うららかな日差しの春。
 人々の心を、暖かく明るいものにしてくれる季節。
 ……にも拘らず、主人公は自室で一人唸っていた。
 
「むむむ」
 椅子に腰掛けながら、渋い顔で卓上を見ている。
 卓上には、A4サイズの印刷物が数通並べられていた。
 いずれも、末尾には主人が受けた会社の名前が記されている。
 そして文頭には『面接結果のお知らせ』と大きなフォントで。
 
 彼の反応からして、お知らせの中身はただ一つ。
 つまりは、不採用通知である。
 
 
 
「はぁ〜……」
 渋い顔を一転、暗い表情へと切り替える。
 背もたれに深く体を預けながら、そのうちの一枚を手に取って、目の前でひらつかせた。
「暫く睨んでいたら、採用通知に変わらないかなと思ったけれど……やっぱり無理か」
 無茶を言う。
 
 
「世知辛いなあ」
 ぼそりと呟いて不採用通知を机に戻す。
 力なく立ち上がって、何気なく部屋の窓を開けた。
 
 そこから見える景色は、まさに春である。
 アパートの敷地の一角には、猫の額程ではあるが、小さな公園が設けられている。
 そこに生えている木々は青々とした葉を纏い、その隙間から漏れる日差しの下では、アパートの管理人が幸せそうにベンチに腰掛けていた。
 彼の視線の先では、帰宅したばかりの典子が制服も脱がずに、花に水を与えていた。
 視線を遠くに移せば、数名の小学生男子が帰宅していた。
 かろやかな足取りで、かすかに届く彼らの声は、無論何を言っているのかまでは分からないが、楽しげなものではあった。
 気持ちの良い、春の日常の一コマである。
 
 
 
「俺もその一コマに入りたかったよ……」
 一方の主人は重々しく嘆息する。
 
 彼がこの春に面接までこぎつけた企業は五社である。
 そのいずれでも、それなりの手ごたえは感じていた。
 面接官と趣味の野球の話で意気投合し、勝利を確信できた面接もあった。
 
 ところが結果は、卓上に並ぶ通りである。
 これで全滅ならば、正直な所、主人には打つ手が思い浮かばなかった。
 両親が薦める通り、実家に帰るという選択肢も現実味を帯びてくる。
 だが、それだけは避けたかった。
 仕事はともかく、その他の環境には満足感を覚えている。
 できる事なら、この町でこのまま暮らしていきたい。
 
 そんな主人の心境をあざ笑うかのように、
 窓から入り込んだ風が、卓上の四枚の不採用通知を吹き飛ばし、それらは力なく床に落ちた。
 ……そう、四枚である。
 
 
 
「でも、俺にはもう一つチャンスが残っている……!」
 まだ通知は四通しか届いていない。
 結果待ちの会社が、あと一社残っているのである。
 ぐっと顔を上げ、力強く握り拳を作る。
 
 それを見計らったかのように、玄関から物音が聞こえた。
 ガタン、という金属音。
 玄関ポストの開く音である。
 
「きたかっ!」
 敏感に反応した主人は玄関へと駆けた。
 やはり、ポストには封筒が一つ挟まっていた。
 ひったくるようにしてそれを抜き出すと、送り主には残る一社の企業名が書かれていた。
 待ちに待った最後の通知である。
 
「頼む! 頼む頼む、頼む〜!」
 封筒を乱雑に切り破りながら部屋に戻る。
 机の前に戻る頃には、中の用紙を取り出していた。
「頼む〜〜〜〜っ!」
 もう一度祈願の声を漏らしながら、その用紙を眼前で広げる。
 
 
 ………
 ……
 …
 
 
 ……不意に、主人の手から力が抜けた。
 宙に浮いた用紙は、これもまた風に吹かれて、他の四枚と同じ所へと落ちた。
 
 最後の一枚に書かれた『不採用』の一文が、現実であった。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
亜空間喫茶Dennou
 
