「うい〜、さむさむ」
 主人は言葉を震わせながら、アパートのロビーへと帰ってきた。
 
 コートのポケットに両手を突っ込み、寒さをこらえる為に身体を丸める。
 二月の中旬とはいえ、まだまだ風は冷たい。
 交通整備のアルバイトで冷えた身体を、
 少しでも早く自室で暖めようと、パタパタと足音を立てながら廊下を早足で歩く。
 
 
 自室が視界に入ったところで、廊下に並ぶ扉の一つが開かれた。
 扉の中から少女が顔を覗かせ、左右に首を振って廊下をキョロキョロと見る。
 少女は主人の姿を見つけると、側頭部寄りに小さく結った髪を揺らしながら駆け寄ってきた。
 
 
 
「典子ちゃん、こんばんは」
 主人はその少女、田村典子に挨拶をした。
 典子もぺこりと頭を下げて挨拶を返してくれる。
 よく見ると、彼女は手にビニール袋を提げていた。
 
 典子はまだ中学生である。
 父と二人暮らしだからか、料理の腕は立派なものだった。
 主人は、彼女から夕食のおかずをお裾分けしてもらう事がしばしばあった。
 美しきご近所付き合いである。
 中学生に餌付けされている、とも言う。
 
 
 
「今日もお疲れ様です、主人さん」
 典子が上目遣いで言う。
 寒さのせいだろうか、吐息は蒸気しており、頬はうっすらと赤い。
 夜闇の中の、廊下に下げられたほのかな照明でもそれは見てとれた。
 
「今日は晩御飯のおかず、足りてますか?」
 典子が続けて言った。
「ああ……実は、家に帰ってもろくな食材がないんだ」
 主人が頭をかきながら言う。
 同時に、彼女が声を掛けてきた理由に察しが付く。
 おかずをお裾分けしてもらう時の典型的なパターンだった。
 毎日ある事ではないので、お裾分けを期待して夕食の準備をサボっていたわけではなく、単に彼がズボラなだけである。
 
 
 
「でしたら、良かったらこれ……」
 典子がビニール袋を突き出した。
 受け取ると、中身は見えないが程々の重みが伝わってくる。
 
「いやあ……典子ちゃん、いつもありがとうね」
 ぺこりと頭を下げる。
 だが、典子は返事をしない。
 両手を後ろに組んで、視線を廊下の端に向ける。
 普段ならば、一言二言、ちょっとした雑談に興じるところだった。
 
 
「……典子ちゃん?」
「それじゃあ、私、これで」 
 典子はくるりと踵を返し、自室へと駆け戻っていった。
 一体何なのだと彼女の背中を眺める。
 典子は自室に入りながら、少しだけ大きな声を出した。
 
 
 
「あのっ! チョコレートも入ってますから!
 ぎ、義理ですけれど、手作りですから!!」
 
 
 
 バタン。
 扉が強く閉められる。
 
 そして一人残された主人。
 ぼけっと廊下に立ち尽くす。
 状況を把握するのに、そう時間は掛からなかった。
 彼女の言葉の意図を理解すると、目じりの筋肉を緩ませ、にへらと締まりのない笑みを浮かべる。
 
「……まさか、貰えるとは思わなかったなあ」
 みっともない笑顔のままで、小躍りしながら自室へ向かう。
 年長者の威厳という言葉は欠片も感じられない姿だったが……今更である。
 
 そんな、バレンタインデーの夜の出来事。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
亜空間喫茶Dennou
 
第三話/インターネットバレンタイン
 
 
 
 
 
 
 
 
 主人の”バレンタインデー”は、それだけでは終わらなかった。
 
 
 
