。
 はじめは、何が起こったのかと中腰で立ち上がり驚いていた客達も、
 今では、迷惑そうに眉を潜めながら一瞥をくれるだけである。
 
 
 
「おい小杉、いい加減少しは落ち着けよ」
 小杉の隣に腰掛けていた塚本甚八がそう言って小杉の肩を叩く。
 とはいえ、その手に力は篭っておらず、口調にも真剣味は無い。
 
「……ちっ!」
 小杉は忌々しげに塚本を睨みつけるが、それでも一応の落ち着きは見せた。
 それから、手にしていたグラスをぐいとあおり、今度はぽつぽつと言葉を零すように語り出す。
 
 
 
「あそこまでは完璧に抑えていたんだ。あの一球さえなければ……
 昨シーズンなら、あんな失投する事は無かったのに……」
「へぇ。小杉の体も万能じゃないんだな」
「おい」
 小杉が強い口調で塚本を戒める。
 その先を口にせずとも、塚本には言いたい事が伝わった。
 彼は分かったと言わんばかりにもう一度小杉の肩を叩く。
 
 
「変な事は言わねえから安心しろよ。
 でも、これまでは抑えていたって事は、衰えが来たんじゃねえの?」
「まだ二十代前半だぞ。それは無い」
「んじゃ、貯金が尽きたんじゃねえか?」
「貯金……?」
 塚本の意図する所が分からず、小杉は彼の言葉を繰り返す。
 
 
「そう、練習の貯金だよ。
 お前、最近飲みに出る回数が増えてるじゃん。
 衰えとは別に、体がなまってんじゃね? って事」
「………」
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
ずのふさんとの合作SS
 
悪友

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 塚本の指摘は事実であった。
 この所、体が思い通りに動かない事が希にあると小杉は自覚している。
 小杉の体になる前も、プロ野球選手になれる位には野球に打ち込んできた彼である。
 それが、練習不足から来ている事は、自分自身が最も良く分かっていた。
 
 
 
 

 
 
「なんだ、もしかして図星なのかよ、小杉ちゃ〜ん」
 急に黙った小杉を、塚本が茶化す。
「そんなに深刻な顔すんなって。天下の小杉がどうしたってんだよ」
「いや……」
「メンタル的なものも無いとは言えないだろうし、今日の試合は忘れてパ〜ッとやろうぜ!」
「………」
 小杉は、陽気に笑いかける塚本をまじまじと見つめた。
 
 
 
 
(こいつだけが理解者……か。
 親族にも打ち明けられていないってのに、どうしてこんな事になっちまったのかね)
 ふぅ、と溜息をついて、またグラスをあおる。
 
(……ただ、一つだけ分からない事がある。なんでこいつは、俺に協力するんだ?)
 小杉は僅かに首を捻った。
 
 眼前の金髪男は、だらしなくヒゲも伸ばしており、装飾品も実に派手だ。
 見るからに誠実や友情という言葉とは正反対である。
 事実、そういう言葉とは縁がない事は、小杉の体になる前からよく知っている。
 
 
 
 
 
(……やっぱり、これしかないよな)
 塚本を睨みつけながら口を開く。
「……で、俺が復調したらおこぼれに預かろうって事か?」
「ははは、良く分かってるじゃねえか!」
 塚本は楽しげな様子で、更に表情を綻ばせた。
「当然だろ。他に何があるってんだよ」
「……そうだな。全くだ」
 頷く小杉。
 そんな塚本の欲求に対して、小杉はどこか安堵していた。
 彼は、自分を金づるとしか見ていない。
 
(でも……)
 また、一度グラスを口にあてがう。
(言い換えれば、どのような形であれ、俺は必要とされてる、って事だよな。
 それに、下手な嘘を付かれるよりも、よっぽど……スッキリとする……)
 
 
 
 
 
「ほらほら、俺の為にも、お前の為にも、今日は飲もうぜ。
 そしてまた明日からバリバリ働こうじゃないか」
 塚本がグラスにアルコールを注いでくる。
 小杉は、それを投げやり気味に飲み干した。
 同時に、身中が締め付けられるような感覚と、瞼の重さを感じる。
 彼の体には、もう随分と酔いが回っていた。
 
 
「おお……そうだあ……
 明日からは……明日、から……本気……」
 またぐいと。
 
「そうそう。頼りにしてるぜ、小杉ちゃんよ〜」
「おう……任せ……と……」
 
 
 小杉の意識は途切れた。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
………
……

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
「酔い潰れたか……」
 
 塚本は、小杉がテーブルに突っ伏すのを見届けると、天井を仰ぎながら身体をソファに預けた。
 僅かな間そうして寛いだが、すぐに背中を起こすと、横に置いていた自分の鞄をあさり出す。
 
 
 
「明日から、明日から、明日から……
 お前、今年はずっとそう言い続けているじゃねえか。
 俺は野球の技術は良く分からねえけど、お前がもう浮上できない落ち目だって事は分かるぜ。
 ……ん。あった、あった」
 彼は鞄から一枚の書類とペンを取り出した。
 それをテーブルの上に置くと、小杉の背中を叩いて起こそうとする。
 
 
 
 
「おい、おい起きろ小杉」
「……むにゃ……明日、から……」
「それはもういい。それより外泊証明書にサインしろ」
「ああん……がいはく……しょうめい……?」
 小杉の意識が僅かに戻る。
 塚本は彼の手に強引にペンを握らせながら、言葉を続ける。
 
「そうだ、外泊証明書。
 寮長に無断で外泊しちゃいけねえんだろ?」
「むにゃ……俺、ひとり、暮らし……」
「ばーか、何言ってんだ。お前はモグラーズで寮暮らしの万年二軍選手じゃねえか」
「あれ……そう……か、そうだった……かも、なあ……
 じゃあ……サイン、しない、と……」
 
 
 意識が覚醒しないまま、小杉は上半身を僅かに起こした。
 それから、塚本に誘導されるままに、書類の内容を確認せずに署名する。
 ミミズが這ったような汚い字であった。
 
 
 
「おーし、後は俺が提出しとくわ。お前はもう寝ていいぞ」
「おお、サンキュー、つか……もと……」
 小杉がまたテーブルに突っ伏す。
 それから間もなく、彼は静かな寝息を漏らし始めた。
 
 
 
 
「……ちっ」
 また小杉が眠りこけると、塚本は舌打ちをしながら書類を回収した。
「面倒かけさせやがって。だが、それも今日までだ」
 塚本は立ち上がった。
 それから、口の端を上げて笑いながら書類を鞄に戻す。
 ……それは、見出しに『入隊志願書』と記載された書類であった。
 
 
 
「じゃあな、小杉。早速お前を高く売りつけてくるよ。
 最後まで儲けさせて……」
「つかも……と……」
「!!?」
 突然、小杉が喋った。
 塚本は反射的に身構える。
 だが、小杉は体を起こそうとしない。
 
「なんだ、寝言かよ」
 安堵の息を漏らす。
「……むにゃ……お前が……」
「ん?」
「いてくれて、良かった……ぐう……」
「………」
 
 
 
 
 
 塚本は、無言で小杉を見下ろし続けた。
 時間にして数十秒。
 何かあったのかと、店員が遠くから様子を伺いだした所で、塚本は首を横に振った。
 
 
「……ま、売りつける時期が少々伸びても、売値に変わりはないか。
 それよりは、もう少しおこぼれを搾り取るのも悪くはねぇな」
 そう言い放ち、小杉に背中を向ける。
 
 
「じゃあな、小杉。
 とりあえず、今日の伝票は頼んだぜ」
 彼は数万円の伝票を残して立ち去っていった。