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『春だなあ』
『春です』
『ええ、春ですね』
喫茶Dennouに、三人の和やかな発言が広がる。
主人と、彼にとって特殊な存在になりつつあるミーナ、ウズキの三名である。
この所、日中にこの三名で過ごす機会が増えている。
すなわち、主人は未だに定職に就いていないのである。
本気を出す時期を延ばしに延ばし続け……ついには四月、フリーター二年目に突入したのである。
『いやあ、最近昼間から眠くて仕方ないんですよね……』
そう言う主人のアバターは、先ほどから上半身をカウンター席にだらしなく預けている。
さすがにミーナやウズキまで同じような行動を取ってはいないが、
時折あくびのモーションを行ったり目を掻いたりと、四月の暖かさに弛緩の空気は広がっていた。
『春ですからねえ。私の所は少々暑いくらいですよ』
地方の島に飛ばされたウズキが言う。
『ええ。眠くなる気持ち分かります』
カウンター越しのミーナも同調してくれた。
『……分かりますが……』
だが、ミーナは言葉を続ける。
『むっ?』
主人のアバターは眼だけ起こしてミーナを上目使いに見た。
『主人さん、フリーター生活もいよいよ二年目らしいですね』
『おやおや、まだ決まっていませんでしたか』
『痛い所を……』
今度は身体ごとカウンターから起こし、苦笑する。
二人が特殊な存在なのは、この点であった。
喫茶Dennouの中でも数少ないまともに働いている人物。
それでいて、主人の就職状況を気にしてくれる人物。
それが、ミーナとウズキである。
『ええ、二年目です。……いや、分かってますよ?
俺もさすがにこれはマズイと思ってますから、もう本気出しますよ!』
やや力強い勢いで言う。
嘘ではなかった。
言葉通り、これ以上のフリーター生活は危険だと考えており、
もう職種も選ばずに、何か定職に就くべきだと主人は考えていた。
『ミーナさん、信じられます?』
ウズキがちらと主人を一瞥してからミーナに尋ねる。
『これまでも、何度も似た言葉は聞いた気がしますねえ』
ミーナも、主人を吟味するかのように目を細めながら言った。
『ちょっとちょっと、酷いなあ!
人がせっかくやる気になったというのに!』
主人は口をへの字に曲げて拗ねてみせる。
モーション自体はかわいいものだったが、
フリーターが就職意欲を疑われて取った行動を考えれば、少し情けないものがあった。
『これは失礼。そこまで言うのでしたら信じますです』
ミーナがぺこりと頭を下げる。
『で……主人さん、具体的にどうするつもりです?』
だが、彼女は顔を上げて言葉をつづけた。
『それなんですが……』
主人は一呼吸置く。
『もう、就職先を選ぶような余裕もありませんから、
正社員面接乱舞で、とにかく面接を受けまくってみようかと思います。
もちろん、可能性がありそうな所に絞って、ですけれど』
『なるほど。では暫くここにはこれそうにありませんね……』
主人の言葉を受けて、ウズキが寂しそうに言う。
想定外の発言だった。
『えっ? 俺、これなくなるの?』
『これなくなると思いますよ。沢山受けるのなら、履歴書も沢山書かなければいけませんし』
『むむむ』
『そうですね。それが落ち着くまでは就職活動に専念した方がよさげです』
ミーナもウズキに同調する。
『むむむ』
主人がやり場のない気持ちを唸り声にする。
「……なんだか、おかしな事になってきたぞ」
現実の主人が、思わず席から立ち上がる。
顎に手をあてがい、眼下のモニターに流れるウズキとミーナの発言を眺める。
喫茶Dennouでダベる位の時間が、就職活動に影響を及ぼすとは思えない。
だが、ここでのダベりが、気持ちを弛緩させている可能性もあるだろう。
二人の気遣いを流すというのも、気が引けるものがある。
忘れてはいけないのが、ここで過ごす時間が自分の中で幸せなひと時であるという事である。
考える事数秒。
……確かに、二人の言う通りなのかもしれなかった。
『まあ……そうなのかもしれませんね……』
主人は、後ろ髪を引かれる思いでそう発言した。
亜空間喫茶Dennou
第七話/無職、本気出した
高校の進路指導授業で習った事を思い出すのは、そう難しい事ではなかった。
