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 寺の掃き掃除をしていた小野玄空の前を、ゴキブリが大いに駆け回っていた。
 その様相から、ゴキブリは何かを主張したいようである。
 だが、ゴキブリが人間の言葉を口にできろうはずもない。
 
 ……それでも、小野は何かを悟ったように頷いた。
 
「ふむふむ。朝起きたらゴキブリになっていた、と」
「そうだよ、その通りだ! 小野、分かってくれたのか!?」
 初めての理解者を得て、ゴキブ……夏海は嬉しそうに跳ね上がる。
 しかし、当の小野は肩を竦めて言葉を返した。
 
「分かるには分かるが……やれやれ、晴川殿も寺生まれ万能説の信者でござったか」
「寺生まれ万能説?」
 夏海が触覚を傾げる。
「左用。世間には、寺生まれならこの手のオカルトをなんでも解決できると考えている者が多いのでござるよ。
 全く、その様な便利な存在であろうはずがないのに。ブツブツ」
 小野は今度は肩を竦めると、髪のない頭をかいた。
 
 
 という事は……である。
 
 
「って事は……小野も、元に戻る方法知らないのか?」
「知らないでござる」
「マジかよ……」
 大きく肩を落とす。
 だが、すぐに一つの疑問が湧き上がる。
 顔を上げ、再び小野に尋ねた。
 
 
 
「ところで……小野は、なんでオレが晴川だと分かったんだ?」
「簡単でござるよ。姿形が変わろうとも、魂は変わらないものでござる。
 ゴキブリ殿には晴川殿と同じ魂を感じるのでござる」
 待ってました、と言わんばかりに小野は胸を張って答える。
 
「んじゃ、なんでオレが考えている事が分かるんだ?
 この通り、言葉を口にする事はできないのに」
「魂が語りかけているのでござる」
 
 寺生まれ、十分過ぎるほどに万能である。
 
 
 
「ああ、起きたら虫になっていたといえば……
 元に戻る方法は分からぬが、そういうお話はあるでござるよ」
 小野が続けてそう口にした。
「ホントかっ!? どんな話なのか教えてくれ!
 元に戻るヒントがあるかもしれない!」
 夏海が一歩歩み寄る。
 
「ほ、本当でござる。
 その前に晴川殿、あまり近づかないで頂きたい。
 反射的に掃いてしまいそうでござる」
「お、おお」
 
 
「で……そういうお話、でござるな。
 作者やタイトルは忘れてしまったが、とにかく、朝起きたら虫になっていた男がいたのでござる」
「うんうん」
「家族に邪険にされながらもその男は生き続けるのでござる。
 そして最後は……」
 小野が溜めを作った。
「最後は?」
 彼の語りに引きずり込まれるように、夏海も頭部を前に乗り出す。
「最後は……」
 小野は内緒話を打ち明けるかのように、小声で告げた。
 
 
 
「りんごをぶつけられて失意のうちに死んでしまうのでざるよ」
「死んでんじゃねぇか!!」
 
「諸行無常でござるなあ」
「諸行無常じゃねえーっ!!」
 晴川は、大いに羽根を羽ばたかせて激怒した。
 
 
 
 
 
 
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……

 
 
 
 
 
 
 寺を出た夏海は、憤りながら道の真ん中を闊歩した。
 
「チキショー! あいつら、オレをなんだと思ってるんだ!?」
 ゴキブリである。
「駆逐にテラフォーマー? スイミーにりんごで死亡!?
 どれもゴメンだ。絶対に元に戻ってやるぞ、くっそ〜!」
 そう考えながら、羽根を震わせる。
 ゴキブリのナリをしているにも関わらず、憤慨している事がありありと分かる振る舞いだった。
 
 
 