『主人さん、バレンタインのチョコ、どうぞです』
 喫茶Dennouのカウンター席に着くと、ミーナがカップを差し出した。
 日頃であれば、彼女が出してくれる飲み物はココアが基本である。
 だが受け取ってみると、今回のアイテム名にはホットチョコレートと記載されている。
『ミーナさん、ありがとう〜』
 笑顔で礼を述べる。
 主人に、ココアとホッチョトコレートの違いは分からない。
 ネットなので、名前以外の区別はなおさら付かない。
 だが、チョコレートをくれる事自体が嬉しかった。
『いえいえ。……ふむ』
 ふと、ミーナが考え込んだ。
『どうかしましたか?』
『いえ。私のお仕事、あんな感じですから、男性と交流を深める事なんてないんですよね。
 チョコレートプレゼントしたの、結構久しぶりかもしれません』
 どこか意味深に感じる事ができなくもない発言である。
 だが、先に来ていたサイデンもホットチョコレートを貰っている辺り、他意はないのだろう。
『へえ。なんだか、なおさら嬉しいな』
 主人も深く考える事なく、素直に喜んだ。
 
 
 
 ………
 ……
 …
 
 
 
『これ、バレンタインのチョコです!』
 レンはツナミネットにINすると、すぐに喫茶Dennouにやってきた。
 差し出されたのは、ゴージャスな包装のチョコレートである。
 アイテム名は、通常の白色ではなく黄色で表示されていた。
 課金アイテムの証である。
『おー、ありがとう! これ課金アイテムじゃない。貰っちゃっていいの?』
『いつもお世話になっていますから当然ですよ』
 レンが屈託のない笑顔で言う。
『ちなみに使うと野球関係のステータスが上がる効果があるみたいです』
『うわあ……本当にありがとうね』
 もう一度礼を述べる。
 缶ジュース程度の負担なのに、随分とありがたいものに思えてしまう。
 課金アイテムを貰うという事には、格別な嬉しさがあった。
『三月には俺もお返ししなきゃね』
『ありがとうございます、楽しみに待っていますね! やった〜!』
 本人そっくりの笑顔を振りまいて、レンはくるりと一回転して見せた。
 
 
 
 ………
 ……
 …
 
 
 
『はい、バレンタインのチョコね』
 戦隊物のような怪しいヘルメットを被ったピンクは、いつも通りの調子でアイテムを渡してきた。
 レンの物とは異なり、ゲーム内通貨で購入できる無課金チョコレートである。
 アイテムの説明文を読むが、特別な効果もないようだった。
『サンキューサンキュー』
 主人もいつも通り、気軽に返事をする。
『そんなわけで、ホワイトデーのお返し、期待しているからね?』
 にやりと笑うピンク。
『おお、そうだな。無課金のお菓子でいいよな?』
『ええー? 三倍返しってよく言うじゃない?
 最近販売された、ファンタジーゾーンの強力な武器なんかも付けて欲しいなあ〜』
 ピンクは悪戯っぽく手を振って言う。
『剛欲者め……』
『冗談よ、じょーだん!』
 ピンクはカラカラと笑い飛ばす。
「だと思ったよ。
 ……まあ、無課金の安物アクセサリーの一つくらいは付けてやるか」
 主人は苦笑しつつもそう呟いた。
 
 
 
 ………
 ……
 …
 
 
 
『お〜い、ぬしびとや〜い! 今日はバレンタインデーじゃな!』
 久々にINしたパカは砕けた調子でそう声を掛けてきた。
 パカはアバターこそ小柄な王子風であるが、中の人はブロンドヘアーで整った顔立ちの可愛い少女だった。
 もっとも、服装はアバターと大差がなく、貴族を連想させる非現実的なものである。
『そうだな。もしかしてお前もチョコくれるの?』
『むむっ? 何も知らんのだな、お前は。
 西洋では男女関わらず親しい者に贈り物をする日なのだぞ?
 お前こそ余にプレゼントをするのだ』
 えっへん、と偉そうに胸を張る。
 そう言われれば、そんな話を聞いた事もあった。
 だが、贈り物らしい贈り物は何も用意していない。
『俺は日本在住だから、日本式にホワイトデーに送るよ』
『むむっ……まあ、そういう考え方もあるか』
 パカが唸る。
 それから、やや投げやりな調子でアイテムを差し出してきた。
『なら仕方ない、待ってやろう。ほれ、これは余からだ』
『お、ありがとな』
 受け取ると、ピンクがくれたチョコの箱色違い版である。
『ホワイトデー、期待しておるからな。ほっほっほっ』
 何がそんなに楽しいのか、優雅に笑うパカであった。
 