机の上に履歴書を広げ、最初に行うのは……文章の下書きではなかった。
シャープペンと定規を手に取ると、まずは履歴書に線を引く。
記入欄の上下に余白線を入れた後で、均等に文字を書いていくための縦線も入れる。
その後で、ようやく下書きに入る。
記入が決まっている基本情報をすらすらと書き上げた後で、
昨日考えておいた、今回の履歴書送付先用の情報を書く。
そこまで終えたら、今度はシャープペンをボールペンに持ち替える。
書き損じる事の無いよう、また文字が乱れる事のないよう、一文字一文字丁寧に本書き。
手が痛くなりだした頃に、ようやくその本書きが終了。
次はドライヤーを取り出して文字をスピード乾燥する。
そして今度は、消しゴムで下書きと線を全て削除。
最後にようやく、これまた昨日撮ってきた面接用写真を丁寧に貼り付ける。
思いだすのは難しくはないが、書くのは別である。
多数の工程を経て、ようやく主人の履歴書が一枚だけ完成した。
「………ぷふぁ〜っ!」
自分の写真を張り終えた瞬間、溜めこんだ緊張を呼吸にして吐き出す。
緊張がほぐれるのと同時に、右手に疲れを感じた。
手首を回しながら卓上の机を見ると、三十分は履歴書に取り組んでいた事になる。
前日用意した志望動機やらを書くのに要した時間も含めれば、一時間以上だ。
「気が滅入るな。ちょっと休むか……」
一社ごとにこれでは、どれだけ時間が掛かるのか分かったものではない。
気分転換をしようと立ち上がると、それとほぼ同時に玄関のチャイムが鳴った。
「は〜い」
返事をしながら玄関に向かう。
覗き穴から外を窺うと、典子が立っていた。
玄関を開ける前に、一応自分の格好を確認する。
(スラックスにTシャツ……よし、ちゃんと服は着てたな)
情けない確認である。
「お待たせしました〜」
声を掛けながら玄関を開ける。
覗いていた通り、玄関前にいたのは田村典子であった。
「やっぱりいた。こんにちは、主人さん」
「典子ちゃん、こんにちは」
挨拶を返す。
なにやら気になる言葉も掛けられたが、とりあえず流す事にする。
そこで、典子が手にミニバスケットを持っている事に気がついた。
「あの、良かったらこれ……」
典子がそのミニバスケットを差し出してくる。
反射的に受け取ると、ほんのりと甘い香りが漂ってきた。
「マフィンを焼いてみたんです。お口に合わないかもしれませんけれど……」
バスケットを開く前に、典子が中身を教えてくれた。
「おー、ありがとう! ちょうど頭脳労働していて甘い物が欲しかったんだ。
マフィンは好きだし、典子ちゃんの作った物なら絶対美味しいよ!」
「そ、そんな事……」
典子が顔を赤らめて俯く。
だが、彼女はすぐにその顔を上げた。
「ところで、頭脳労働って何をしていたんですか?」
「履歴書を書いていたんだ。そろそろ定職に就きたいからね」
少しだけ声を小さくしていう。
事実とはいえ、中学生の少女の前で自身の環境を口にするのは少々恥ずかしいものがあった。
「そうでしたか。頑張って下さいね。
でも、たまには外にも出た方が良いですよ?」
「ん?」
典子の唐突な提案に、何度か瞬きしながら間の抜けた声を漏らす。
「だって、外に出た方が良い気晴らしになりますから。
知っていました? 自宅と、学校や職場の往復しかしない人も、
世間では引きこもりと言うらしいですよ」
典子が上目遣い気味で言う。
その表情には、純粋な不安の色が見えていた。
特に他意はなく、ただ自分の事を心配してくれているのだろう、と主人は思う。
「あ、ああ……大丈夫、大丈夫! 心配してくれてありがとうね」
笑いながらそう言う。
しかし、その言葉は無意識のうちに早口になっている。
つまりは、焦っているのである。
図星なのである。
(そういや、最近は現場と自宅の往復しかしてないな。
帰ったらツナミネットばかりで……まさしく引きこもりじゃないの、これ)
典子に愛想笑いしながら、自身の日々を省みる。
それは、お世辞にも健康的とは言いがたいものなのであった。
………
……
…
日曜の春の河川敷には、穏やかな時間が流れていた。
暖かな日差しと、体を包むようにして流れるそよ風。
その日差しが、水面に反射して少しだけまぶしい。
草花は暖かな空を求めるように高々と生い茂る。