 
「お、ゴキブリ!?」
 不意に前方から、聞き覚えのある声が聞こえた。
 夏海が顔を上げると、見知った少年が自分を見下ろしている。
 
 
「げえっ、羽柴!」
 夏海は反射的に一歩交代する。
 昆虫大好き男の羽柴が、自分をスルーするはずはない。
 ましてや、二ノ宮の反応を見る限り、奇妙な色をしているのであれば、確実に捕獲される。
 
「もしも捕まったら、飼われるのか? それとも弄ばれるのか?
 いやいや、ここはやっぱり……」
 
 標本。
 恐ろしい言葉が脳裏を過る。
 次の瞬間、夏海は身を翻して一目散に逃げ出した。
 
 
 
 
「こ、ここは逃げるしかないーっ!」
「あっ、待てよ、晴川!」
「えっ!??」
 不意に自分の名前を呼ばれた。
 寺生まれでもないのに、彼はゴキブリの姿をした自分を晴川と呼んだのだ。
 
 
 
「は、羽柴ぁ! お前、オレだと……」
 感動に打ち震えながら夏海が振り返る。
「待てよ、晴川……みたいに元気なゴキブリ!!」
「っざけんな、チッキショーッ!!」
 再び逃げ出す夏海。
 
 
 
 その瞬間であった。
 
 
 
「お、おつかいのりんごがーっ!」
 不意に脇道の坂の上から声が聞こえる。
 反射的に夏海がそちらを見やると、坂の上には明智の姿があった。
 だが、問題なのは彼ではない。
 
「り、りんごぉ〜っ!?」
 彼が落としたと思われるりんごが坂道を転がってくるのである。
 気がついた時には既に坂を半分以上下っていたりんごには、勢いがついていた。
 そして、それは……
 
 
 
 げしっ!!
 
 
「ぐええ〜っ!!」
 見事に坂の下の夏海に激突した。
 
 
 
 
 
「な、なんて事だよ。これじゃ小野から聞いた話の通りだ……」
 夏海の視界がぼやける。
 りんごに潰されたまま、意識が遠のいてゆく。
 
 
 
「オレ、このまま死んでしまうのか……まったく、ひっでぇ死に様だ……」
「……! ……!!」
 視力が完全に無くなった。
 遠くから、羽柴の声が聞こえるような気がするが、上手く聞き取れない。
 
 
「ったく、最後に聞く声があいつの声かよ……何言ってるのか分からないし……
 あんにゃろ、ひっでぇ事言ってくれやがったな……
 見てろよ……生まれ……変わった……ら……」
 
 
 そして、夏海の意識は途絶えた。
 
 
 
 
 
 
………
……

 
 
 
 
 
 
「ぶあっ!?」
 夏海は飛び起きた。
 視界に広がっているのは、自分の部屋であった。
 テーブルの上に置かれている時計は七時を指していた。朝である。
 
 沈黙する事数秒。 
 やがて、夏海は一つの結論へと辿り着いた。
 
 
「……夢かぁ〜!!
 そ、そうだよな、夢だとしか考えられないよなあ!」
 
 大いに安堵する。
 ここは自室。坂の下ではない。
 背中にりんごの痛みは感じなかった。
 時刻だって朝。
 全ては、夢だったのである。
 
 
 
「あいつら散々やってくれたな。
 今日の練習では思いっきりしごいてやるからな。覚悟しとけよ!
 夢とはいえ、あいつらはあいつらだ!」
 理不尽なシゴキを誓う夏海。
 ふと、同時に彼女は空腹を覚えた。
 
「……しかし、お腹空いたな。怒るとお腹が減るって本当なのかも。
 朝ご飯、もう出来てるのかな〜」
 一息付けば、次に考えるのはこれまでの自身の扱いである。
 
 
 
「あっさごはん、あっさごはん〜っと!」
 楽しげに鼻歌を歌いながら自室を出る。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 ……彼女が現実を完全に把握するのは、それから数十秒後。
 両親に、ゴキブリだと驚かれ、追われる瞬間であった。