 
 
 ………
 ……
 …
 
 
 
『バレンタインのチョコ、欲しいかニャ?^^』
『お前はいい』
 ネカマのBARUの申し出は、即座に断った。
 
 
 
 ………
 ……
 …
 
 
 
『……結構、貰えちゃったな』
 喫茶Dennouの二階席で、テーブルの上に貰ったチョコを並べてから呟く。
 向かいに座っているサイデンも、大方同じ物を貰っており、同様に並べていた。
 レンがくれたチョコだけ違いがあり、サイデンが貰ったものは無課金チョコとなっている。
 
 
 
『主人はリアルでも一つ貰ったんだったな。なんだ、随分モテるんじゃないか』
 サイデンが気持ちよく笑う。
 嫉妬心は感じられない笑みだった。
 
『いやあ、全部義理だから』
 一応謙遜する。
 一応である。
 相変わらず締まりのない笑みを浮かべつつの謙遜である。
 
『まあ、義理だろうと気持ちが嬉しいよな』
『うんうん。大学の頃は義理どころか、データでさえ貰えなかったからなあ』
 当時はネットゲーム等触った事がないのだから、当然ではある。
 そう言いながら、貰ったチョコを一つ食べた。
 電脳空間上でのただのアイテムなのに、なんとも幸せな気持ちになる。
 
 
 
『ネトゲだと、その辺りって気軽になるよな』
 サイデンも同じようにチョコを食べながら言う。
『その辺り……と言うと?』
『なんと言うか、恥ずかしがらずに好意を表現する事ができるよな』
『ああ、そういう事か。確かにな』
 ふむ、と息を漏らす。
 
 喫茶Dennouの女性陣と、典子の態度をそれぞれ思い出してみる。
 喫茶Dennouの女性陣は、恥ずかしがる事なくチョコレートをくれた。
 BARUでさえも恥ずかしそうではなかった。
 BARUはむしろ勘弁してほしい。
 ロールプレイのつもりだろうが、勘弁して欲しい。
 一方の典子は、気恥しさを明確に醸し出していた。
 こういう事は、ネットの方が気軽に接する事が出来る。
 
 
 
 
『やっぱり、実際に面と向かうわけじゃないのが大きいんじゃないかな。
 それに、本当の自分ではない、なりきった自分って面もあるからな』
『ま、そんな所だろうな』
 サイデンが相槌を打つ。
 ネットでは随分とさわやかな彼にもまた同じ事は言える。
 彼自身も、その辺りには思う所があるのだろう。
 
『チョコレートどころか、そういうシステムがあるものなら、ネトゲ婚だってできるしな』
 とサイデン。
『MMOだと実装している所があるよね』
『最近は殆ど見かけないけど、チャットゲームなんかにもあったシステムだな』
『へえ』
『同性キャラとも結婚できるゲームもあるな。
 それ位なんでもありだと、なおさらロールプレイ感が出て恥ずかしくないのかもしれない』
『なるほどねえ』
 ふむふむ、と首を振って納得する。
 
 
『そう言えば……結婚じゃないけれど、お前もデートに誘われた事あったよな』
『ああ……カオルの事?』
 懐かしい名前だった。
 目を細めながら尋ね返す。
『そうそう。カオルには助けられたよな……』
 サイデンも懐かしそうに言った。
 
 カオルは、デンノーズ設立時からメンバーと親しかった女性である。
 主人がツナミネットにアクセスして、初めて喋った女性でもある。
 様々な助言をもって、主人のネットライフをサポートしてくれた女性でもある。
 そして……ハッピースタジアムの決勝で、デンノーズを救う為に消滅した女性でもあった。
 
 
 
 
 