川沿いでは犬を散歩させたり、ランニングに勤しむ人が多く見受けられた。
どことなく、皆表情が明るい気がする。
「春なんだなあ……」
主人はそんな光景を眺めながら、パーカーのポケットに両手を入れて河川敷を散歩していた。
典子の言葉を受けての事であるが、ミーナやウズキの忠告も頭にはあった。
確かにこの所、部屋に引きこもってはゲームかネットかの日々である。
少しは健康的な生活を送ろうと考えての行動なのである。
(思いの外、充実した時間だなあ)
目を細めながら、そんな事を考える。
あまり気乗りがする外出ではなかったのだが、いざ外に出てみると気持ちが良い。
過ごしやすい環境に、どこか気持ちが踊る。
これが春の高揚なんだろうか、と思う。
「お……」
そうして歩いていると、向かい側に見知った顔を見かけた。
鮮やかなブロンドヘアーに、エキセントリックなファンタジーの王子のような服。
見忘れる方が難しい、パカである。
「ようパカ」
歩きながら軽く手を上げて挨拶する。
パカもすぐに主人に気がつき、かろやかに手を振りながら近づいてきた。
執事の呉は同伴していない。
前に聞いた所では、お家再興の為のネタ探しをしているそうだった。
「主人ではないか。何をしておる?」
すぐ近くまで来ると、パカは目じりを緩めてそう尋ねてきた。
「散歩」
「なんじゃ、つまらん答えじゃな」
「じゃあパカは?」
「散歩じゃ」
パカは無駄に胸を張りながら答える。
突っ込むのも馬鹿馬鹿しかった。
そんなわけで、二人して河川敷を歩く。
パカと歩くという事は、すなわち相応の注目を集めるという事である。
周囲が明らかに自分達に視線を向けているのが実感できる。
正確には、自分ではなくパカに向けられているのだ、とは思う。
だが、主人はどうしても自意識過剰になってしまう。
(俺、帽子がズレたりしてないよな。服装は……よし……)
歩きながら、自分の格好をちらちらと見る。
いつも通り、野球のユニフォームをしっかりと着こなしている。
自分では特に変な格好をしているつもりはなかった。
酷いものである。
「主人、あれを見よ」
そうして悩んでいる所にパカが声をかけてきた。
彼女が指差す先を見れば、自動販売機が設置されている。
「自動販売機がどうかしたか?」
「うむ。余は喉が渇いた」
「そうか。何か買えよ」
「うむ。時に主人は喉は渇かんか? ん?」
少し前を歩くパカは、顔を反らせるようにして主人の顔を覗き込む。
一家が潰れた彼女は、今や自分以上に金銭に困っているはずである。
言いたい事には、大方の予想がついた。
「俺は別に渇かないけれど」
「ま、まあ、そう言うな。無理はしなくても良いのじゃぞ」
「本当に無理はしていないけれど」
「し、しかしだな……」
パカが言葉に詰まる。
その様子がどことなくおかしくて、主人は少しだけ噴出してしまう。
「分かった分かった。渇いたよ」
「おおっ! ならば! 余にも少し……」
「分けるなんて貧乏臭い事言わないぞ。奢るからお前も好きなもの買えよ」
「ぬ、主人〜っ!」
天真爛漫の笑みと共に、パカは小さくガッツポーズをして見せた。
はいはい、とあしらいながら、自動販売機の前に行って、二人分の清涼飲料水を買う。
大分喉が渇いていたのか、パカはあっという間に飲み干してしまった。
「ふう……例を言うぞ、主人」
「おお。お家が再興したら、何か美味しい物でも食べさせてよ」
「うむ。任せるが良い」
パカが自慢げに言う。
「そういえば主人も、就職活動頑張っているのであったな?」
「まあ、ぼちぼちね」
適当に返事をする。
だが、今回は本当にぼちぼちではあるが進行している分、普段とは違って後ろめたさはなかった。
「左様か。皆応援しておったぞ。さっさと活動を軌道に乗せて帰ってくるが良い」
「ふむ……」
主人は曖昧な返事を返した。
残っている清涼飲料水を飲み干し、緩慢な動作で空き缶をゴミ箱に捨てる。
その様子にパカはいぶかしむ様子を見せる。
じっくりと勿体つけて、主人は口を開いた。
「パカも応援してくれてるの?」
「……自分で考えよ馬鹿者」
パカにバカと言われる主人であった。
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