第八話/キャッチボール
 
 
 
 
 
 
 
 
『どんまいニャン。これで涙拭くといいニャン』
『台拭きじゃんこれ』
 久々の喫茶Dennouで就職活動の結果を報告する。
 そこでBARUから差し出された台拭きを遠慮なく叩き落した主人は、ジト目でBARUを睨み付けた。
 
 だが、そんなやり取りがなんだか懐かしくて、すぐに怒る気は失せてしまう。
 不在期間は二週間程度である。
 それなのに、どうして懐かしく思えるのだろうかと考えた主人は、すぐに答えに行き当たった。
 
 
 
「……この数ヶ月、毎日のように喫茶Dennouに入り浸ってたからな。
 二週間こなかっただけでも、懐かしく感じるものかもなあ」
 どことなく楽しそうにそう呟く。
 
 モニターには、何も変わらない喫茶Dennnouが映っている。
 心の落ち着く観葉植物が並んだ木造の建物。
 ミーナのチョイスでかけられているクラシックのBGM。
 そして、デンノーズの仲間達。
 それらは、いつの間にか主人の日常になっていたのである。
 久々に触れたその日常は、なんとも心地良いものであった。
 
 
『まあ、次頑張らないとな』
『うむうむ。余も応援しておるぞ』
『そうですよ! 主人さんなら次は大丈夫です!』
 BARUと一緒に報告を聞いてくれたサイデン、パカ、レンが励ましてくれる。
 他にはミーナとウズキにスターがいたが、彼女らも同調するように頷いている。
 実にありがたい反応である。
 
 ……ありがたい、のではあるが……
 
 
 
(ただ、いまひとつやる気は起こらないんだよなあ)
 励ましてくれた皆へのお礼をタイピングしながら、表情を曇らせる。
 五連敗を喫した後で『なら頑張るか』という気持ちが沸き起こるものでもなかった。
 それが自分の駄目人間たる所以なのかもしれない、とは思う。
 だが、やる気の起きないものはどうしようもなかった。
 
 
『そうだ、良い事思いついたです!』
 ミーナがそう言ってポンと手を打ち鳴らした。
 何なのだろうと、一同は皆ミーナに視線を向ける。
 そうも注目されるとは思っていなかったようで、ミーナは一瞬たじろぐ様な様子を見せた。
 
『そ、そんなに注目される程の事でもないのですが……
 ええと、キャッチボール、しませんか?』
『キャッチボール? ゲームをするって事かニャ?』
『いえ、そうでなくて本当のキャッチボールです』
『ああ、そういえばそんな話していましたっけか。
 暖かくなったらキャッチボールオフ会でもやりましょう、と』
 ウズキが目を大きくして、ハッとした表情で言う。
 ウズキの発言と同時に、そんな約束をしていた事を主人も思い出す。
 
『そうです、そうです。
 元々は野球を楽しむためのオフ会のつもりでしたけれど、
 主人さんの良い気分転換にもなるんじゃないかなと思うですよ』
 心中を見透かされたような一言である。
 だが、悪い気はしない。
 そう言われれば、正月にキャッチボールをして以来、グローブに手を通していなかった。
 本当に気分転換できて、就職活動を頑張ろうという気持ちになれる保障はないが、
 久しぶりにキャッチボールをするのは、それはそれで悪くはない。
 ましてや、久しぶりにデンノーズの面々が現実に集うのである。
 
 
(最後に集まったのはデウエス戦の後の、九月の打ち上げだったなあ。
 俺がハブられてなければ、だけれど)
 かなしい条件である。
 
 
 
『いいですね、キャッチボールオフ会。俺参加します』
 主人は手を上げながらミーナの提案に応える。
 その場にいる者全員の手が上がるのは、それから十秒もしない間の事であった。
 
 
 
 
 
 
 
………
……

 
 
 
 
 
 