『主人君がデートに誘われた? なになに、どういう事だい?』
 そこへ、スターが階段を駆け上がりながら声を掛けてきた。
 今日も実にハイテンションである。
 
『あー……なんと言ったらいいかな』
 主人は返事に窮する。
 
 スターの加入時期と、カオルがデンノーズに入り浸っていた時期にはズレがある。
 彼がカオルを見たのは、ハッピースタジアム決勝後、ほんの僅かな時間である。
 だから、カオルという名前のログは彼も目にしたのだろうが、意味はよく分からないはずだ。
 カオルの事を知らない彼に、カオルとの関係を曲解されるのが怖かった。
 
 
 
『あれだよ。ラブエリアの話だ』
 不意にサイデンが口を挟んできた。
 突然なだけでなく、言葉の内容も意外なもので、主人はキョトンとしながらサイデンを見る。
 
 ラブエリアは、NPCキャラクターとの疑似恋愛が体験できる、ネット版恋愛ゲームのようなエリアである。
 転じて、プレイヤー同士の恋愛にも発展しているようで、入り浸っているユーザーも少なくはない。
 だが、主人は殆ど足を運んだ事はなく、彼の言葉に思い当たりはなかった。
 
 
 
『ラブエリアというと、ええと……』
 スターが首を傾げる。
 彼もあまり足を運んだ事はないようだ。
『あ……主人。そろそろBARUとスポーツエリアでカバディをする約束の時間じゃないか?』
 またサイデンが妙な事を言う。
 その様な約束はしていない。
 だがここまで言われれば、主人にも、サイデンの発言の意図は理解できた。
 
 
『ああ、そうだったな。スター、入れ違いでごめんな』
『いやいや、気にしなくていいよー!』
 スターは快い返事を返してくれた。
 もともと大して興味がなかったのだろうか、彼は他のメンバーと雑談する為に一階へ降りて行った。
 
 
 
 
 
 
 
 ………
 ……
 …
 
 
 
 
 
 
 
 主人とサイデンは喫茶Dennouから出た。
 喫茶店の暖かみのある部屋とは打って変って、青を基調として作られたサイバーチックな廊下に着く。
 ここがウェブ空間である事を感じさせる、これはこれで雰囲気のある造りだった。
 
 
 
『サイデン、ありがとな』
 出てすぐにサイデンに礼を言う。
『うん?』
『俺が返事に困ってたから、適当な事言って連れ出してくれたんだろ?』
『まあ、そういう事だ』
 サイデンがニヤリと笑った。
 良い奴だ、と思う。
 
『BARUには俺から口裏合わせるように頼んでおくよ。
 お、ちょうど本当にスポーツエリアにいるみたいだな』
 サイデンの発言を受けてフレンド一覧を確認する。
 名前欄の横に任意表示できるBARUの現在位置は、確かにスポーツエリアとなっていた。
 
『それじゃな、主人』
『おう。またなー』
 軽く挨拶をしてサイデンと別れる。
 だが、サイデンが去った後も、主人は暫く廊下に立ち尽くしていた。
 
 
 
 
 
「……ふう」
 小さく吐息を吐く。
 
 ツナミネットを始めて間もない頃の事を、ふと思い出した。
 半年程昔だ。
 そう古い日々ではないのだが、随分と感慨深い。
 カオルと出会った時に、ネット慣れしていない不器用な発言をした事を思い出す。
 彼女はそんな拙い自分を助けてくれた。
 カオルだけではない。サイデンとBARUの存在も印象的である。
 彼らもまた、デンノーズを盛り立てて助けてくれた。
 かけがえのない友人である、と思う。
 
 
 
「……カバディって、面白いのかな」
 自分でも良く分からない笑みを浮かべて、そう呟いた。
 椅子に腰かけ直し、マウスに手をかける。
 発言を個宛モードにして、サイデンとBARUを選択してキーボードを叩いた。
 
 
 
 
 
『カバディ、カバディ、カバディ』
『な、なんだニャン?』
『主人^^;』
 面食らう二人。
 当然である。

 彼らのいるスポーツエリアに、主人も歩き出した。