 
 ナマーズ球場近辺は試合が無い日でも多くの人が行き交う。
 球場がそれなりの都市部にあるという事が最大の理由ではあるが、
 それに次ぐ理由は、球場近辺施設である。
 
 ナマーズ球場横には、球場が管理する広めの公園があった。
 木々に囲まれたさわやかな情景を楽しめる遊歩道こそ備わってはいるものの、
 球場が管理するだけあって、その公園の大部分は球技を楽しむ為のスペースとなっていた。
 関連設備は無いものの、やろうと思えば草野球をできるだけの広さを誇っており、
 当日の試合の有無に関わらず、いつでも数組がここで球技を楽しんでいる。
 
 主人は、贔屓の球団であるナマーズの本拠地横に、その様な公園がある事を誇らしく思っていた。
 もっとも、大学自体は野球をやるなら学校のグラウンドで事足りており、
 昨年は多くの出来事がありすぎて、この公園を使う機会はなかった。
 
 だが、ついにこの日……デンノーズ有志のオフ会にて、その機会が訪れたのである。
 
 
 
 
 
「うひゃ〜っ! 浅梨殿、どこに投げているんでおじゃるか〜?」
「本名で呼ぶな馬鹿! お前こそピクリとも動かないじゃねえか。取って来い!」
 
 この日の参加者は、運動に自信がある者と運動音痴、それぞれの能力はいずれも極端であった。
 そのうちの運動音痴組、サイデンこと田西と、BARUこと浅梨のコンビのキャッチボールは散々なものである。
 二人の共通点として、肩が散々なのである。
 キャッチボールのフォームが砲丸投げのそれで、とにかく遠くに飛ばない。
 太陽に吸い込まれるような極端な放物線を描きながら放たれるボールは、十メートルが良い所。
 その上、コントロールも散々で、更に田西に至ってはコントロールが乱れたボールを追おうともしない。
 デンノーズの面々の隣でキャッチボールをやっている小学生の方が、よっぽど形になっていた。
 
 
「ははは、二人ともがんば……うおっ!??」
 笑いながらそんな二人に声援を飛ばしたスター、平良木が目を丸くしながら身体をビクつかせる。
 平良木のキャッチボール相手である渦木の投げたボールが、時速140キロはあろうかという勢いで飛んでいったのである。
 
「いやあ、すみません、コントロールが乱れました。義手の調子が悪いのでしょうかね」
 渦木が、戦闘用サイボーグに改造された義手で頭をかきながら謝る。
 国家から配備された最新鋭の技術を誇る義手である。
 調子が悪い事などあろうはずもなく、100%の信頼度を誇るからこそ渦木が仕掛けた悪戯であった。
 この日の為に、飛ばされた遠方の島から駆けつけた辺り、彼は相当この時間を楽しんでいるようである。
 
 
 他の参加者は主人、ミーナ、漣、パカである。
 この四人も各々がキャッチボールを大いに楽しんでいた。
 運動神経に自信のない漣とパカが組み、主人はミーナと組んだ。
 華奢な体格とは異なり、その職業柄、身体を動かす事に自信のあるミーナは、
 さすがに野球の能力では、元野球部の主人には劣るものの、
 キャッチボールの相手としては、なんら不足は無かった。
 
 
 
 
「楽しいですねえ、主人さん。それっ!」
「ええ、まったくです」
 会話を交わしながら、二人もキャッチボールにいそしむ。
 一応ミーナを考慮して、距離は二十メートル程に留めていたが、
 彼女が投げる球は、田西らのように放物線を描く事はなく、やろうと思えばまだ距離を広げる事はできそうであった。
 
 
 
(いやあ……本当に楽しいな。
 正月以来、長くボールに触ってなかったもんな)
 
 記憶をたどりながら、キャッチボールを楽しむ。
 ミーナが投げる球から受ける衝撃はさほど重いものではなかった。
 でも、この感触は確かに野球の球だ。
 十年以上親しんできた感触だ。
 
 
 
「んしょっと。Dennouの事〜!」
「んっ?」
 ミーナが球を投げながら、Dennouの名を口にする。
 突如出てきた予想外の言葉に、主人は相手の言葉を確認するような声を漏らしながら、その球を受ける。
 
 
「Dennouです〜。喫茶Dennou。よいしょっと」
「あ、はい。それが何か?」
「あそこを作った理由って話してませんよね? んしょ」
「ふむ。そうでしたっけか」
 キャッチボールを続けながら、ミーナの話を聞く。
 そう言われれば、確かにミーナからその理由を聞いた事はなかった。
 正直な所、デンノーズがあった頃は、ミーナは仕事で参加している一面もあり、あまりチームに入れ込んでいる印象はなかった。
 亜空間に浮かぶ喫茶Dennouを作ったのは、そんな彼女である。
 
 
「私の仕事、楽じゃないですよ。えいっ」
「でしょうね。何度か手伝いましたから分かります」
「だから、作ったです。仕事を忘れられる時間が欲しかったです。たあっ」
「……そうでしたか」
 一端を経験しただけでも、その過酷さは十分に伝わっている。
 大いに相槌を打つのは、逆に彼女に対して失礼な気がして、程ほどの返事を返した。
 
「はじめは仕事でしたけれど、デンノーズの皆とやるゲーム、楽しかったですから。それっ」
「分かります、俺もですよ」
「でも……」
 不意に、主人のボールを受けたミーナが動きを止めた。
 主人は大げさな反応を見せずに、彼女の言葉の続きを待つ。
 
 
 
「でも、息抜きは緊張があるからこそ成り立つです。ふうっ。
 私も、Dennouでエネルギーもらった後は、仕事頑張ってます。だから……」
「だから……?」
 ミーナが額を拭いつつ近づきながら、また言葉を区切った。
 それから、やや離れていても分かる笑顔を浮かべて、また口を開く。
 
「だから、主人さんもファイトですよ!
 就職決まったら、また皆で遊びましょう!」
「……ミーナさん、ありがとう」
 くすぐったい感覚を覚える。
 だが、決して居心地の悪い感覚ではない。
 気がつけば、主人も笑顔を浮かべていた。
 
 
 確かにその通りだ、と思う。
 考えていればこの所、息抜きが過ぎていたかもしれない。
 Dennouで過ごす時間、こうしてキャッチボールにいそしむ時間、様々なゲームで遊ぶ時間。
 どれも楽しく、いつまでも浸っていたい時間である。
 でも、実際にいつまでも続けていれば、それは好ましい時間ではない。
 他の事が疎かになるだけではなく、その時間自体からメリハリが失われて、良い結果をもたらすものではない。
 辛い事に耐えるからこそ、楽しい時間も輝くのだろう。
 
 
 
「主人さん、私とも遊びましょう〜!」
 二人の会話を聞いていたであろう、隣でキャッチボールをしていた漣が駆け寄ってきた。
 
「ふむ。余も遊んでやらん事もないぞ」
 そのパートナーであったパカもゆったりとした足取りで近づいてくる。
 
「むひょ〜、大人気ですなあ! 拙者とも遊びましょうぞ!」
「お前とはあまり現実では遊びたくねえなあ」
「ははは、疲れたら僕の公演でも見に来ると良いよ〜!」
「また皆で集まる機会があれば、私も来ますよ」
 男性陣も主人に近づいてくる。
 あっという間に、主人を囲むようにしてデンノーズの面々が集まってしまった。
 
 
 
 
「いやはや……あ、ちょいまち、ちょいまち」
 返答に困っていた所で、ジャージのポケットが振動する。
 正しくは、ジャージの中に入れていたスマートフォンである。
 皆を手で制しながらスマートフォンを取り出した。
 ディスプレイには見慣れない番号が表示されている。
 いぶかしみながらも、モニターに触れて耳に宛がう。
 
 
 
 
 
「はい、主人です。
 ……はい。……はい。
 ………えっ? 手違い……採用……?」